小林和幸編『明治史講義 【テーマ篇】』
ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2018年3月に刊行されました。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。
第1講●久住真也「開国と尊王攘夷─国是の模索」P11~28
日米和親条約は天保の薪水給与令の拡張的な性格も有しており、これにより「鎖国」が放棄されたわけではない、との解釈も可能だと指摘されています。「鎖国」体制の決定的な崩壊は日米修好通商条約とのことです。日米修好通商条約にさいして、幕府が事前に勅許を得ようとしたことは、同条約がじゅうらいの枠組みでは説明できないとの認識を幕府が有していたことを示すとともに、天皇・朝廷・諸藩の政治的役割の増大の契機にもなったようです。なお、尊王攘夷と公武合体運動を対立的に把握するのは妥当ではない、とも指摘されています。文久政変に関しては、薩摩藩と会津藩が主導したというより、孝明天皇が主役だった、との見解も提示されているそうです。
第2講●池田勇太「幕末雄藩と公議政体論─「公議」の運動からみる幕末政治」P29~43
「公議」という観点から幕末史が概観されています。「公議(公論、衆議など)」は、日本全体に関わる政治について、当局者以外の意見を聞くべきだ、との主張を正当化する言葉として用いられました。江戸時代には国政が基本的には徳川家直臣に独占されていましたが、大身の外様大名や親藩などから広く意見を集めよう、というわけです。「公議」の思想は根強く、薩摩藩への警戒からこれに反対した一橋(徳川)慶喜、さらには「一桑会」の有力諸藩軽視の方針が、一時的に幕府の権威を高めつつも、最終的には幕府を崩壊させ、「公議」は明治時代の基本方針にもなった、との見通しが提示されています。
第3講●友田昌宏「王政復古と維新政府─せめぎあう維新官僚と諸藩」P45~60
大政奉還から武力討幕を経て廃藩置県にいたるまでが概観されています。「公議政体派」と「武力討幕派」とは、共通の目標を有しつつも、その思惑に違いがあったと指摘されています。王政復古を経ても、薩摩藩の武力行使路線は広く支持を得ていたわけではなく、劣勢でしたが、鳥羽伏見の戦いが状況を大きく変えたようです。おもに薩摩藩と長州藩の藩士から構成された維新官僚にとって、京都の朝廷の伝統的身分制度は大きな壁となり、それ故に遷都が実行された、という側面もあるようです。廃藩置県については、諸藩が率先して廃藩を願い出ることで、政権に参入して薩長に対抗しようという意図もあった、と指摘されています。
第4講●落合弘樹「廃藩置県・秩禄処分─分権から集権へ」P61~74
廃藩置県・秩禄処分の過程が解説されています。いかに中央集権化と旧来の特権の廃止を進めていくのかが、明治政府にとって難問でした。士族の家禄の廃止が、反発、さらには反乱への危惧から慎重に進められていき、政府内部でも具体的な過程・内容については意見が一致していなかった、と了解されます。このようにして「近世」を克服して近代国家への道を歩んでいった日本ですが、旧支配層の身分がほとんど無血で解体され、特権を政府が買い取る形で完全に解消された事例は、世界史でも稀有だと評価されています。
第5講●大島朋子「陸海軍の創設─徴兵制の選択と統帥権の独立」P75~94
明治の陸海軍の創設過程が解説されています。幕藩体制を動揺させたのは海防問題だったので、海軍の近代化を優先すべきとの認識は広く共有されていたものの、長州戦争以降の内戦は陸戦主体となったため、海軍の近代化は遅れた、と指摘されています。兵農分離で士族が軍事を専門的に担う体制から、徴兵制により国民が軍に動員される体制へと移行していき、軍と政治との関わりも試行錯誤を経て整備されていきました。その結果として出された軍人勅諭は、死は鴻毛より軽いと覚悟せよ、と訴え、有事における勇ましい奉公を謳った教育勅語と併せて、むしろ江戸時代の武士の忠誠の方が個を重んじていたのではないか、と評価されています。
