じゅうらいの想定よりもはるかに東方で確認されたムステリアン様石器群
これは3月26日分の記事として掲載しておきます。中華人民共和国内モンゴル自治区の金斯太(Jinsitai)洞窟遺跡の石器群に関する研究(Li et al., 2018)が公表されました。以前より、中国では下部・中部・上部というヨーロッパを基準とした旧石器時代の3区分法の適用は妥当ではなく、前期と後期という2区分が適切ではないか、との見解が提示されていました(関連記事)。本論文は、現時点では中国の大半において旧石器時代の2区分法が妥当ではあるものの、金斯太洞窟遺跡石器群は中部旧石器となるムステリアン(Mousterian)様と区分できる、との見解を提示しています。
じゅうらい、ムステリアンの東限はシベリアのアルタイ地域のオクラドニコフ(Okladnikov)洞窟遺跡とチャギルスカヤ(Chagyrskaya)洞窟遺跡あたりでしたが、金斯太洞窟遺跡石器群の分析により、ムステリアン様の石器群の分布範囲は東方に2000kmほど拡大することになります。本論文は、これはユーラシアにおける中部旧石器群の地理的空白というか欠落部分を埋めるものだ、と評価しています。なお、金斯太洞窟遺跡ではクマ・オオカミ・ウマ・サイなどの動物の骨が石器群と共伴していますが、人類遺骸は見つかっていません。
金斯太洞窟遺跡でムステリアン様と分類されている石器群は、7層と8層で発見されています。放射性炭素年代測定法による較正年代では、これらのムステリアン様石器群は47000~37000年前頃となります。金斯太洞窟遺跡石器群の、円盤状縮小や典型的なルヴァロワ(Levallois)技法の石器の少なさや掻器の高い割合などの特徴は、アルタイ地域のオクラドニコフ洞窟遺跡やチャギルスカヤ洞窟遺跡の石器群と類似しています。アルタイ地域のオクラドニコフ洞窟遺跡の年代は曖昧ですが、放射性炭素年代測定法による較正年代で、洞窟内の文化層は45000~40000年前頃、人間の上腕骨断片は40796~39539年前頃と推定されています。チャギルスカヤ洞窟遺跡で得られた試料のほとんどは放射性炭素年代測定法の限界値を超えており、49000年以上前と推測されています。本論文は、金斯太洞窟遺跡石器群は剥片生産と石器再加工の点でユーラシア西部のムステリアンと最も類似していると指摘し、広い意味での中部旧石器群に分類しています。
本論文は、金斯太洞窟遺跡石器群と類似した石器群が近隣地域では見られない、と指摘します。中国北部における中期更新世後期および後期更新世初期(25万~5万年前頃)の中部旧石器的というか上部旧石器的ではない石器群は、周口店(Zhoukoudian)や許家窯(Xujiayao)や板井子(Banjingzi)などの遺跡で発見されています。これらの遺跡の石器群は一般的に、多角体で円盤状の縮小・不規則な剥片・わずかに再加工される掻器などが特徴です。これらの石器群は、ルヴァロワ技法の痕跡のある廃棄物(二次加工や使用痕の認められない石器)が完全に欠けているという点で、金斯太洞窟遺跡石器群と明らかに異なります。
早期上部旧石器群は、シベリアで45000年前頃、モンゴルや中国北部では40000~35000年前頃から確認され、金斯太洞窟遺跡石器群とほぼ同年代となります。北東アジアの早期上部旧石器群は、ルヴァロワ石刃と角柱石刃縮・石刃および細長い剥片の高い割合・石刃の掻器(endscraper)や彫器(burin)の組み合わせにより特徴づけられ、しばしば個人的装飾品が含まれます。これら早期上部旧石器群における石刃や石刃を加工した石器の高い割合は、人工物のうち3%未満しか石刃と分類され得ない金斯太洞窟遺跡石器群との、とくに重要な違いです。金斯太洞窟遺跡の東方や南方でも、現時点では類似した石器群は確認されていません。ただ、本論文は、今後類似した石器群が近隣地域で発見される可能性を指摘しています。
このように、金斯太洞窟遺跡石器群は、現時点では地理的に孤立したインダストリーと言えそうです。金斯太洞窟遺跡石器群は、大まかには北東アジアのムステリアンの地域的な一多様体と評価できそうですが、この地域ではその前提となるような石器群が発見されておらず、アルタイ地域の類似インダストリーの方が早そうなので、金斯太洞窟遺跡石器群は地域的発展の結果ではなく、人類集団の拡散もしくは文化伝播によるものではないか、との見解を本論文は提示しています。
