農耕の起源と拡散
これは3月28日分の記事として掲載しておきます。農耕の起源と拡散については当ブログでも度々取り上げてきましたが、一度それらを短くまとめてみます。本当は、当ブログで取り上げた記事を網羅し、整理したうえで、新たに本・論文を読まなければならないところですが、今はそこまでの気力はないので、まずはさほど時間を要さずにできることからやっていき、気力を高めていこう、と考えています。
現在では、農耕・牧畜(植物の栽培化・動物の家畜化)は、年代は異なりつつも世界の複数の地域で独自に始まり、周辺地域に拡散していった、と考えられていて、この問題に関しては4年近く前の総説的論文が有益だと思います(関連記事)。なお、英語では植物の栽培化・動物の家畜化ともに「domestication」とされていますが、新石器革命論で想定されていたような、動物の家畜化と植物の栽培化とを単一の概念で把握するような認識は根本的に間違っており、家畜化と栽培化は異なる認知能力に依拠している、との指摘もあります(関連記事)。
上記の総説的論文では、完新世の農耕や牧畜につながるような植物や動物の利用は12000年前頃まで、明確な植物の栽培化・動物の家畜化は11000~10000年前頃までさかのぼる、とされています。これは南西アジアの事例で、他地域ではもっと年代がくだってから植物の栽培化・動物の家畜化が始まるわけですが、南西アジアは近代以降、とくに考古学的発掘の進んだ地域なので、今後の他地域での発掘の増加により、この差が縮まったり、逆転したりする可能性も考えられます。
農耕というか植物の栽培化には、植物資源の管理という発想があるのではないか、と私は考えています(関連記事)。植物を「栽培する」と言われているアリも存在しますが(関連記事)、人類系統に限って言うと、現時点で植物の栽培・農耕が確認されているのは現生人類(Homo sapiens)だけです。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)も現生人類と同様に雑食性で(関連記事)、穀類も含めて(関連記事)植物も食べており、薬用植物の効用をよく理解して治療のために使用していたのではないか、とさえ推測されていますが(関連記事)、現時点ではネアンデルタール人による植物の栽培または植物資源の管理の証拠は確認されていません。
上述したように、現代の農耕へとつながるような植物の栽培化の萌芽は12000年前頃までさかのぼりますが、植物資源の管理の痕跡はもっと前までさかのぼります。農耕が、年代は異なりつつも世界の複数の地域で独自に始まったとすると、現生人類にとって植物資源の管理は容易な発想であり、どんなに遅くとも非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカ(6万~5万年前頃?)の頃までには、そうした発想を可能とする認知能力を有していたことになりそうです。
具体的には、65000~60000年前頃のアフリカ南部において低木地の草木を計画的に焼くことによって根菜類の収穫量を5~10倍増加させた可能性(関連記事)と、49000~36000年前頃のニューギニア島高地において、初期の住人が有用な植物の成長を促すために森林の一部を切り開いた可能性(関連記事)とが指摘されています。もっと強い証拠としては、年代が下りますが、レヴァントにおいて23000年前頃の穀物の耕作の痕跡が確認されています(関連記事)。更新世において植物資源を管理して収穫するという行為は、おそらくそれなりの頻度で存在したのではないか、と思います。
ただ、本格的な栽培化ではなく、おそらくは狩猟採集への高い依存度を伴う小規模な耕作・資源管理であり、更新世の不安定な気候では長期間持続しなかったため、現在では考古学的に検出しにくいのではないか、と思います。現代に続くような植物栽培というか農耕は、完新世になってからのことなのでしょう。もっとも、完新世になってからの農耕も、地域により違いはあったでしょうが、とくに最初期の農耕は、当初から生計依存度の高い本格的なものではなく、狩猟採集への高い依存度を伴いつつの小規模な試行錯誤で、近隣地域で農耕が始まっても、狩猟採集生活を続けた地域も少なくなかったのではないか、と考えられます(関連記事)。
