天皇号と日本国号の画期性
これは4月12日分の記事として掲載しておきます。入院中に考えていたことを短くまとめてみます。天皇号と日本国号の画期性については、たとえば、網野善彦『日本の歴史第00巻 「日本」とは何か』(講談社、2000年)で強調されています。しかし、そうした見解には疑問も残ります。まずは天皇号についてです。天皇号の成立時期については、天武朝説が有力だと思いますが、推古朝説や、遅くとも天智朝には成立していたという説も提示されています(関連記事)。ただ、天武朝成立説では、天皇は天武個人の称号だった、との見解が有力だと思います。
天皇号の成立時期について、有力な天武朝説を前提とすると、日本国号の採用および律令制定の時期と近接していることからも、その画期性が強調されても不思議ではありません。ただ、養老令(おそらく大宝令でも)儀制令では日本国君主の称号は場面により天子・天皇・皇帝と使い分けると規定されており、天皇とは本来「もう一つの中華世界の皇帝(天子)」に他ならないと思います。もちろん、実態も同じだったわけではありませんが、あくまでも理念的には、ということです。天皇号にしても、天武朝とかなり時代の重なる唐の高宗が用いています。すでに推古朝の遣隋使で天子と称していたように、天皇号の成立は当時の日本(倭)が「(中華世界的)普遍性」を追求した長い歴史の中に位置づけられるべきで、決定的な画期とは言えないのではないか、との疑問は残ります。
現代日本社会では、どうも天皇と(中華世界の)皇帝との同質性が軽視されているように思います。上述したように、日本国君主の称号は、本来天皇に一元化されていたのではなく、天子でもあり皇帝でもありました。律令制成立当初の日本は、理念的には「もう一つの中華」を目指した国だった、ということは強調されるべきでしょう。日本国の正史である『続日本紀』では、日本が「中国」と表記されることさえありました。このように天皇と(中華)皇帝との同質性が軽視されているのは、近代になって日本国君主の称号の表記がほぼ天皇に一元化された一方で、中華世界では唐代半ば以降に(おそらくは)君主の称号として天皇号が用いられなかったからなのでしょうが、その近代日本においても、皇帝が用いられることもありました。これは、中世~近世後期にかけて天皇号は公的には用いられなかったことが、一般にはあまり知られていない(だろう)こととも関連しているのでしょう。
日本国号成立に関しても過大評価されているのではないか、との疑問は残ります。小林敏男『日本国号の歴史』(吉川弘文館、2010年)では、日本国号の画期性を強調する見解は呼称の変化に本質(実体)を見る観念的言説で、自称としてのヤマトの連続性が強調されています(関連記事)。同書では、日本という国号の表記の発信源は中華世界にあり、百済や新羅、とくに百済の知識人が倭の別称として用いたのが直接の起源で、それが渡来人などによりヤマトに伝わり、遅くとも天智朝期には、ヤマト朝廷周辺で百済系渡来人や知識人の間で使用されており、正式に対外的な呼称として採用される前提を形成していたのだ、と推測されています。
確かに、天皇号にしても日本国号にしても、その成立の意義を軽視することはできませんが、ともに当時の日本(倭)が「(中華世界的)普遍性」を追求した長い歴史の中に位置づけられるべきで、その画期性の強調は、多分に呼称の変化に本質(実体)を見る観念的言説ではないか、とも思います。確かに、律令の制定は日本列島において画期ですが、それにより中央集権的体制が確立したというよりは、通俗的に律令体制の「崩壊」と言われるような過程を経て、「日本国」という枠組みはむしろ浸透していったのではないか、と思われます(関連記事)。このような展開の延長線上に、平安時代後期~江戸時代にかけての長く緩やかな変容があり、日本の「伝統社会」が成立したのではないか、というのが私の見通しです。
天皇号の成立時期について、有力な天武朝説を前提とすると、日本国号の採用および律令制定の時期と近接していることからも、その画期性が強調されても不思議ではありません。ただ、養老令(おそらく大宝令でも)儀制令では日本国君主の称号は場面により天子・天皇・皇帝と使い分けると規定されており、天皇とは本来「もう一つの中華世界の皇帝(天子)」に他ならないと思います。もちろん、実態も同じだったわけではありませんが、あくまでも理念的には、ということです。天皇号にしても、天武朝とかなり時代の重なる唐の高宗が用いています。すでに推古朝の遣隋使で天子と称していたように、天皇号の成立は当時の日本(倭)が「(中華世界的)普遍性」を追求した長い歴史の中に位置づけられるべきで、決定的な画期とは言えないのではないか、との疑問は残ります。
現代日本社会では、どうも天皇と(中華世界の)皇帝との同質性が軽視されているように思います。上述したように、日本国君主の称号は、本来天皇に一元化されていたのではなく、天子でもあり皇帝でもありました。律令制成立当初の日本は、理念的には「もう一つの中華」を目指した国だった、ということは強調されるべきでしょう。日本国の正史である『続日本紀』では、日本が「中国」と表記されることさえありました。このように天皇と(中華)皇帝との同質性が軽視されているのは、近代になって日本国君主の称号の表記がほぼ天皇に一元化された一方で、中華世界では唐代半ば以降に(おそらくは)君主の称号として天皇号が用いられなかったからなのでしょうが、その近代日本においても、皇帝が用いられることもありました。これは、中世~近世後期にかけて天皇号は公的には用いられなかったことが、一般にはあまり知られていない(だろう)こととも関連しているのでしょう。
日本国号成立に関しても過大評価されているのではないか、との疑問は残ります。小林敏男『日本国号の歴史』(吉川弘文館、2010年)では、日本国号の画期性を強調する見解は呼称の変化に本質(実体)を見る観念的言説で、自称としてのヤマトの連続性が強調されています(関連記事)。同書では、日本という国号の表記の発信源は中華世界にあり、百済や新羅、とくに百済の知識人が倭の別称として用いたのが直接の起源で、それが渡来人などによりヤマトに伝わり、遅くとも天智朝期には、ヤマト朝廷周辺で百済系渡来人や知識人の間で使用されており、正式に対外的な呼称として採用される前提を形成していたのだ、と推測されています。
確かに、天皇号にしても日本国号にしても、その成立の意義を軽視することはできませんが、ともに当時の日本(倭)が「(中華世界的)普遍性」を追求した長い歴史の中に位置づけられるべきで、その画期性の強調は、多分に呼称の変化に本質(実体)を見る観念的言説ではないか、とも思います。確かに、律令の制定は日本列島において画期ですが、それにより中央集権的体制が確立したというよりは、通俗的に律令体制の「崩壊」と言われるような過程を経て、「日本国」という枠組みはむしろ浸透していったのではないか、と思われます(関連記事)。このような展開の延長線上に、平安時代後期~江戸時代にかけての長く緩やかな変容があり、日本の「伝統社会」が成立したのではないか、というのが私の見通しです。
この記事へのコメント