縄文時代と現代日本
これは3月7日分の記事として掲載しておきます。一つ前の記事で取り上げた、バヌアツにおける人類集団の形成史に関する研究は、日本列島における人類集団の遺伝的構成の変遷と言語の形成過程に関する議論にも参考になりそうだという点でも、大いに注目されます(関連記事)。日本列島の人類史における縄文時代の位置づけについては、まだ不明なところが多分にある、と言わざるを得ないでしょう。現代日本社会の「愛国的な見解」においては、縄文時代から現代まで継続する一貫した「日本」が措定され、現代日本社会の「確たる基盤・源流」として縄文時代が賞賛される傾向にあるように思います。現代日本社会の「愛国的な見解」は、皇国史観とも共通する要素を有しているものの、皇国史観において縄文時代はほとんど視野に入っていなかったことを考えると、縄文時代の評価は現代日本社会の「愛国的な見解」と皇国史観との大きな違いと言えるでしょう。そもそも、山田康弘『つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る』によると、縄文時代という時代区分が定着したのは第二次世界大戦後で、その前には縄文時代と弥生時代は石器時代として一括して区分されることが多かったそうです(関連記事)。
現代日本社会の「愛国的な見解」における縄文時代像は、たんなる妄想というよりは、「一国史」的枠組みを前提とした近代歴史学から生じた、偏った一つの方向性を表している、とも言えそうです。この「一国史」的枠組みを前提とした日本史像への反省として、とくに1980年代以降、「開かれた日本列島」という歴史像が提示されてきました。そうした歴史像では、たとえば、朝鮮半島と縄文時代の九州北部との交流が強調されたこともありました。しかし、『つくられた縄文時代』では、両者の交流が一部で想定されたよりも少なく、その理由として言語の違いがあったかもしれない、と指摘されています。東野治之『遣唐使』では、「開かれていた日本」という発想は、常識化した鎖国史観への批判として有効であり、傾聴すべきではあるものの、それに偏ると、日本の潜在的鎖国体質を無視してしまうことになる、と指摘されています(関連記事)。「開かれていた日本(列島)」の強調に、開かれた日本であるべきだ、との願望・思い込みが過剰に投影されていないか、慎重に検証すべきでしょう。
「開かれていた」縄文時代の日本列島(の一部)という歴史像に行きすぎもあったかもしれないとはいえ、とくに弥生時代以降、日本列島がユーラシア東部の影響を大きく受けてきたことは否定できないでしょう。その具体的な様相は、狩猟採集社会から農耕社会への移行において、人間の移動が大きな役割を果たしたのか、それとも人間の移動をあまり伴わないような文化伝播が重要だったのか、という世界史において普遍的な議論の一部と言えるでしょう。漠然とした印象にすぎませんが、「愛国的な見解」では人間の移動をあまり伴わないような文化伝播が、「愛国的な見解」や「一国史」的枠組みに批判的な「(進歩的で)良心的な見解」では人間の移動が、それぞれ支持される傾向にあるように思います。
20世紀後半には、弥生時代以降におもに朝鮮半島から多数の人間が日本列島に渡来してきた、との見解も提示され、「(進歩的で)良心的な見解」の側では支持されてきたように思われます。この問題の解決にたいへん有効になるのが、古代DNA研究です。古代DNA研究は、DNAの保存に適した環境であることからも、ヨーロッパが中心地となってきました(近代化がヨーロッパで始まった結果としてのヨーロッパ中心主義という社会的要因もありますが)。古代DNA研究によると、ヨーロッパにおける狩猟採集社会から農耕社会への移行はアナトリア半島の農耕民のヨーロッパへの拡散によるもので、全体的には先住の狩猟採集民集団との交雑・同化がゆっくりと進行していったものの、地域によっては交雑・同化が早期に進行した、とされています(関連記事)。西アジアでは、少なくとも一部地域において、人間の移動をあまり伴わないような文化伝播が農耕の拡大に重要な役割を果たしたのではないか、と示唆されています(関連記事)。狩猟採集社会から農耕社会への移行の具体的様相は、各地域により異なっていた可能性が高そうです。