では、金斯太洞窟遺跡石器群の製作者はどの人類系統なのか、という問題になるわけですが、本論文は、石器インダストリーと人類系統とを関連づけることに慎重で、この点はもっともだと思います。アルタイ地域のムステリアンは、遺伝学や形態学からネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)のみが担い手と考えられてきており、そうした文脈では、金斯太洞窟遺跡石器群の製作者はネアンデルタール人かネアンデルタール人を祖先に有する集団だと考えられます。しかし、本論文は、人類遺骸やDNAの証拠が得られるまでは確定できない、と慎重な姿勢を示しています。
本論文は、アルタイ地域では、オクラドニコフ洞窟遺跡とチャギルスカヤ洞窟遺跡の石器群とは異なる石器群がカラボム(Kara-Bom)遺跡で発見されていることや、後期更新世のユーラシア東部には、現生人類(Homo sapiens)やネアンデルタール人だけではなく、種区分未定のデニソワ人(Denisovan)も存在したことから、後期更新世のユーラシア東部には多様な人類集団が存在し、交流があったのではないか、と推測しています。北東アジアにおいて、中部旧石器的な金斯太洞窟遺跡石器群と早期上部旧石器群が並存していたことからも、ユーラシア東部の人類史の複雑さが窺えます。また本論文は、金斯太洞窟遺跡における5000年に及ぶ中部旧石器時代の層からは、当時の人類が厳しい環境に適応だけるだけの能力があったのではないか、とも指摘しています。中期~後期更新世ユーラシア東部の人類史は、ユーラシア西部と比較して不明な点が多いことは否定できず、今後、大きく見解が変わっていく可能性もじゅうぶんあるので、注目されます。
参考文献:
Li F. et al.(2018): The easternmost Middle Paleolithic (Mousterian) from Jinsitai Cave, North China. Journal of Human Evolution, 114, 76–84.
https://doi.org/10.1016/j.jhevol.2017.10.004
じゅうらい、ムステリアンの東限はシベリアのアルタイ地域のオクラドニコフ(Okladnikov)洞窟遺跡とチャギルスカヤ(Chagyrskaya)洞窟遺跡あたりでしたが、金斯太洞窟遺跡石器群の分析により、ムステリアン様の石器群の分布範囲は東方に2000kmほど拡大することになります。本論文は、これはユーラシアにおける中部旧石器群の地理的空白というか欠落部分を埋めるものだ、と評価しています。なお、金斯太洞窟遺跡ではクマ・オオカミ・ウマ・サイなどの動物の骨が石器群と共伴していますが、人類遺骸は見つかっていません。
金斯太洞窟遺跡でムステリアン様と分類されている石器群は、7層と8層で発見されています。放射性炭素年代測定法による較正年代では、これらのムステリアン様石器群は47000~37000年前頃となります。金斯太洞窟遺跡石器群の、円盤状縮小や典型的なルヴァロワ(Levallois)技法の石器の少なさや掻器の高い割合などの特徴は、アルタイ地域のオクラドニコフ洞窟遺跡やチャギルスカヤ洞窟遺跡の石器群と類似しています。アルタイ地域のオクラドニコフ洞窟遺跡の年代は曖昧ですが、放射性炭素年代測定法による較正年代で、洞窟内の文化層は45000~40000年前頃、人間の上腕骨断片は40796~39539年前頃と推定されています。チャギルスカヤ洞窟遺跡で得られた試料のほとんどは放射性炭素年代測定法の限界値を超えており、49000年以上前と推測されています。本論文は、金斯太洞窟遺跡石器群は剥片生産と石器再加工の点でユーラシア西部のムステリアンと最も類似していると指摘し、広い意味での中部旧石器群に分類しています。
