オーストラリアの人類史関連のまとめ

 これは4月19日分の記事として掲載しておきます。オーストラリアへの人類の拡散など、オーストラリアの人類史関連の記事をまとめます。オーストラリア大陸は更新世の寒冷期にはニューギニア島やタスマニア島とも陸続きで、サフルランドを形成していました。オーストラリアへにおける人類の痕跡は、現時点では65000年前頃までさかのぼります(関連記事)。人類遺骸は発見されていないので、どの人類系統なのか、確定していないのですが、現生人類(Homo sapiens)である可能性が高そうです。

 ただ、そうだとして、65000年前頃以前にオーストラリアへと到達した現生人類集団が、現代のオーストラリア先住民の祖先なのかというと、まだ確証はありません。この問題は、現生人類の出アフリカの回数・年代・経路などをめぐる議論(関連記事)と関連しています。現生人類の出アフリカについて、少し前までは、1回説・沿岸仮説・後期拡散説の組み合わせが有力視されていたと思います。しかし近年では、現生人類のアフリカからの早期拡散の証拠が増えつつあります(関連記事)。

 現時点で複数の分野からの諸知見をできるだけ整合的に解釈しようとすると、非アフリカ系現代人の主要な遺伝子源となった小規模な現生人類集団の出アフリカは75000万~55000年前頃の1回のみで、75000年前頃よりも前に出アフリカを果たした(早期拡散)現生人類集団は、後続の出アフリカ集団に駆逐されたか、交雑により吸収されてその遺伝的痕跡を現代にはほとんど留めていない、となりそうです。たとえば、現代パプア人のゲノムの少なくとも2%は、アフリカから早期に拡散した現生人類集団に由来する、と推測されています(関連記事)。現代のオーストラリア先住民も、アフリカから早期に拡散した現生人類集団の遺伝的影響をある程度以上受けているかもしれません。じっさい、更新世末期~完新世初期の化石は、レヴァントの初期現生人類と似ている、とも指摘されています(関連記事)。

 オーストラリアもしくはサフルランドへの到達には渡海が必要で、おそらくは偶然の漂流ではまず無理なので、航海により到達したと思われます。航海には舟を作り操作する高度な認知能力が必要なので、現生人類にのみ可能な「現代的行動」だった、との見解が有力でしょうが、現生人類ではない系統の人類による航海を想定する見解も提示されています(関連記事)。更新世のサフルランドにおける「現代的行動」については、「一括して」出現したのではなく、異なる年代・場所に個別に現れた、と指摘されています(関連記事)。具体的には、たとえばオーストラリア北部で28000年前頃の岩石画が確認されています(関連記事)。

 オーストラリアでは、後期更新世に人類が拡散してきた頃に85%以上の大型動物が絶滅しており、人為的要因と考えられていますが、気候変動の方を重視する見解も提示されています。絶滅大型鳥の卵殻の年代の分析からは、オーストラリアの大型動物の大量絶滅に関しては、気候変動も無視できない要因としても、主に人為的要因だったことが示唆されます(関連記事)。タスマニア島における後期更新世の大型動物の大量絶滅についても、人為的要因が指摘されています(関連記事)。

 オーストラリア先住民集団と他地域の人類集団との近縁関係、さらにはオーストラリアに人類が定着してからの歴史については、21世紀になって急速に発展したDNA解析により、多くの知見が得られています。Y染色体の分析からは、サフルランド系統と最近縁の非サフルランド系統とが54000年前頃、サフルランド内のオーストラリア系とニューギニア系とが53000~48000年前頃に分岐したのではないか、と推定されています(関連記事)。一方、高品質のゲノム配列からは、サフルランド系統と最近縁の非サフルランド系統とが72000~51000年前頃、サフルランド内のオーストラリア系とニューギニア系とが40000~25000年前頃に分岐したのではないか、と推定されています(関連記事)。