本格的な水稲耕作など弥生時代の新規要素の多くがユーラシア東部起源であることは否定できないでしょうが、では、縄文時代~弥生時代への移行の具体的様相はどうだったのでしょうか。重要な手がかりとなる古代DNA研究では、日本列島の縄文時代の住民は遺伝的には現代日本人に大きな影響を与えていない(アイヌ人と沖縄の人々を除く現代の「本土日本人」に継承された縄文人ゲノムの割合は推定で15%程度)、と推測されています(関連記事)。もちろん、現時点では縄文時代の日本列島の人類の古代DNA解析数は少なく、縄文時代とはいっても、地域・時代による違いはあったでしょうが、縄文時代の日本列島の人類集団よりも、弥生時代以降に日本列島に渡来した人類集団の方が、現代日本人に及ぼした遺伝的影響はずっと大きい、という可能性が高そうです。
これは、上述した、弥生時代以降におもに朝鮮半島から多数の人間が日本列島に渡来してきた、という20世紀後半に提示された見解と整合的と言えそうです。弥生時代以降に日本列島に渡来してきた人類集団が、縄文時代の先住民をおおむね遺伝的に置換したとなると、縄文時代に現代日本社会の「確たる基盤・源流」を想定する「愛国的な見解」にたいして、「(進歩的で)良心的な見解」の側からの、時として嘲笑や冷笑も伴うような否定論が提示されるかもしれません。
しかし、上述したバヌアツにおける人類集団の形成史に関する研究は、縄文時代の日本列島の人類集団の遺伝的影響が現代日本社会において小さくとも、言語に代表される文化的影響は小さくない可能性が想定され得ることを示唆しています。バヌアツの最初期の住民はオーストロネシア系集団でしたが、現代バヌアツ人は遺伝的にはパプア系集団の影響力がたいへん大きくなっています。しかし、現代バヌアツ人の言語は、パプア諸語ではなく、オーストロネシア諸語のままです。バヌアツにおいては、遺伝的にはオーストロネシア系からパプア系への置換が起きたものの、言語では置換が起きなかったのではないか、というわけです。バヌアツにおける遺伝的置換がある時期の急激なものだったのか、それとも漸進的なものだったのか、まだ確定的ではありませんし、言語の転換が起きなかった理由については不明です。しかし、これは、日本列島における人類集団の遺伝的構成の変遷と言語の形成過程に関する議論にも参考になるのではないか、と思います。
上述したように、現時点での古代DNA研究からは、弥生時代以降におもに朝鮮半島から多数の人間が日本列島に渡来してきた、という見解が支持されそうです。しかし、別の解釈もじゅうぶん可能だと思います。弥生時代以降におもに朝鮮半島から渡来してきた集団は日本列島の縄文時代以来の先住民集団よりも小規模で、交易などの必要性から先住民集団の言語が大きな影響力を維持したものの、弥生時代以降の渡来集団は、自分たちが新たに導入した本格的な水稲耕作や戦争文化などにより縄文時代以来の先住民集団よりも人口増加率が高かったため、後に日本列島における遺伝的影響力で縄文時代以来の先住民集団を圧倒した、とも考えられます。弥生時代の開始年代に関する議論は決着がついていないようですが(関連記事)、紀元前300年前頃という一昔前(二昔前?)の有力説よりもさかのぼる可能性は高そうです。そうすると、弥生時代の期間はじゅうらいの想定よりも長くなるわけで、短期間で区切った場合の日本列島への移住者数はさらに少なく推定することも可能ですから、小規模集団の言語が在来の先住民集団の言語を置換する可能性は低いだろう、とも考えられます。
この想定は現時点では思いつきにすぎず、検証するには、縄文時代および弥生時代以降の日本列島の人類集団のみならず、朝鮮半島も含めてユーラシア東部の人類集団の古代DNA解析数を蓄積していくしかないわけですが、少なくとも現時点では、無視してよいほど低い可能性ではない、と確信しています。もちろん、現代日本語の形成において縄文時代の日本列島(の一部地域?)の言語が大きな影響力を有しているとしても、その言語と現代日本語とは大きく違うでしょうし、弥生時代以降に漢文などから大きな影響を受けた可能性はじゅうぶん想定されます。