第6講●山口輝臣「明治前期の国家と神社・宗教─神社が宗教ではなかったのはなぜか」P95~108
戦前、政府は伊勢神社・出雲大社のような大神社から町・村の小さな祠まで、神社を宗教ではないとしていました。その理由は、政府が神社は宗教ではないというまやかしの論理を用いて優遇したことにあり、それこそが国家神道の正体だ、との見解が長く定説とされてきました。しかし、そうした見解は現在では有力説ではないそうです。宗教は明治時代に訳語として定着していき、日本の思想風土の中で宗教とそうでないものとが選別されていきました。三教とされた神・仏・儒のうち、当事者たちの意向が大きく影響して、まず仏教が宗教として認知され、儒教は学問とされました。神道のうち、教派神道は宗教として認知されましたが、神社は宗教ではない、とされました。これは、宗教とはキリスト教と仏教に共通する教義・教会(寺院)組織などを備えているものとの認識が定着し、それらが曖昧な神社が宗教ではないと考えられたのは、当時にあっては自然なことでした。福沢諭吉や井上毅など当時の一線級の知識人はそう考えており、政府はそうした見解に基づいて仕組みを作ったにすぎない、というわけです。また本論文は、維新当時の計画がそのままの方向性で進められたのではなく、大きな軌道修正があったことも強調しています。大日本帝国憲法制定時には、先進諸国では国教を定めつつも信教の自由を認めるのが基準となっていましたが、日本には国教を定められるような実態がないとの認識から、皇室を基軸とした国家運営が主張された、との指摘も注目されます。
第7講●小野聡子「万国公法と台湾出兵─新しい国際秩序への一階梯」P109~124
台湾出兵により、日本が万国公法(国際法)の理解を深めていった過程が解説されています。前近代の日本は華夷秩序的価値観にあり、明治維新後、近代化にともない、欧米列強により形成されていった新たな「国際秩序」への理解・参入が必須とされました。本論文は、台湾出兵の過程での駐日イギリス公使パークスの日本政府にたいする「厳しい」姿勢が、日本政府の万国公法理解を促した、と指摘しています。また、そうした万国公法理解の進展にともない、「無主地」たる小笠原諸島を「先占」するにいたったことも指摘されています。
第8講●中元崇智「自由民権運動と藩閥政府─板垣遭難と民権運動の展開」P125~141
板垣退助が西郷隆盛とともに下野し、民撰議員設立建白書を提出してから自由党の解党までの自由民権運動が概観されています。自由民権運動の展開のなかで最初の転機になったのは西南戦争で、板垣は西郷軍に呼応しての決起も想定していたようですが、戦局は政府軍に有利となり、板垣はけっきょく挙兵せず、結果として自由民権運動の活動家の温存につながりました。自由民権運動は板垣殺害未遂事件により盛り上がりましたが、政府側の弾圧もあり、凋落も早かったという印象を受けます。近年では、自由民権運動について、身分制社会に替わる社会の建設を目指したとの評価もあるそうです。
第9講●鈴木淳「西南戦争と新技術─海軍・汽船・熊本城籠城」P143~158
西南戦争前の各地の士族反乱から西南戦争にかけての推移が、おもに新技術の導入・対応という観点から解説されています。西南戦争の一般的な印象と言えば、新兵器も含めて物量に優る政府軍が勇敢ではあるものの旧式装備で物量の劣る西郷軍を圧倒した、というものでしょうが、本論考は、西郷軍が幕末以来の薩摩の先進的軍事技術を活用できた、と指摘しています。また、熊本城が早期に陥落していれば、各地の不平士族の決起を招来して戦争は長期化し、政府軍が勝ったとしても、その後の歴史は大きく変わっただろう、とも指摘されています。
第10講●真辺将之「明治一四年の政変─大隈重信はなぜ追放されたか」P159~178