 なお、更新世のサフルランドの考古学的様相は、オーストラリア側とニューギニア側で様相が異なるそうです(関連記事)。オーストラリアでは、馬蹄形石器と不定型な剥片石器の共伴が一般的ですが、オーストラリア北部では、25000~20000年前頃にかけて磨製石斧が見られます。これは、日本の岩宿遺跡の局部磨製石斧とともに、世界最古級の磨製石器とされています。ニューギニアでは、真ん中のあたりがくびれた形態をしている石斧が多数、長期間にわたって作られていたようです。ただ、ニューギニアでも島嶼部の方では石斧がそれほど発達せず、黒曜石の移動が確認できるそうです。

 オーストラリアの人口史についても、遺伝学的データが考古学的データと組み合わされて推測されています(関連記事)。それによると、最初期の5万年前頃の人口は1000~2000人で、計画的な移住だった可能性が指摘されています。この点からも、オーストラリアへの移住はほぼ間違いなく航海によるものだった、と言えそうです。オーストラリア大陸の人口の変遷は気候変動に対応しており、最終氷期最盛期の21000~18000年前頃の間に人口は約60%まで落ち込み、その後、更新世末~完新世最初期に5万年前頃と同等まで人口が回復し、完新世になってからは、8300~6600年前頃・4400~3700年前頃・1600~400年前頃と何度か増減はありつつも人口は緩やかに増加していき、500年前頃にヨーロッパ人による侵略の前としては最大の120万人に達しました。その後、オーストラリア大陸の先住民とヨーロッパ人とが接触するようになった頃には、オーストラリア大陸の先住民の人口は77万~110万人へと低下しており、イギリスによる植民地化が進むと、イギリス人の持ち込んだ疫病やイギリス人による武力弾圧のために、オーストラリア大陸の先住民の人口は劇的に減少しました。

 オーストラリア内における人類の拡散についても、遺伝学的データからの復元が進められています。高品質のゲノム配列からは、オーストラリア先住民の祖先集団は32000~10000年前頃に分岐し始め、現在の各オーストラリア先住民集団が形成されていき、完新世になると、オーストラリア北東の地域集団が拡大していった、と推測されています(関連記事)。オーストラリア先住民のミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析からは、オーストラリア先住民の祖先集団は5万年前頃にオーストラリア北部に上陸した後、それぞれ東西の海岸沿いに急速に拡散して49000~45000年前までに南オーストラリアに到達して遭遇し、各地域集団の人口構造は長期にわたって持続した、と推測されています(関連記事)。

 オーストラリア先住民集団は、オーストラリアに定着して以降、ヨーロッパ勢力の侵出まで比較的孤立していた、とされていますが、4000年前頃に南アジアからオーストラリアへの遺伝的流動があったと推測されており、考古学的記録とも整合的だと指摘されています(関連記事)。ただ、これはY染色体では確認されていません(関連記事)。もっとも、交雑の痕跡は、Y染色体では確認されなくとも、核DNA全体を対象にすれば確認される、という可能性はじゅうぶん想定されます。オーストラリアはDNAの保存に適していない地域なので、古代DNAの研究はあまり進んでいませんが、3000~500年前頃の人骨のmtDNAの解析が成功しています(関連記事)。

 現生人類と他系統の人類との交雑は、人類進化史において現在たいへん関心の高い問題です。非アフリカ系現代人は全員、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の遺伝的影響をわずかながら受けています。オーストラリア先住民集団は、現代パプア人とともに、種区分未定のデニソワ人(Denisovan)の遺伝的影響を比較的強く受けていることが明らかになっています(関連記事)。なお、オーストラリア先住民の祖先集団とは別に、東アジア系現代人の祖先集団がデニソワ人と交雑した可能性も指摘されています(関連記事)。

 まだ決定的な解釈は提示されていないのですが、たいへん興味深いことに、アマゾン地域のアメリカ大陸先住民のゲノムに、オーストラレシア人との密接な共通領域が確認されています(関連記事)。これは、北アメリカ大陸の13000~12600年前頃の男児でも(関連記事)、アマゾン地域の集団と3000年前頃に分岐したと推測される集団に属する、1000年前頃のカリブ海地域の女性でも(関連記事)確認されていません。この問題については、今後アメリカ大陸の住民の古代DNA解析が進めば、有力な仮説が提示されるかもしれません。

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