なお、日本語が「系統不明」とされるのは、現代人(Homo sapiens)が現生種のなかで特別な存在とも言えるところがあることと多分に共通しているのではないか、と思います。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)などの他のホモ属各種や、それ以前に存在したアウストラロピテクス属各種など、現代人の近縁種がことごとく絶滅してしまったので、現代人は現生種のなかで特異的なところのある存在になったのではないか、というわけです(関連記事)。現在、消滅しつつある言語が少なくないようですが(関連記事)、過去にも絶滅した言語は多数あったのでしょう。日本語と近縁な言語はユーラシア東部に少なからず存在したかもしれませんが、それらが絶滅してしまったため、日本語は「系統不明」とされているのかもしれません。
現代日本社会の「愛国的な見解」における縄文時代像は、たんなる妄想というよりは、「一国史」的枠組みを前提とした近代歴史学から生じた、偏った一つの方向性を表している、とも言えそうです。この「一国史」的枠組みを前提とした日本史像への反省として、とくに1980年代以降、「開かれた日本列島」という歴史像が提示されてきました。そうした歴史像では、たとえば、朝鮮半島と縄文時代の九州北部との交流が強調されたこともありました。しかし、『つくられた縄文時代』では、両者の交流が一部で想定されたよりも少なく、その理由として言語の違いがあったかもしれない、と指摘されています。東野治之『遣唐使』では、「開かれていた日本」という発想は、常識化した鎖国史観への批判として有効であり、傾聴すべきではあるものの、それに偏ると、日本の潜在的鎖国体質を無視してしまうことになる、と指摘されています(関連記事)。「開かれていた日本(列島)」の強調に、開かれた日本であるべきだ、との願望・思い込みが過剰に投影されていないか、慎重に検証すべきでしょう。
「開かれていた」縄文時代の日本列島(の一部)という歴史像に行きすぎもあったかもしれないとはいえ、とくに弥生時代以降、日本列島がユーラシア東部の影響を大きく受けてきたことは否定できないでしょう。その具体的な様相は、狩猟採集社会から農耕社会への移行において、人間の移動が大きな役割を果たしたのか、それとも人間の移動をあまり伴わないような文化伝播が重要だったのか、という世界史において普遍的な議論の一部と言えるでしょう。漠然とした印象にすぎませんが、「愛国的な見解」では人間の移動をあまり伴わないような文化伝播が、「愛国的な見解」や「一国史」的枠組みに批判的な「(進歩的で)良心的な見解」では人間の移動が、それぞれ支持される傾向にあるように思います。
20世紀後半には、弥生時代以降におもに朝鮮半島から多数の人間が日本列島に渡来してきた、との見解も提示され、「(進歩的で)良心的な見解」の側では支持されてきたように思われます。この問題の解決にたいへん有効になるのが、古代DNA研究です。古代DNA研究は、DNAの保存に適した環境であることからも、ヨーロッパが中心地となってきました(近代化がヨーロッパで始まった結果としてのヨーロッパ中心主義という社会的要因もありますが)。古代DNA研究によると、ヨーロッパにおける狩猟採集社会から農耕社会への移行はアナトリア半島の農耕民のヨーロッパへの拡散によるもので、全体的には先住の狩猟採集民集団との交雑・同化がゆっくりと進行していったものの、地域によっては交雑・同化が早期に進行した、とされています(関連記事)。西アジアでは、少なくとも一部地域において、人間の移動をあまり伴わないような文化伝播が農耕の拡大に重要な役割を果たしたのではないか、と示唆されています(関連記事)。狩猟採集社会から農耕社会への移行の具体的様相は、各地域により異なっていた可能性が高そうです。
本格的な水稲耕作など弥生時代の新規要素の多くがユーラシア東部起源であることは否定できないでしょうが、では、縄文時代~弥生時代への移行の具体的様相はどうだったのでしょうか。重要な手がかりとなる古代DNA研究では、日本列島の縄文時代の住民は遺伝的には現代日本人に大きな影響を与えていない(アイヌ人と沖縄の人々を除く現代の「本土日本人」に継承された縄文人ゲノムの割合は推定で15%程度)、と推測されています(関連記事)。もちろん、現時点では縄文時代の日本列島の人類の古代DNA解析数は少なく、縄文時代とはいっても、地域・時代による違いはあったでしょうが、縄文時代の日本列島の人類集団よりも、弥生時代以降に日本列島に渡来した人類集団の方が、現代日本人に及ぼした遺伝的影響はずっと大きい、という可能性が高そうです。
