呉座勇一『陰謀の日本中世史』
角川新書の一冊として、KADOKAWAから2018年3月に刊行されました。本書は日本中世史におけるさまざまな陰謀論的見解を取り上げ、そうした見解のどこに問題があるのか、解説していきます。本書が対象としているのは保元の乱から関ケ原の戦いまでとなります。本書は、まず史実というか通説を簡潔に叙述し、その後に陰謀論的見解を紹介し、その問題点と論理構造を解説しています。一般向けであることを強く意識したと思われる、たいへん読みやすい文章と、明快な論旨が特徴となっています。
本書は400年以上にわたる時代のさまざまな陰謀論的見解を取り上げ、共通する論理構造がある、と指摘します。それは、結果論的解釈と、加害者(攻撃側)と被害者(防御側)の立場が実際には逆、などといったものです。結果論的解釈は、最大の利益を得たものが黒幕、黒幕の思惑通りに事態が推移した、などといった解釈を生み出します。本書は、日本中世史におけるさまざまな陰謀論的見解にもこうした共通の論理構造があり、多くの陰謀論的見解は成立しがたいことを丁寧に解説していきます。
日本中世史に限らず、歴史の分野では非専門家の胡散臭い本が昔から溢れています(専門家が胡散臭い見解を提示することもあるでしょうが)。インターネットが一般的になり、SNSが普及したことで、そうした胡散臭い陰謀論的見解が浸透する機会はさらに増えた、と言えるかもしれません。本書の執筆意図の一つは、現代社会への危機感にあるようです。日本中世史に限らず広く現代社会の諸問題において、インターネットの一般化により陰謀論がさらに浸透していることへの危機感から、日本中世史におけるさまざまな陰謀論的見解を取り上げ、そこに共通する論理構造を提示することで、陰謀論的見解への耐性を身に着ける一助になってほしい、という意図です。単なる好事家向けの本ではなく、現代社会の問題点を強く意識した構成になっていると思います。
本書はおもに専門家の見解を取り上げていますが、本能寺の変を取り上げた第6章では、非専門家の陰謀論的見解の検証にかなりの分量を割いています。専門家が非専門家の陰謀論的見解を批判しても学界で業績と認められることはほとんどないのでしょうが、書籍でもネットでも陰謀論的見解があふれているなかで、本書のような専門家による分かりやすい解説本の刊行はやはり必要で、非専門家の一人として強く歓迎する、と表明します。できれば、日本中世史に限らず、日本近世史や日本近現代史、さらには外国史(現代日本社会で一般向けに刊行可能となると、せいぜい中国史くらいかもしれませんが)で専門家による陰謀論的見解の解説本が刊行されるようになってもらいたいものです。
ただ、個人的な理想というか願望を言えば、このような歴史陰謀論、とくに非専門家による的外れではあるものの影響力の強い見解を批判するのは、記者や作家の役割であるべきではないか、とも思います。文才と意欲(公共奉仕の精神)がある研究者に依存しているようだと、今後も絶えないだろう陰謀論の批判は長続きしないでしょう。記者や作家には、学部で歴史学を専攻していた人も少なくないでしょうから、歴史学とは縁のなかった一般層よりは的確な理解と解説が期待できます。欧米では、専門家が素材を提供し、作家や記者がじっさいに執筆する一般向け科学書が珍しくありませんが、本の刊行ではなくとも、新聞・雑誌・テレビで取り上げれば、一般層への荒唐無稽な陰謀論の浸透をかなりの程度防げるのではないか、とも思います。最近の日本では、歴史学の分野ではありませんが、川端裕人『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』(関連記事)が、私にとっての具体的な理想事例となります。
本書は400年以上にわたる時代のさまざまな陰謀論的見解を取り上げ、共通する論理構造がある、と指摘します。それは、結果論的解釈と、加害者(攻撃側)と被害者(防御側)の立場が実際には逆、などといったものです。結果論的解釈は、最大の利益を得たものが黒幕、黒幕の思惑通りに事態が推移した、などといった解釈を生み出します。本書は、日本中世史におけるさまざまな陰謀論的見解にもこうした共通の論理構造があり、多くの陰謀論的見解は成立しがたいことを丁寧に解説していきます。
日本中世史に限らず、歴史の分野では非専門家の胡散臭い本が昔から溢れています(専門家が胡散臭い見解を提示することもあるでしょうが)。インターネットが一般的になり、SNSが普及したことで、そうした胡散臭い陰謀論的見解が浸透する機会はさらに増えた、と言えるかもしれません。本書の執筆意図の一つは、現代社会への危機感にあるようです。日本中世史に限らず広く現代社会の諸問題において、インターネットの一般化により陰謀論がさらに浸透していることへの危機感から、日本中世史におけるさまざまな陰謀論的見解を取り上げ、そこに共通する論理構造を提示することで、陰謀論的見解への耐性を身に着ける一助になってほしい、という意図です。単なる好事家向けの本ではなく、現代社会の問題点を強く意識した構成になっていると思います。
本書はおもに専門家の見解を取り上げていますが、本能寺の変を取り上げた第6章では、非専門家の陰謀論的見解の検証にかなりの分量を割いています。専門家が非専門家の陰謀論的見解を批判しても学界で業績と認められることはほとんどないのでしょうが、書籍でもネットでも陰謀論的見解があふれているなかで、本書のような専門家による分かりやすい解説本の刊行はやはり必要で、非専門家の一人として強く歓迎する、と表明します。できれば、日本中世史に限らず、日本近世史や日本近現代史、さらには外国史(現代日本社会で一般向けに刊行可能となると、せいぜい中国史くらいかもしれませんが)で専門家による陰謀論的見解の解説本が刊行されるようになってもらいたいものです。
ただ、個人的な理想というか願望を言えば、このような歴史陰謀論、とくに非専門家による的外れではあるものの影響力の強い見解を批判するのは、記者や作家の役割であるべきではないか、とも思います。文才と意欲(公共奉仕の精神)がある研究者に依存しているようだと、今後も絶えないだろう陰謀論の批判は長続きしないでしょう。記者や作家には、学部で歴史学を専攻していた人も少なくないでしょうから、歴史学とは縁のなかった一般層よりは的確な理解と解説が期待できます。欧米では、専門家が素材を提供し、作家や記者がじっさいに執筆する一般向け科学書が珍しくありませんが、本の刊行ではなくとも、新聞・雑誌・テレビで取り上げれば、一般層への荒唐無稽な陰謀論の浸透をかなりの程度防げるのではないか、とも思います。最近の日本では、歴史学の分野ではありませんが、川端裕人『我々はなぜ我々だけなのか アジアから消えた多様な「人類」たち』(関連記事)が、私にとっての具体的な理想事例となります。
この記事へのコメント
2018年のおすすめにあったので読みました。
日本人にとって歴史は娯楽でしかないです。
本書でも相似が指摘された疑似科学では、日常(家計・健康等)に即したものだけに専門家による批判も多い。
おそらく学校教育で今に最も繋がる近現代を深く勉強しないことが大きいのだと思います。
歴史を学ぶことが今(日常)を知る手段なのだと理解するには自学しなくてはなりません。
それ故に記者や作家の役割、歴史をより身近なものにすることが大切になっていると思います。
紹介されている本(地域の図書館に所蔵限定)を少しずつ読んでいます。
おすすめをわかりやすくまとめて下さっているので大変重宝しています。
そうした読み手に対する心遣いに感謝、感謝です。