大隈重信が失脚した明治14年の政変について解説されています。大隈の直接的な失脚要因は、急進的な憲法意見書を提出したことと、開拓使官有物払下げ問題で福沢諭吉や民権派と結託したみなされたことでした。本書はその他に、大隈が西南戦争後のインフレ進行と正貨流出に対処できず、大隈の財政運営能力への不信感が醸成されていたことも指摘しています。ただ、大隈の憲法意見書は急進的とはいっても、それは民権運動に迎合したのではなく、むしろ対抗したものだったことが指摘されています。それと関連して、開拓使官有物払下げ問題で民権派と結託したわけではなかったことも指摘されています。本論文は、大隈の失脚はその後の歴史に大きな影響を与えた、との見解を提示しています。イギリス流の議院内閣制が排されてドイツ流の行政権の強い憲法が制定されることになり、財政面では松方正義主導に替わり、デフレが進行して農村は大打撃を受けました。
第11講●西川誠「内閣制度の創設と皇室制度─伊藤博文のプランニングの再検討」P179~195
内閣制度の導入に関しては、憲法公布を見据えての予定に沿ってのものというよりは、地方経営をめぐる深刻な対立から、省の統廃合や卿の変更、さらには政治力に欠ける三条実美の更迭が必要だった、との意図が論じられています。皇室制度を規定した皇室典範に関しては、家法と位置づけられて国法とは分離したことと、譲位と女帝の禁止など、前近代の慣習とは一致しない場合もあったことが指摘されています。
第12講●前田亮介「大日本帝国憲法─政治制度の設計とその自律」P197~218
大日本帝国憲法の制定過程について解説されています。憲法草案の作成において伊藤博文と井上毅はしばしば対立しました。しかし、これを進歩的な伊藤と保守的な井上という通俗的印象で単純に把握することは妥当ではない、と指摘されています。井上は一貫して議会の権限を守ろうとしたのに対して、伊藤は議会にたいして冷淡もしくは無頓着だったそうです。君主と内閣の関係をめぐっても伊藤と井上は対立し、井上は天皇大権を曖昧な表現にとどめて天皇の神聖性を保とうとしたのに対して、伊藤は大臣輔弼制を明文化しようとし、けっきょくこの問題は伊藤が勝利します。大日本帝国憲法では当初は想定されていなかった海外領土の拡大といった事態への対応といった展望が提示されているのも興味深いと思います。
第13講●村瀬信一「帝国議会の開幕─衆議院の「民党」と「吏党」」P219~233
初期議会の動向が解説されています。初期議会は、政府が「超然主義」の方針をとったこともあり、与党と野党ではなく、民党と吏党という枠組みで把握されました。しかし、有権者も立候補者も地主階層が多いなか、民党も吏党も違いを示すのに苦労したところがあるようです。また、初期議会の政党は組織化が進んでおらず、おもに地主階層の地域の名士が議員だったので、個人の力で当選した側面が強く、政党への帰属意識は弱かったようです。このような議会が、政府への対応などで経験を積んでいき、やがてもっと本格的な政党が形成されていく、ということなのでしょう。
第14講●小林和幸「貴族院の華族と勅任議員─創設の理念と初期の政治会派」P235~253
特権階級の代表で藩閥政治に忠実であり、立憲政治の疎外者として認識されてきた貴族院の見直し傾向が取り上げられています。貴族院は社会上層の代表者として、派閥的利害に囚われず、に欠けると懸念された「公議」・「学識」をもって国家的見地から衆議院の横暴を牽制し、政党からも政府からも独立した存在となるよう、期待されました。しかし、衆議院での民党と藩閥政府との対立が激化すると、藩閥政府は貴族院を取り込もうとします。しかし、初期議会では公認されずとも実質的に会派が誕生していき、各会派と政府との距離は様々でした。こうした貴族院の性格は、自分たちは皇室の藩屏であって政府の擁護者ではない、との認識にも由来するようです。
第15講●小宮一夫「条約改正問題─不平等条約の改正と国家の独立」P255~274