本論文は、金斯太洞窟遺跡石器群と類似した石器群が近隣地域では見られない、と指摘します。中国北部における中期更新世後期および後期更新世初期(25万~5万年前頃)の中部旧石器的というか上部旧石器的ではない石器群は、周口店(Zhoukoudian)や許家窯(Xujiayao)や板井子(Banjingzi)などの遺跡で発見されています。これらの遺跡の石器群は一般的に、多角体で円盤状の縮小・不規則な剥片・わずかに再加工される掻器などが特徴です。これらの石器群は、ルヴァロワ技法の痕跡のある廃棄物(二次加工や使用痕の認められない石器)が完全に欠けているという点で、金斯太洞窟遺跡石器群と明らかに異なります。
早期上部旧石器群は、シベリアで45000年前頃、モンゴルや中国北部では40000~35000年前頃から確認され、金斯太洞窟遺跡石器群とほぼ同年代となります。北東アジアの早期上部旧石器群は、ルヴァロワ石刃と角柱石刃縮・石刃および細長い剥片の高い割合・石刃の掻器(endscraper)や彫器(burin)の組み合わせにより特徴づけられ、しばしば個人的装飾品が含まれます。これら早期上部旧石器群における石刃や石刃を加工した石器の高い割合は、人工物のうち3%未満しか石刃と分類され得ない金斯太洞窟遺跡石器群との、とくに重要な違いです。金斯太洞窟遺跡の東方や南方でも、現時点では類似した石器群は確認されていません。ただ、本論文は、今後類似した石器群が近隣地域で発見される可能性を指摘しています。
このように、金斯太洞窟遺跡石器群は、現時点では地理的に孤立したインダストリーと言えそうです。金斯太洞窟遺跡石器群は、大まかには北東アジアのムステリアンの地域的な一多様体と評価できそうですが、この地域ではその前提となるような石器群が発見されておらず、アルタイ地域の類似インダストリーの方が早そうなので、金斯太洞窟遺跡石器群は地域的発展の結果ではなく、人類集団の拡散もしくは文化伝播によるものではないか、との見解を本論文は提示しています。
では、金斯太洞窟遺跡石器群の製作者はどの人類系統なのか、という問題になるわけですが、本論文は、石器インダストリーと人類系統とを関連づけることに慎重で、この点はもっともだと思います。アルタイ地域のムステリアンは、遺伝学や形態学からネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)のみが担い手と考えられてきており、そうした文脈では、金斯太洞窟遺跡石器群の製作者はネアンデルタール人かネアンデルタール人を祖先に有する集団だと考えられます。しかし、本論文は、人類遺骸やDNAの証拠が得られるまでは確定できない、と慎重な姿勢を示しています。
本論文は、アルタイ地域では、オクラドニコフ洞窟遺跡とチャギルスカヤ洞窟遺跡の石器群とは異なる石器群がカラボム(Kara-Bom)遺跡で発見されていることや、後期更新世のユーラシア東部には、現生人類(Homo sapiens)やネアンデルタール人だけではなく、種区分未定のデニソワ人(Denisovan)も存在したことから、後期更新世のユーラシア東部には多様な人類集団が存在し、交流があったのではないか、と推測しています。北東アジアにおいて、中部旧石器的な金斯太洞窟遺跡石器群と早期上部旧石器群が並存していたことからも、ユーラシア東部の人類史の複雑さが窺えます。また本論文は、金斯太洞窟遺跡における5000年に及ぶ中部旧石器時代の層からは、当時の人類が厳しい環境に適応だけるだけの能力があったのではないか、とも指摘しています。中期~後期更新世ユーラシア東部の人類史は、ユーラシア西部と比較して不明な点が多いことは否定できず、今後、大きく見解が変わっていく可能性もじゅうぶんあるので、注目されます。
参考文献:
Li F. et al.(2018): The easternmost Middle Paleolithic (Mousterian) from Jinsitai Cave, North China. Journal of Human Evolution, 114, 76–84.
https://doi.org/10.1016/j.jhevol.2017.10.004
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