農耕の拡散が人間の大規模な移動(およびその後の先住民集団の置換もしくは先住民集団との交雑)を伴うようなものだったのか、それともおもに文化伝播だったのか、という人類史における普遍的な問題については、現時点では、地域により具体的な様相は異なる、と考えるのが妥当でしょう。古代DNA研究によると、ヨーロッパにおける狩猟採集社会から農耕社会への移行はアナトリア半島の農耕民のヨーロッパへの拡散によるもので、全体的には先住の狩猟採集民集団との交雑・同化がゆっくりと進行していったものの、地域によっては交雑・同化が早期に進行した、とされています(関連記事)。西アジアでは、少なくとも一部地域において、人間の移動をあまり伴わないような文化伝播が農耕の拡大に重要な役割を果たしたのではないか、と示唆されています(関連記事)。
日本列島においては、すでに縄文時代に植物栽培は始まっていたものの(関連記事)、本格的な農耕社会への移行は弥生時代になってからだと思われます。縄文時代から弥生時代への移行において、「縄文人」の現代日本社会における遺伝的影響は小さい(アイヌ人と沖縄の人々を除く現代の「本土日本人」に継承された縄文人ゲノムの割合は推定で15%程度)と推定されていることから(関連記事)、本格的な農耕社会への移行において、先住民集団は渡来系集団におおむね置換されてしまった、とも考えられます。
しかし、弥生文化の伝播はゆっくりとしたものであり、「縄文の壁」がその前に立ちはだかったという指摘もあるように(関連記事)、近年では、本格的な農耕の受容に関して、「縄文人」の主体性を強調する傾向が強くなっています(関連記事)。こうした本格的な農耕をもたらした集団に関しては、困窮のあまり日本列島へと移住してきたのではなく、ある程度以上の社会的地位、たとえば親から領域を継承できないような首長の子供たちを含んでいた可能性も指摘されています(関連記事)。
それでも、現代日本社会における「縄文人」の遺伝的影響は2割にも満たないのだから、縄文時代の文化はその後の日本列島において大きな影響を及ぼさなかった、との見解もあるかもしれません。しかし、他地域の事例からも、日本列島において、遺伝的構成の劇的な変化があったとしても、言語をはじめとして先住民集団の文化が後世に少なからぬ影響を及ぼした可能性はじゅうぶん想定される得ると思います(関連記事)。もちろん、「縄文人」とはいっても、地域・年代によりかなり多様だった可能性があり、それは「縄文人」の言語も同様なのでしょう。
現在では、農耕・牧畜(植物の栽培化・動物の家畜化)は、年代は異なりつつも世界の複数の地域で独自に始まり、周辺地域に拡散していった、と考えられていて、この問題に関しては4年近く前の総説的論文が有益だと思います(関連記事)。なお、英語では植物の栽培化・動物の家畜化ともに「domestication」とされていますが、新石器革命論で想定されていたような、動物の家畜化と植物の栽培化とを単一の概念で把握するような認識は根本的に間違っており、家畜化と栽培化は異なる認知能力に依拠している、との指摘もあります(関連記事)。
上記の総説的論文では、完新世の農耕や牧畜につながるような植物や動物の利用は12000年前頃まで、明確な植物の栽培化・動物の家畜化は11000~10000年前頃までさかのぼる、とされています。これは南西アジアの事例で、他地域ではもっと年代がくだってから植物の栽培化・動物の家畜化が始まるわけですが、南西アジアは近代以降、とくに考古学的発掘の進んだ地域なので、今後の他地域での発掘の増加により、この差が縮まったり、逆転したりする可能性も考えられます。
農耕というか植物の栽培化には、植物資源の管理という発想があるのではないか、と私は考えています(関連記事)。植物を「栽培する」と言われているアリも存在しますが(関連記事)、人類系統に限って言うと、現時点で植物の栽培・農耕が確認されているのは現生人類(Homo sapiens)だけです。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)も現生人類と同様に雑食性で(関連記事)、穀類も含めて(関連記事)植物も食べており、薬用植物の効用をよく理解して治療のために使用していたのではないか、とさえ推測されていますが(関連記事)、現時点ではネアンデルタール人による植物の栽培または植物資源の管理の証拠は確認されていません。