幕末に江戸幕府が日本を代表して西洋諸国と締結した条約は不平等だとの認識が社会に定着したのは明治時代になってからでした。条約締結当初の日本社会の認識では、片務的最恵国待遇が不平等であるとの認識はありませんでした。明治時代になり、これら幕末に締結された西洋諸国との条約が不平等との認識が、政府内で急速に広がります。しかし、民間では同様の認識はなかなか定着せず、不平等条約との認識が急速に広まった契機となったのは、1886年のノルマントン号事件でした。
第16講●佐々木雄一「日清戦争─日本と東アジアの転機」P275~294
日清戦争は日本政府の長期的計画に基づく必然だった、との見解は今では否定されており、朝鮮出兵以降の動向に左右されて開戦した、との見解が今では有力なようです。ただ、朝鮮を独立国として扱おうとする日本と、朝鮮での影響力を保持したい清との間の対立の解決は容易ではなかったようです。この過程で、外相の陸奥宗光の役割が大きく評価されてきましたが、当時の内政と外政を掌握していたのは伊藤博文で、朝鮮出兵以降の陸奥の対応は長期的展望を欠いた場当たり的なものだった、と指摘されています。
第17講●千葉功「日英同盟と日露戦争─最初の帝国主義戦争」P295~309
本論考はおもに、日露戦争へといたる過程もさらには日露戦争が勃発して終結するまでを、外交面から解説しています。本論考では日露戦争が帝国主義戦争だったと指摘されていますが、日本側の「満韓交換」というロシア側への提案は、確かに露骨な帝国主義だとは思います。日露戦争前は、日本にとって重要な外交問題は韓国の確保でしたが、日露開戦にともない韓国を制圧して支配を強化していくと、日本にとって韓国は主要な外交問題ではなくなり、ロシアとの戦争の舞台となった満洲をめぐる攻防が、日本にとって新たな外交問題として浮上します。
第18講●日向玲理「植民地経営の開始─統治形態の模索と立憲主義」P311~330
日清戦争後、日本は憲法で想定されていなかった新たな領土を獲得することになります。新たな領土をどう統治するのか、政府で議論となりましたが、本国の法律・制度を適用するフランス型の「内地延長主義」ではなく、植民地は本国とは別とするイギリス型の「特別統治主義」が採用されました。ただ、台湾では、後者を原則としつつも前者の要素も取り入れられました。日露戦争後、日本は樺太・満洲・朝鮮も支配するようになりますが、ここでも「内地延長主義」と「特別統治主義」の間で多様かつ複雑な統治が進行しました、南樺太は、日本との近接性・日本人移住者の多数性といった事情から、早期に内地化が進みました。
第19講●原口大輔「桂園時代─議会政治の定着と「妥協」」P331~344
いわゆる桂園時代は相対的安定期と評価されています。本論考は、桂園時代における妥協的政治が、大日本帝国憲法に規定された議会政治の枠組みにおける工夫だった、と指摘しています。しかし一方で、本会議での議論の減少や、議会審議を経ることで少数派の多様な意見を取り入れる余地は少なくなった、とも指摘されています。その結果として、桂園の妥協や議会での審議に参加できない人々にとって、政治的主張の場は議会外に求めざるを得ず、外交問題から突破口が見いだされるような傾向も生じました。
第20講●櫻井良樹「大正政変─政界再編成における内外要因」P345~360
大正政変は、藩閥・陸軍の横暴にたいする民衆の勝利で、大正デモクラシーの出発を象徴する事件だったとされますが、近年では、その背景の諸政治勢力間の激しい利害対立や、対外方針の対立が注目されているそうです。陸軍2個師団増設問題から西園寺内閣は退陣に追い込まれ、後継首相となった桂太郎は、陸軍・藩閥(長州藩)出身のため大きな反発を招来し、第一次護憲運動によりわずか50日ほどで退陣に追い込まれます。本論考は、桂がじゅうらいの有力政党(政友会)と妥協した藩閥的政治を維持・強化しようとしたのではなく、台頭する都市民衆や辛亥革命など内外の新たな情勢に対応すべく、新党を結成してこれまでとは異なる政治運営を目指したのではないか、と推測しています。
