木村光彦『日本統治下の朝鮮 統計と実証研究は何を語るか』
中公新書の一冊として、中央公論新社から2018年4月に刊行されました。本書は経済問題に限定して、日本の朝鮮半島支配を実証的に検証しようとしています。著者はかつて、韓国の高校生向け教育番組において、朝鮮における日本の支配は世界の植民地支配のなかで最悪だった、との見解が受け入れられている様子であることに疑問を抱き、それが本書の執筆動機になっています。世界の植民地支配をすべて調べて比較したのか、そもそも最悪とはどのような意味なのか、などといった疑問です。
本書はまず、1910年の日韓併合時点での朝鮮の経済状況を概観します。当時の朝鮮は都市商業や工業が未発達で、1870年代の日本よりも農業への依存度が高かったようです。当時の朝鮮の米作の生産性は、同じ頃の日本よりかなり低かったそうですが(半分程度)、これは技術的な問題が大きいようで、灌漑設備が少なく、肥料は自給自足といった事情がありました。前近代おいて、朝鮮の初等教育は日本より未発達だったようです。両者の大きな違いは、日本ではそれなりに女性がおり、「実用的」知識も教えられていたいのに対して、朝鮮では女子がほぼおらず、「実用的」知識は教えられず、ほぼ儒教の古典に依拠していたことです。
日本による保護国化を経て、1910年以降、朝鮮は日本の統治下におかれます。これはオランダ領東インド諸島と同じく直接的統治で、イギリスによる間接的なインド統治とは対照的です。日本の朝鮮統治は、1919年の万歳騒擾事件(三・一独立運動)を契機に武断政治から文化政治へと大きく変わりました。警察の拡充など朝鮮における支配機構の肥大から、朝鮮総督府の財政自立が進んで1919年には全廃された補充金が、1920年以降再び、1911~1912年以上の水準にまで増額されました。しかし、後述するように、日本財政における負担割合は低下していきました。とはいえ、朝鮮の租税負担率は「内地」の3~4割、台湾の6~7割程度だったので、朝鮮財政は補充金と公債金が欠かせなくなり、「内地」依存型から完全には脱却できませんでした。
1910年以降、朝鮮の産業構造は大きく変わりました。1912年には国内総生産のうち第一次産業が7割近くを占めていましたが、1939年には4割程度に低下しています。これは第一次産業の衰退を意味するのではなく、相対的には縮小したものの、絶対的には成長しました。米の生産量は、1910年代初めには1200万石前後でしたが、1937年には2700万石まで増加します。米の生産性も1.6~2倍程度に上昇しました。ただ、朝鮮総督府は土地改良や優良品種の普及などによる米の生産性の向上には熱心でしたが、大豆・大麦・粟など畑の作物への関心は低く、生産性は低下傾向にあったようです。なお、この間、土地調書事業で農民の多数が土地を喪失したわけではなかった、と指摘されており、じゅうらいの有力説が否定されています。
上記の国内総生産の割合の変化から窺えるように、朝鮮は日本統治下で工業化が進展します。これは欧米の植民地にはない特異なものだった、と本書では指摘されています。「内地」にもない巨大水力発電所とそれに依拠する大規模工場群の建設は、日本統治下の朝鮮と欧米の植民地との違いを際立たたせる、というわけです。産業発展の主導者は「内地人」でしたが、朝鮮人の側にも、自発的な模倣や企業者精神が明瞭に見られました。驚異的な工業化の進展は、統治側・被統治側双方の力が結合したものだった、と本書は評価しています。なお、このように朝鮮人が主体的に工業化に関わった一因として、朝鮮における華人の少なさが指摘されています。華人がいれば、朝鮮人は経済的にその家風に立たされていたのではないか、というわけです。
このように、日本統治下の朝鮮では、農業生産が増大し、工業化が大きく進展しました。では、多数の朝鮮人の生活水準はどうだったのかというと、主観的要素も大きいので評価は難しい、と指摘されています。日本統治下で激減したと推定されている1人当たりの米消費量について、たとえば、1920~1930年にかけて0.63石から0.45石に減少したとの推定は間違いで、減少はしたものの、その程度はさほど大きくなかった、と指摘されています。具体的には、1915~1919年には0.589石、1930~1933年には0.556石、1934~1936年には0.511石、1936~1940年には0.555石です。
