人類の拡散などチベット関連記事のまとめ

 これは4月7日分の記事として掲載しておきます。チベット関連の記事をまとめてみます。チベット高原高地帯における人類の痕跡は15000年以上前までさかのぼるものの、人類が生活していたのか、それとも短期間の野営場として利用したのか、定かではありません(関連記事)。チベット高原高地帯における農耕は3600年前頃までさかのぼり、海抜3400mにまで達しましたが、それ以前のチベット高原における農耕は海抜2500m以下に限定されていました(関連記事)。そのため、チベット高原高地帯における人類の永続的な定住年代については、農耕の始まった3600年前頃以降ではないか、と考えられてきました。

 しかし、昨年(2017年)公表された研究では、チベット高原の海抜4270mの高地帯において、12670~7400年前頃までには人類が永続的に居住していた、と指摘されています(関連記事)。チベット高原高地帯における人類の永続的な居住は農耕開始の数千年以上前になるのではないか、というわけです。現代チベット人には高地適応と関連した複数の遺伝子が確認されており(関連記事)、長期にわたって高地に適応してきたことが示唆されます。さらに興味深いのは、現代チベット人の高地適応遺伝子群のなかには、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)から継承されたと推測されるものもあることです(関連記事)。これと関連して、現生人類とデニソワ人とは複数回交雑した、との見解が注目されます(関連記事)。

 中華人民共和国におけるチベット認識に関しては、以下の中華人民共和国駐福岡総領事館のサイトの「中華民族大家庭の一員」と題した一文が大いに参考になるでしょうが、冒頭の「中国は統一した多民族国家であり、チベットは古くから中国の不可分の一部である」との一節は、中華人民共和国のチベット認識を簡潔に表していると言えるでしょう。

7世紀の唐の時代、チベット族と漢族は王室の間で姻戚関係、盟約を結んで、政治的に団結友好の姻戚関係を形成し、経済と文化の上でも密接に結びつき、最終的に統一国家をつくるための厚い基盤を固めた。現在も、チベット自治区の首府ラサのポタラ宮には、641年に唐の王室からチベット族吐蕃王に降嫁した文成公主の塑像が奉られている。チョカン寺(大昭寺)の前の広場には双方が盟約を結んだことにちなんで、823年に建てられた「唐蕃会盟碑」が立っている。この碑には次のような碑文が刻まれている。「舅甥二主が社稷が一つとなることについて商議し、大和の盟約を結んで永遠に変わらないことは神、人と共に証し、知るところであり、世世代代にわたり称賛させるものである」。

 これにたいして、日本のチベット史研究者は、碑文の冒頭の一文を文脈から切り離した学問的冒涜だ、と痛烈に批判しています。上記の中華人民共和国駐福岡総領事館のサイトの一文には、次のような解説も見られます。

清の時代、チベットに対する統治と管轄を更に強化した。1727年にはチベット駐在大臣を配置し、中央政府を代表してチベット地方行政の監督に当たらせた。チベットと近隣地方との境界も正式に確定した。チベット行政機能を整備するため、清の朝廷は何度も整頓改革し、1793年に「欽定蔵内善後章程」を制定発布し、チベット地方行政制度を詳細に規定した。

 こうした認識も、

ちなみに、満洲文や漢文の一次史料を見ると、清朝はチベットに出兵する際には、ダライラマ政権の要請を待ってから行っており、軍糧は内地から移送するか現地で買い上げるなどしてチベットの経済に負担をかけないようにし、事態が収束した後には及ぶ限り速やかに撤兵を検討するなどして、国益にもとづく侵略と受け取られないように配慮していた。チベットから税を徴収したり、内政に干渉したりしていたとの証拠も今のところ見いだされてない。さらに、同時代の史料には、チベットと清朝の関係を高僧とその信仰者(應供と施主)という枠組みでとらえていることを考えると、当時の清朝・チベット関係の間に宗主国・保護国の上下関係があったかは限りなく疑わしい。

と日本のチベット史研究者に批判されています。この記事に関しては、以前当ブログでも取り上げました(関連記事)。平野聡『清帝国とチベット問題』(関連記事)では、中華人民共和国におけるチベットに関する公式見解にたいして、以下のように指摘されています(P225~226)。

今日の中華人民共和国における体制教義的な言説は、近代以前のチベットについて「過去のチベットでは、ラマと貴族が農奴から搾取するという、世界で最も暗黒な封建的支配が展開されており、自らそれを改める意思も能力もなかったので、反帝・反封建の立場で覚醒した中国人民を最も正しく代表する中国共産党が貧困農奴を立ち上がらせて封建支配を打破し、祖国の統一と、自らが主人となる社会主義建設の道へと進ませた。それゆえに中国共産党こそ、チベットにおける人権、とりわけ発展の権利を最も擁護するものである」とする。しかし、同治期までの清帝国とチベットの関係をみると、このような「暗黒の支配」とそれに対する「チベット農奴」の不満の鬱積が、中国共産党のチベット統治に伴って様々な軋轢や混乱が引き起こされた以上に深刻であったことを示すものは、管見の限り見当たらない。しかも、チベット現地基層社会に対する清帝国エリートの認識は、19世紀のかなり遅い段階まで、たとえダライラマ政権に対して不信を抱き、その自治に否定的な見方をしていた官僚であっても「辺外の田園には麦や豆が植えられ、見渡す限り青々としており、民情はなおも安謐に属する。番民は耕作に勤め、婦女は毛や糸を紡いで絨毯をつくり、男耕女織のさまは内地の景象と異なることはない。僧俗のなかでも明らかに事に通じる者は、蕃民が升平の福を久しく享受していると称する」と記す通り、清帝国のもと調和のあるチベット社会が実現していたとするものであった。

 平野聡『「反日」中国の文明史』(関連記事)では、「西洋の衝撃」により、ダイチングルン(大清帝国)の漢人官僚の間で、理念的にはどこまでも続く「天下」観から、国境線のある具体的な領域で構成される国土観が形成されていく過程で、西洋列強の側の認識が取り入れられ、モンゴル・チベット・東トルキスタンを「中国領」・中国と一体のものとする認識が形成されていき、「中華民族」という枠組みの起点となったものの、モンゴル・チベット・東トルキスタンの人々にとって、自身が中国の一員であるとは想定外のことだった、と指摘されています。また、ダイチングルンの漢人官僚の間では、優越者たる漢人社会が上からモンゴル・チベット・東トルキスタン社会を指導する、という観念が定着し、この認識の差が現代の中国の民族問題の起点となり、漢人社会の優越という観念は現代中国にも根強く継承されている、とも指摘されています。

 中華人民共和国の体制教義における、「チベットは古くから中国の不可分の一部である」とのチベット認識に大きな問題があることは、とても否定できないでしょう。なお、チベット問題で国際世論が中華人民共和国政府を翻意させることができないでいる根本的な要因は、中華人民共和国が経済大国となり、国際的な影響力が強化されたことよりも、漢人以外の人々の多くも、根源的なところでは、チベット人よりも漢人のほうとずっと多くの価値観を共有しているからではないのか、と思います(関連記事)。

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