第1講●久住真也「開国と尊王攘夷─国是の模索」P11~28
日米和親条約は天保の薪水給与令の拡張的な性格も有しており、これにより「鎖国」が放棄されたわけではない、との解釈も可能だと指摘されています。「鎖国」体制の決定的な崩壊は日米修好通商条約とのことです。日米修好通商条約にさいして、幕府が事前に勅許を得ようとしたことは、同条約がじゅうらいの枠組みでは説明できないとの認識を幕府が有していたことを示すとともに、天皇・朝廷・諸藩の政治的役割の増大の契機にもなったようです。なお、尊王攘夷と公武合体運動を対立的に把握するのは妥当ではない、とも指摘されています。文久政変に関しては、薩摩藩と会津藩が主導したというより、孝明天皇が主役だった、との見解も提示されているそうです。
第2講●池田勇太「幕末雄藩と公議政体論─「公議」の運動からみる幕末政治」P29~43
「公議」という観点から幕末史が概観されています。「公議(公論、衆議など)」は、日本全体に関わる政治について、当局者以外の意見を聞くべきだ、との主張を正当化する言葉として用いられました。江戸時代には国政が基本的には徳川家直臣に独占されていましたが、大身の外様大名や親藩などから広く意見を集めよう、というわけです。「公議」の思想は根強く、薩摩藩への警戒からこれに反対した一橋(徳川)慶喜、さらには「一桑会」の有力諸藩軽視の方針が、一時的に幕府の権威を高めつつも、最終的には幕府を崩壊させ、「公議」は明治時代の基本方針にもなった、との見通しが提示されています。
第3講●友田昌宏「王政復古と維新政府─せめぎあう維新官僚と諸藩」P45~60
大政奉還から武力討幕を経て廃藩置県にいたるまでが概観されています。「公議政体派」と「武力討幕派」とは、共通の目標を有しつつも、その思惑に違いがあったと指摘されています。王政復古を経ても、薩摩藩の武力行使路線は広く支持を得ていたわけではなく、劣勢でしたが、鳥羽伏見の戦いが状況を大きく変えたようです。おもに薩摩藩と長州藩の藩士から構成された維新官僚にとって、京都の朝廷の伝統的身分制度は大きな壁となり、それ故に遷都が実行された、という側面もあるようです。廃藩置県については、諸藩が率先して廃藩を願い出ることで、政権に参入して薩長に対抗しようという意図もあった、と指摘されています。
第4講●落合弘樹「廃藩置県・秩禄処分─分権から集権へ」P61~74
廃藩置県・秩禄処分の過程が解説されています。いかに中央集権化と旧来の特権の廃止を進めていくのかが、明治政府にとって難問でした。士族の家禄の廃止が、反発、さらには反乱への危惧から慎重に進められていき、政府内部でも具体的な過程・内容については意見が一致していなかった、と了解されます。このようにして「近世」を克服して近代国家への道を歩んでいった日本ですが、旧支配層の身分がほとんど無血で解体され、特権を政府が買い取る形で完全に解消された事例は、世界史でも稀有だと評価されています。
第5講●大島朋子「陸海軍の創設─徴兵制の選択と統帥権の独立」P75~94
明治の陸海軍の創設過程が解説されています。幕藩体制を動揺させたのは海防問題だったので、海軍の近代化を優先すべきとの認識は広く共有されていたものの、長州戦争以降の内戦は陸戦主体となったため、海軍の近代化は遅れた、と指摘されています。兵農分離で士族が軍事を専門的に担う体制から、徴兵制により国民が軍に動員される体制へと移行していき、軍と政治との関わりも試行錯誤を経て整備されていきました。その結果として出された軍人勅諭は、死は鴻毛より軽いと覚悟せよ、と訴え、有事における勇ましい奉公を謳った教育勅語と併せて、むしろ江戸時代の武士の忠誠の方が個を重んじていたのではないか、と評価されています。
第6講●山口輝臣「明治前期の国家と神社・宗教─神社が宗教ではなかったのはなぜか」P95~108