身長を指標とすると、日本統治下の朝鮮では、一般人の生活水準は大きくは変わらなかったのではないか、と推測されています。経済は大きく成長したものの、人口増加と平均寿命の向上により、生活水準自体は大きく変わらなかった、ということかもしれません。経済が成長しても生活水準が大きく変わらなかったとすると、主観的には貧しくなった、との実感が生じるかもしれません。ただ、公衆衛生や鉄道のような交通手段の発達は顕著なので、その点では生活水準の向上を実感した人もいるかもしれません。
総合的には、日本は朝鮮を比較的低コストで統治しました。朝鮮における治安維持に成功し、経済成長も促進しました。朝鮮からの米の移入が「内地」の農家に打撃を与えたようなこともあったものの、総じて日本経済に占める朝鮮の比重は小さく、財政面でも日本政府の負担は小さくて、歳出総額に占める朝鮮統治の財政負担割合は、併合後次第に低下していきました。日本の朝鮮領有はレーニンの帝国主義理論のような経済決定論では説明できず、安全保障的観点が色濃いものでした。
このような比較的安定した日本の朝鮮統治が大きく変わったのが、日中戦争以降、とくに太平洋戦争以降のことでした。当時の日本の国力では無理のある総力戦体制が企図され、経済統制が進展していきます。1940年代になると、農業生産は低下し、生産性も低下します。これは、朝鮮および「内地」の工業部門への労働力流出、資材・肥料の不足、過大な供出などが要因でした。一方、1940年以降、農業生産とは対照的に鉱工業生産は増大しました。これは、戦争遂行が優先されたからでした。1940年以降、とくに太平洋戦争以降、日本は絶望的な総力戦に突入し、朝鮮を巻き込みました。現在の日韓の歴史問題の多くはこの時期に根源がある、と本書は指摘します。
朝鮮経済は戦時期に内地経済により従属するようになった、との見解がじゅうらいは有力でしたが、じっさいには逆で、大日本帝国政府は、長期戦に備えての朝鮮における「戦争経済」構築のため、本国から自立した軍事および非軍事工業の建設を企図しました。戦時期には朝鮮と満洲との経済的結びつきが強くなり、朝鮮・満洲の自立的工業の建設は、完全に達成されたわけではないとしても、敗戦までに大きく前進しました。朝鮮は米軍の爆撃対象にならなかったので、インフラ・工業設備は温存されました。
本書は、表題とは異なり、北部(朝鮮民主主義人民共和国)と南部(大韓民国)に分断された第二次世界大戦後も検証しています。本書はまず、南北の違いを指摘していきます。日本統治下の朝鮮では、インフラ・鉱物資源・工業設備の多くは北部に存在しました。鉄道の路線距離も、面積・人口あたりのいずれでも北部の方が上でした。農業に関しても、1人当たりの食糧生産能力では、北部が南部を凌駕していました。こうした状況を前提として、本書は南北の違いを検証していきます。
第二次世界大戦後の朝鮮に関しては、人材面では、北部の非連続性と南部の連続性が指摘されています。しかし、イデオロギーの観点からは、全体主義という点で戦前と戦後(独立後)の朝鮮北部における連続性が指摘されています。北部では、体制転換は統治の理念もしくは精神の根本的変革を必要としなかったので、大きな混乱がなかった、というわけです。一方南部では、統治理念の全面的な転換が図られ、北部と比較して大きな混乱が見られました(李承晩大統領のデモによる退陣など)。経済面に関しては、北部では日本統治時代の戦時期に続いて統制経済が採用されました。しかし南部では、市場経済が基盤となりました。
ソ連は朝鮮北部から穀物・工業原料・製品のみならず工業設備も解体して持ち去りましたが、それは初期に留まり、規模も限定的でした。北部は軍事優先の国家体制構築を進め、日本統治時代の産業遺産は経済の根幹であり続けましたが、軍事偏重は長期にわたる経済停滞をもたらしました。一方南部では、軍事工業の解体と民需中心経済への転換が図られました。南部が日本統治時代から継承した工業設備は北部よりずっと少なかったものの、交通・通信・農業など、さらには人材面で継承した遺産は少なくはなく、朴正熙政権の優れた指導力のもと、経済が発展して北部を圧倒するに至ります。
本書はこのように、日本統治下の朝鮮を経済に限定して検証し、さらには戦後の南北朝鮮をも視野に入れています。日本統治下の朝鮮の近代化を強調する見解は大韓民国でも主張されており、「ニューライト」と呼ばれています。こうした動向自体は、随分と前から知っていたので、本書の見解はさほど意外ではありませんでした。しかし、この問題に関しては不勉強だったので、本書のように一般向けにやや詳しく解説した書籍を読んだことがなく、本書は大いに参考になりました。本書の見解に激しく反発する人は少なくないでしょうが、議論の前提となる根拠を具体的に提示したというだけでも、一般社会における本書の意義はとても大きいと思います。