上述したように、現代の農耕へとつながるような植物の栽培化の萌芽は12000年前頃までさかのぼりますが、植物資源の管理の痕跡はもっと前までさかのぼります。農耕が、年代は異なりつつも世界の複数の地域で独自に始まったとすると、現生人類にとって植物資源の管理は容易な発想であり、どんなに遅くとも非アフリカ系現代人の主要な祖先集団の出アフリカ(6万~5万年前頃?)の頃までには、そうした発想を可能とする認知能力を有していたことになりそうです。
具体的には、65000~60000年前頃のアフリカ南部において低木地の草木を計画的に焼くことによって根菜類の収穫量を5~10倍増加させた可能性(関連記事)と、49000~36000年前頃のニューギニア島高地において、初期の住人が有用な植物の成長を促すために森林の一部を切り開いた可能性(関連記事)とが指摘されています。もっと強い証拠としては、年代が下りますが、レヴァントにおいて23000年前頃の穀物の耕作の痕跡が確認されています(関連記事)。更新世において植物資源を管理して収穫するという行為は、おそらくそれなりの頻度で存在したのではないか、と思います。
ただ、本格的な栽培化ではなく、おそらくは狩猟採集への高い依存度を伴う小規模な耕作・資源管理であり、更新世の不安定な気候では長期間持続しなかったため、現在では考古学的に検出しにくいのではないか、と思います。現代に続くような植物栽培というか農耕は、完新世になってからのことなのでしょう。もっとも、完新世になってからの農耕も、地域により違いはあったでしょうが、とくに最初期の農耕は、当初から生計依存度の高い本格的なものではなく、狩猟採集への高い依存度を伴いつつの小規模な試行錯誤で、近隣地域で農耕が始まっても、狩猟採集生活を続けた地域も少なくなかったのではないか、と考えられます(関連記事)。
農耕の拡散が人間の大規模な移動(およびその後の先住民集団の置換もしくは先住民集団との交雑)を伴うようなものだったのか、それともおもに文化伝播だったのか、という人類史における普遍的な問題については、現時点では、地域により具体的な様相は異なる、と考えるのが妥当でしょう。古代DNA研究によると、ヨーロッパにおける狩猟採集社会から農耕社会への移行はアナトリア半島の農耕民のヨーロッパへの拡散によるもので、全体的には先住の狩猟採集民集団との交雑・同化がゆっくりと進行していったものの、地域によっては交雑・同化が早期に進行した、とされています(関連記事)。西アジアでは、少なくとも一部地域において、人間の移動をあまり伴わないような文化伝播が農耕の拡大に重要な役割を果たしたのではないか、と示唆されています(関連記事)。
日本列島においては、すでに縄文時代に植物栽培は始まっていたものの(関連記事)、本格的な農耕社会への移行は弥生時代になってからだと思われます。縄文時代から弥生時代への移行において、「縄文人」の現代日本社会における遺伝的影響は小さい(アイヌ人と沖縄の人々を除く現代の「本土日本人」に継承された縄文人ゲノムの割合は推定で15%程度)と推定されていることから(関連記事)、本格的な農耕社会への移行において、先住民集団は渡来系集団におおむね置換されてしまった、とも考えられます。
しかし、弥生文化の伝播はゆっくりとしたものであり、「縄文の壁」がその前に立ちはだかったという指摘もあるように(関連記事)、近年では、本格的な農耕の受容に関して、「縄文人」の主体性を強調する傾向が強くなっています(関連記事)。こうした本格的な農耕をもたらした集団に関しては、困窮のあまり日本列島へと移住してきたのではなく、ある程度以上の社会的地位、たとえば親から領域を継承できないような首長の子供たちを含んでいた可能性も指摘されています(関連記事)。
それでも、現代日本社会における「縄文人」の遺伝的影響は2割にも満たないのだから、縄文時代の文化はその後の日本列島において大きな影響を及ぼさなかった、との見解もあるかもしれません。しかし、他地域の事例からも、日本列島において、遺伝的構成の劇的な変化があったとしても、言語をはじめとして先住民集団の文化が後世に少なからぬ影響を及ぼした可能性はじゅうぶん想定される得ると思います(関連記事)。もちろん、「縄文人」とはいっても、地域・年代によりかなり多様だった可能性があり、それは「縄文人」の言語も同様なのでしょう。
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