戦前、政府は伊勢神社・出雲大社のような大神社から町・村の小さな祠まで、神社を宗教ではないとしていました。その理由は、政府が神社は宗教ではないというまやかしの論理を用いて優遇したことにあり、それこそが国家神道の正体だ、との見解が長く定説とされてきました。しかし、そうした見解は現在では有力説ではないそうです。宗教は明治時代に訳語として定着していき、日本の思想風土の中で宗教とそうでないものとが選別されていきました。三教とされた神・仏・儒のうち、当事者たちの意向が大きく影響して、まず仏教が宗教として認知され、儒教は学問とされました。神道のうち、教派神道は宗教として認知されましたが、神社は宗教ではない、とされました。これは、宗教とはキリスト教と仏教に共通する教義・教会(寺院)組織などを備えているものとの認識が定着し、それらが曖昧な神社が宗教ではないと考えられたのは、当時にあっては自然なことでした。福沢諭吉や井上毅など当時の一線級の知識人はそう考えており、政府はそうした見解に基づいて仕組みを作ったにすぎない、というわけです。また本論文は、維新当時の計画がそのままの方向性で進められたのではなく、大きな軌道修正があったことも強調しています。大日本帝国憲法制定時には、先進諸国では国教を定めつつも信教の自由を認めるのが基準となっていましたが、日本には国教を定められるような実態がないとの認識から、皇室を基軸とした国家運営が主張された、との指摘も注目されます。
第7講●小野聡子「万国公法と台湾出兵─新しい国際秩序への一階梯」P109~124
台湾出兵により、日本が万国公法(国際法)の理解を深めていった過程が解説されています。前近代の日本は華夷秩序的価値観にあり、明治維新後、近代化にともない、欧米列強により形成されていった新たな「国際秩序」への理解・参入が必須とされました。本論文は、台湾出兵の過程での駐日イギリス公使パークスの日本政府にたいする「厳しい」姿勢が、日本政府の万国公法理解を促した、と指摘しています。また、そうした万国公法理解の進展にともない、「無主地」たる小笠原諸島を「先占」するにいたったことも指摘されています。
第8講●中元崇智「自由民権運動と藩閥政府─板垣遭難と民権運動の展開」P125~141
板垣退助が西郷隆盛とともに下野し、民撰議員設立建白書を提出してから自由党の解党までの自由民権運動が概観されています。自由民権運動の展開のなかで最初の転機になったのは西南戦争で、板垣は西郷軍に呼応しての決起も想定していたようですが、戦局は政府軍に有利となり、板垣はけっきょく挙兵せず、結果として自由民権運動の活動家の温存につながりました。自由民権運動は板垣殺害未遂事件により盛り上がりましたが、政府側の弾圧もあり、凋落も早かったという印象を受けます。近年では、自由民権運動について、身分制社会に替わる社会の建設を目指したとの評価もあるそうです。
第9講●鈴木淳「西南戦争と新技術─海軍・汽船・熊本城籠城」P143~158
西南戦争前の各地の士族反乱から西南戦争にかけての推移が、おもに新技術の導入・対応という観点から解説されています。西南戦争の一般的な印象と言えば、新兵器も含めて物量に優る政府軍が勇敢ではあるものの旧式装備で物量の劣る西郷軍を圧倒した、というものでしょうが、本論考は、西郷軍が幕末以来の薩摩の先進的軍事技術を活用できた、と指摘しています。また、熊本城が早期に陥落していれば、各地の不平士族の決起を招来して戦争は長期化し、政府軍が勝ったとしても、その後の歴史は大きく変わっただろう、とも指摘されています。
第10講●真辺将之「明治一四年の政変─大隈重信はなぜ追放されたか」P159~178