本書はまず、1910年の日韓併合時点での朝鮮の経済状況を概観します。当時の朝鮮は都市商業や工業が未発達で、1870年代の日本よりも農業への依存度が高かったようです。当時の朝鮮の米作の生産性は、同じ頃の日本よりかなり低かったそうですが(半分程度)、これは技術的な問題が大きいようで、灌漑設備が少なく、肥料は自給自足といった事情がありました。前近代おいて、朝鮮の初等教育は日本より未発達だったようです。両者の大きな違いは、日本ではそれなりに女性がおり、「実用的」知識も教えられていたいのに対して、朝鮮では女子がほぼおらず、「実用的」知識は教えられず、ほぼ儒教の古典に依拠していたことです。
日本による保護国化を経て、1910年以降、朝鮮は日本の統治下におかれます。これはオランダ領東インド諸島と同じく直接的統治で、イギリスによる間接的なインド統治とは対照的です。日本の朝鮮統治は、1919年の万歳騒擾事件(三・一独立運動)を契機に武断政治から文化政治へと大きく変わりました。警察の拡充など朝鮮における支配機構の肥大から、朝鮮総督府の財政自立が進んで1919年には全廃された補充金が、1920年以降再び、1911~1912年以上の水準にまで増額されました。しかし、後述するように、日本財政における負担割合は低下していきました。とはいえ、朝鮮の租税負担率は「内地」の3~4割、台湾の6~7割程度だったので、朝鮮財政は補充金と公債金が欠かせなくなり、「内地」依存型から完全には脱却できませんでした。
1910年以降、朝鮮の産業構造は大きく変わりました。1912年には国内総生産のうち第一次産業が7割近くを占めていましたが、1939年には4割程度に低下しています。これは第一次産業の衰退を意味するのではなく、相対的には縮小したものの、絶対的には成長しました。米の生産量は、1910年代初めには1200万石前後でしたが、1937年には2700万石まで増加します。米の生産性も1.6~2倍程度に上昇しました。ただ、朝鮮総督府は土地改良や優良品種の普及などによる米の生産性の向上には熱心でしたが、大豆・大麦・粟など畑の作物への関心は低く、生産性は低下傾向にあったようです。なお、この間、土地調書事業で農民の多数が土地を喪失したわけではなかった、と指摘されており、じゅうらいの有力説が否定されています。
上記の国内総生産の割合の変化から窺えるように、朝鮮は日本統治下で工業化が進展します。これは欧米の植民地にはない特異なものだった、と本書では指摘されています。「内地」にもない巨大水力発電所とそれに依拠する大規模工場群の建設は、日本統治下の朝鮮と欧米の植民地との違いを際立たたせる、というわけです。産業発展の主導者は「内地人」でしたが、朝鮮人の側にも、自発的な模倣や企業者精神が明瞭に見られました。驚異的な工業化の進展は、統治側・被統治側双方の力が結合したものだった、と本書は評価しています。なお、このように朝鮮人が主体的に工業化に関わった一因として、朝鮮における華人の少なさが指摘されています。華人がいれば、朝鮮人は経済的にその家風に立たされていたのではないか、というわけです。
このように、日本統治下の朝鮮では、農業生産が増大し、工業化が大きく進展しました。では、多数の朝鮮人の生活水準はどうだったのかというと、主観的要素も大きいので評価は難しい、と指摘されています。日本統治下で激減したと推定されている1人当たりの米消費量について、たとえば、1920~1930年にかけて0.63石から0.45石に減少したとの推定は間違いで、減少はしたものの、その程度はさほど大きくなかった、と指摘されています。具体的には、1915~1919年には0.589石、1930~1933年には0.556石、1934~1936年には0.511石、1936~1940年には0.555石です。
身長を指標とすると、日本統治下の朝鮮では、一般人の生活水準は大きくは変わらなかったのではないか、と推測されています。経済は大きく成長したものの、人口増加と平均寿命の向上により、生活水準自体は大きく変わらなかった、ということかもしれません。経済が成長しても生活水準が大きく変わらなかったとすると、主観的には貧しくなった、との実感が生じるかもしれません。ただ、公衆衛生や鉄道のような交通手段の発達は顕著なので、その点では生活水準の向上を実感した人もいるかもしれません。