これは、上述した、弥生時代以降におもに朝鮮半島から多数の人間が日本列島に渡来してきた、という20世紀後半に提示された見解と整合的と言えそうです。弥生時代以降に日本列島に渡来してきた人類集団が、縄文時代の先住民をおおむね遺伝的に置換したとなると、縄文時代に現代日本社会の「確たる基盤・源流」を想定する「愛国的な見解」にたいして、「(進歩的で)良心的な見解」の側からの、時として嘲笑や冷笑も伴うような否定論が提示されるかもしれません。
しかし、上述したバヌアツにおける人類集団の形成史に関する研究は、縄文時代の日本列島の人類集団の遺伝的影響が現代日本社会において小さくとも、言語に代表される文化的影響は小さくない可能性が想定され得ることを示唆しています。バヌアツの最初期の住民はオーストロネシア系集団でしたが、現代バヌアツ人は遺伝的にはパプア系集団の影響力がたいへん大きくなっています。しかし、現代バヌアツ人の言語は、パプア諸語ではなく、オーストロネシア諸語のままです。バヌアツにおいては、遺伝的にはオーストロネシア系からパプア系への置換が起きたものの、言語では置換が起きなかったのではないか、というわけです。バヌアツにおける遺伝的置換がある時期の急激なものだったのか、それとも漸進的なものだったのか、まだ確定的ではありませんし、言語の転換が起きなかった理由については不明です。しかし、これは、日本列島における人類集団の遺伝的構成の変遷と言語の形成過程に関する議論にも参考になるのではないか、と思います。
上述したように、現時点での古代DNA研究からは、弥生時代以降におもに朝鮮半島から多数の人間が日本列島に渡来してきた、という見解が支持されそうです。しかし、別の解釈もじゅうぶん可能だと思います。弥生時代以降におもに朝鮮半島から渡来してきた集団は日本列島の縄文時代以来の先住民集団よりも小規模で、交易などの必要性から先住民集団の言語が大きな影響力を維持したものの、弥生時代以降の渡来集団は、自分たちが新たに導入した本格的な水稲耕作や戦争文化などにより縄文時代以来の先住民集団よりも人口増加率が高かったため、後に日本列島における遺伝的影響力で縄文時代以来の先住民集団を圧倒した、とも考えられます。弥生時代の開始年代に関する議論は決着がついていないようですが(関連記事)、紀元前300年前頃という一昔前(二昔前?)の有力説よりもさかのぼる可能性は高そうです。そうすると、弥生時代の期間はじゅうらいの想定よりも長くなるわけで、短期間で区切った場合の日本列島への移住者数はさらに少なく推定することも可能ですから、小規模集団の言語が在来の先住民集団の言語を置換する可能性は低いだろう、とも考えられます。
この想定は現時点では思いつきにすぎず、検証するには、縄文時代および弥生時代以降の日本列島の人類集団のみならず、朝鮮半島も含めてユーラシア東部の人類集団の古代DNA解析数を蓄積していくしかないわけですが、少なくとも現時点では、無視してよいほど低い可能性ではない、と確信しています。もちろん、現代日本語の形成において縄文時代の日本列島(の一部地域?)の言語が大きな影響力を有しているとしても、その言語と現代日本語とは大きく違うでしょうし、弥生時代以降に漢文などから大きな影響を受けた可能性はじゅうぶん想定されます。
なお、日本語が「系統不明」とされるのは、現代人(Homo sapiens)が現生種のなかで特別な存在とも言えるところがあることと多分に共通しているのではないか、と思います。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)などの他のホモ属各種や、それ以前に存在したアウストラロピテクス属各種など、現代人の近縁種がことごとく絶滅してしまったので、現代人は現生種のなかで特異的なところのある存在になったのではないか、というわけです(関連記事)。現在、消滅しつつある言語が少なくないようですが(関連記事)、過去にも絶滅した言語は多数あったのでしょう。日本語と近縁な言語はユーラシア東部に少なからず存在したかもしれませんが、それらが絶滅してしまったため、日本語は「系統不明」とされているのかもしれません。
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