大隈重信が失脚した明治14年の政変について解説されています。大隈の直接的な失脚要因は、急進的な憲法意見書を提出したことと、開拓使官有物払下げ問題で福沢諭吉や民権派と結託したみなされたことでした。本書はその他に、大隈が西南戦争後のインフレ進行と正貨流出に対処できず、大隈の財政運営能力への不信感が醸成されていたことも指摘しています。ただ、大隈の憲法意見書は急進的とはいっても、それは民権運動に迎合したのではなく、むしろ対抗したものだったことが指摘されています。それと関連して、開拓使官有物払下げ問題で民権派と結託したわけではなかったことも指摘されています。本論文は、大隈の失脚はその後の歴史に大きな影響を与えた、との見解を提示しています。イギリス流の議院内閣制が排されてドイツ流の行政権の強い憲法が制定されることになり、財政面では松方正義主導に替わり、デフレが進行して農村は大打撃を受けました。
第11講●西川誠「内閣制度の創設と皇室制度─伊藤博文のプランニングの再検討」P179~195
内閣制度の導入に関しては、憲法公布を見据えての予定に沿ってのものというよりは、地方経営をめぐる深刻な対立から、省の統廃合や卿の変更、さらには政治力に欠ける三条実美の更迭が必要だった、との意図が論じられています。皇室制度を規定した皇室典範に関しては、家法と位置づけられて国法とは分離したことと、譲位と女帝の禁止など、前近代の慣習とは一致しない場合もあったことが指摘されています。
第12講●前田亮介「大日本帝国憲法─政治制度の設計とその自律」P197~218
大日本帝国憲法の制定過程について解説されています。憲法草案の作成において伊藤博文と井上毅はしばしば対立しました。しかし、これを進歩的な伊藤と保守的な井上という通俗的印象で単純に把握することは妥当ではない、と指摘されています。井上は一貫して議会の権限を守ろうとしたのに対して、伊藤は議会にたいして冷淡もしくは無頓着だったそうです。君主と内閣の関係をめぐっても伊藤と井上は対立し、井上は天皇大権を曖昧な表現にとどめて天皇の神聖性を保とうとしたのに対して、伊藤は大臣輔弼制を明文化しようとし、けっきょくこの問題は伊藤が勝利します。大日本帝国憲法では当初は想定されていなかった海外領土の拡大といった事態への対応といった展望が提示されているのも興味深いと思います。
第13講●村瀬信一「帝国議会の開幕─衆議院の「民党」と「吏党」」P219~233
初期議会の動向が解説されています。初期議会は、政府が「超然主義」の方針をとったこともあり、与党と野党ではなく、民党と吏党という枠組みで把握されました。しかし、有権者も立候補者も地主階層が多いなか、民党も吏党も違いを示すのに苦労したところがあるようです。また、初期議会の政党は組織化が進んでおらず、おもに地主階層の地域の名士が議員だったので、個人の力で当選した側面が強く、政党への帰属意識は弱かったようです。このような議会が、政府への対応などで経験を積んでいき、やがてもっと本格的な政党が形成されていく、ということなのでしょう。
第14講●小林和幸「貴族院の華族と勅任議員─創設の理念と初期の政治会派」P235~253
特権階級の代表で藩閥政治に忠実であり、立憲政治の疎外者として認識されてきた貴族院の見直し傾向が取り上げられています。貴族院は社会上層の代表者として、派閥的利害に囚われず、に欠けると懸念された「公議」・「学識」をもって国家的見地から衆議院の横暴を牽制し、政党からも政府からも独立した存在となるよう、期待されました。しかし、衆議院での民党と藩閥政府との対立が激化すると、藩閥政府は貴族院を取り込もうとします。しかし、初期議会では公認されずとも実質的に会派が誕生していき、各会派と政府との距離は様々でした。こうした貴族院の性格は、自分たちは皇室の藩屏であって政府の擁護者ではない、との認識にも由来するようです。
第15講●小宮一夫「条約改正問題─不平等条約の改正と国家の独立」P255~274