総合的には、日本は朝鮮を比較的低コストで統治しました。朝鮮における治安維持に成功し、経済成長も促進しました。朝鮮からの米の移入が「内地」の農家に打撃を与えたようなこともあったものの、総じて日本経済に占める朝鮮の比重は小さく、財政面でも日本政府の負担は小さくて、歳出総額に占める朝鮮統治の財政負担割合は、併合後次第に低下していきました。日本の朝鮮領有はレーニンの帝国主義理論のような経済決定論では説明できず、安全保障的観点が色濃いものでした。
このような比較的安定した日本の朝鮮統治が大きく変わったのが、日中戦争以降、とくに太平洋戦争以降のことでした。当時の日本の国力では無理のある総力戦体制が企図され、経済統制が進展していきます。1940年代になると、農業生産は低下し、生産性も低下します。これは、朝鮮および「内地」の工業部門への労働力流出、資材・肥料の不足、過大な供出などが要因でした。一方、1940年以降、農業生産とは対照的に鉱工業生産は増大しました。これは、戦争遂行が優先されたからでした。1940年以降、とくに太平洋戦争以降、日本は絶望的な総力戦に突入し、朝鮮を巻き込みました。現在の日韓の歴史問題の多くはこの時期に根源がある、と本書は指摘します。
朝鮮経済は戦時期に内地経済により従属するようになった、との見解がじゅうらいは有力でしたが、じっさいには逆で、大日本帝国政府は、長期戦に備えての朝鮮における「戦争経済」構築のため、本国から自立した軍事および非軍事工業の建設を企図しました。戦時期には朝鮮と満洲との経済的結びつきが強くなり、朝鮮・満洲の自立的工業の建設は、完全に達成されたわけではないとしても、敗戦までに大きく前進しました。朝鮮は米軍の爆撃対象にならなかったので、インフラ・工業設備は温存されました。
本書は、表題とは異なり、北部(朝鮮民主主義人民共和国)と南部(大韓民国)に分断された第二次世界大戦後も検証しています。本書はまず、南北の違いを指摘していきます。日本統治下の朝鮮では、インフラ・鉱物資源・工業設備の多くは北部に存在しました。鉄道の路線距離も、面積・人口あたりのいずれでも北部の方が上でした。農業に関しても、1人当たりの食糧生産能力では、北部が南部を凌駕していました。こうした状況を前提として、本書は南北の違いを検証していきます。
第二次世界大戦後の朝鮮に関しては、人材面では、北部の非連続性と南部の連続性が指摘されています。しかし、イデオロギーの観点からは、全体主義という点で戦前と戦後(独立後)の朝鮮北部における連続性が指摘されています。北部では、体制転換は統治の理念もしくは精神の根本的変革を必要としなかったので、大きな混乱がなかった、というわけです。一方南部では、統治理念の全面的な転換が図られ、北部と比較して大きな混乱が見られました(李承晩大統領のデモによる退陣など)。経済面に関しては、北部では日本統治時代の戦時期に続いて統制経済が採用されました。しかし南部では、市場経済が基盤となりました。
ソ連は朝鮮北部から穀物・工業原料・製品のみならず工業設備も解体して持ち去りましたが、それは初期に留まり、規模も限定的でした。北部は軍事優先の国家体制構築を進め、日本統治時代の産業遺産は経済の根幹であり続けましたが、軍事偏重は長期にわたる経済停滞をもたらしました。一方南部では、軍事工業の解体と民需中心経済への転換が図られました。南部が日本統治時代から継承した工業設備は北部よりずっと少なかったものの、交通・通信・農業など、さらには人材面で継承した遺産は少なくはなく、朴正熙政権の優れた指導力のもと、経済が発展して北部を圧倒するに至ります。
本書はこのように、日本統治下の朝鮮を経済に限定して検証し、さらには戦後の南北朝鮮をも視野に入れています。日本統治下の朝鮮の近代化を強調する見解は大韓民国でも主張されており、「ニューライト」と呼ばれています。こうした動向自体は、随分と前から知っていたので、本書の見解はさほど意外ではありませんでした。しかし、この問題に関しては不勉強だったので、本書のように一般向けにやや詳しく解説した書籍を読んだことがなく、本書は大いに参考になりました。本書の見解に激しく反発する人は少なくないでしょうが、議論の前提となる根拠を具体的に提示したというだけでも、一般社会における本書の意義はとても大きいと思います。
この記事へのコメント