幕末に江戸幕府が日本を代表して西洋諸国と締結した条約は不平等だとの認識が社会に定着したのは明治時代になってからでした。条約締結当初の日本社会の認識では、片務的最恵国待遇が不平等であるとの認識はありませんでした。明治時代になり、これら幕末に締結された西洋諸国との条約が不平等との認識が、政府内で急速に広がります。しかし、民間では同様の認識はなかなか定着せず、不平等条約との認識が急速に広まった契機となったのは、1886年のノルマントン号事件でした。
第16講●佐々木雄一「日清戦争─日本と東アジアの転機」P275~294
日清戦争は日本政府の長期的計画に基づく必然だった、との見解は今では否定されており、朝鮮出兵以降の動向に左右されて開戦した、との見解が今では有力なようです。ただ、朝鮮を独立国として扱おうとする日本と、朝鮮での影響力を保持したい清との間の対立の解決は容易ではなかったようです。この過程で、外相の陸奥宗光の役割が大きく評価されてきましたが、当時の内政と外政を掌握していたのは伊藤博文で、朝鮮出兵以降の陸奥の対応は長期的展望を欠いた場当たり的なものだった、と指摘されています。
第17講●千葉功「日英同盟と日露戦争─最初の帝国主義戦争」P295~309
本論考はおもに、日露戦争へといたる過程もさらには日露戦争が勃発して終結するまでを、外交面から解説しています。本論考では日露戦争が帝国主義戦争だったと指摘されていますが、日本側の「満韓交換」というロシア側への提案は、確かに露骨な帝国主義だとは思います。日露戦争前は、日本にとって重要な外交問題は韓国の確保でしたが、日露開戦にともない韓国を制圧して支配を強化していくと、日本にとって韓国は主要な外交問題ではなくなり、ロシアとの戦争の舞台となった満洲をめぐる攻防が、日本にとって新たな外交問題として浮上します。
第18講●日向玲理「植民地経営の開始─統治形態の模索と立憲主義」P311~330
日清戦争後、日本は憲法で想定されていなかった新たな領土を獲得することになります。新たな領土をどう統治するのか、政府で議論となりましたが、本国の法律・制度を適用するフランス型の「内地延長主義」ではなく、植民地は本国とは別とするイギリス型の「特別統治主義」が採用されました。ただ、台湾では、後者を原則としつつも前者の要素も取り入れられました。日露戦争後、日本は樺太・満洲・朝鮮も支配するようになりますが、ここでも「内地延長主義」と「特別統治主義」の間で多様かつ複雑な統治が進行しました、南樺太は、日本との近接性・日本人移住者の多数性といった事情から、早期に内地化が進みました。
第19講●原口大輔「桂園時代─議会政治の定着と「妥協」」P331~344
いわゆる桂園時代は相対的安定期と評価されています。本論考は、桂園時代における妥協的政治が、大日本帝国憲法に規定された議会政治の枠組みにおける工夫だった、と指摘しています。しかし一方で、本会議での議論の減少や、議会審議を経ることで少数派の多様な意見を取り入れる余地は少なくなった、とも指摘されています。その結果として、桂園の妥協や議会での審議に参加できない人々にとって、政治的主張の場は議会外に求めざるを得ず、外交問題から突破口が見いだされるような傾向も生じました。
第20講●櫻井良樹「大正政変─政界再編成における内外要因」P345~360
大正政変は、藩閥・陸軍の横暴にたいする民衆の勝利で、大正デモクラシーの出発を象徴する事件だったとされますが、近年では、その背景の諸政治勢力間の激しい利害対立や、対外方針の対立が注目されているそうです。陸軍2個師団増設問題から西園寺内閣は退陣に追い込まれ、後継首相となった桂太郎は、陸軍・藩閥(長州藩)出身のため大きな反発を招来し、第一次護憲運動によりわずか50日ほどで退陣に追い込まれます。本論考は、桂がじゅうらいの有力政党(政友会)と妥協した藩閥的政治を維持・強化しようとしたのではなく、台頭する都市民衆や辛亥革命など内外の新たな情勢に対応すべく、新党を結成してこれまでとは異なる政治運営を目指したのではないか、と推測しています。
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