克服・批判・拒絶すべき思想や宗教
もちろん、克服・批判・拒絶すべき思想や宗教は個人により異なるわけですが、たとえば、現代日本社会、あるいはそれ以上もしくは以下の規模の社会において、かなりの程度社会的合意が得られている事例は珍しくなく、たとえばナチズムは、多くの社会で批判・拒絶すべき思想として扱われている、と言ってよいでしょう。現代日本社会でもそれは同様でしょうが、ナチス文化に甘いといった批判もあり、それは的確だと思います。私が子供の頃には、『リングにかけろ』や『キン肉マン』などの漫画・アニメで、明らかにナチスを意識して造形された人物・組織が登場し、好敵手・仲間として活躍していました。そのなかで最も大きな影響力を有したのは、おそらく『宇宙戦艦ヤマト』なのでしょう。
現代日本社会はナチスに甘いとの批判はもっともなのですが、そうした批判者が、安倍晋三首相をヒトラー、安倍政権をナチスと罵倒することもあり、そのように安易にナチスを比較対象として持ち出すこと自体が、現代日本社会におけるナチス文化への甘さを醸成しているのではないか、と思います。政治家が何かとナチスを引き合いに出すのも、ナチス文化に甘い社会的風潮があるからと言うべきで、麻生副首相が2回もナチスに言及して批判されたことも、そのような社会的文脈で把握すべきなのでしょう。
もっとも、批判された麻生副首相のナチス発言は、「絶対悪」として有名なナチスに安易に言及したという感じで、もっと適切な事例もあるかもしれないのに、知らないからナチスを持ち出しただけ、という側面も多分にあるのでしょう。安倍政権を批判するのに、ナチス(あるいは「戦前」というか大日本帝国)よりもっと適切な事例があるかもしれないのに、すぐにナチス(あるいは「戦前」)を持ち出すことと根本的には同様の構造と言うべきでしょう。まあ、その点では私もあまりにも不勉強なので、せめて自覚して注意せねばなりません。なお、5年近く前(2013年7月29日)の麻生副首相の「ナチスの手口」発言は、今でも「リベラル」側を中心に誤解が少なくないようですが、この問題に関しては、「国家鮟鱇」というブログの2013年7月および8月の一連の記事が有益だと思います。
近年、日本社会では儒教「批判本」が流行しており、それらは「ヘイトスピーチ」・「ネトウヨ」的言説として批判されています。しかし、そうした儒教「批判本」の認識には問題が多いとしても、現代日本社会において儒教は克服されるべき時代錯誤の思想・宗教だと私は確信しています(関連記事)。ただ、儒教は日本社会にあまりにも浸透してしまったので、その影響を短期間で取り除こうとすると、弊害・反動は大きいかもしれません。しかし、文化大革命のようなやり方は論外としても、たとえば20世紀前半の中国の知識層における儒教克服の試みは、現代日本社会でも見習うべき点が少なくないように思います。近代日本では、教育勅語が大きな影響力を有して敗戦まであからさまな批判が躊躇されたように、近代化の中でなし崩し的に儒教が都合よく取り入れられた感があり、少なくとも一度は、儒教批判・克服の大きな社会的運動(潮流)を経験すべきではないか、と考えています。
ナチズムや儒教を批判しても、現代では殺される危険性はきわめて低いでしょうが、イスラム教に関しては、批判を躊躇う人は少なくないと思います。私もこれまでそういうところがありましたが、それこそがイスラム教への偏見なのだ、との批判は当然あるでしょうし、そうした批判にはもっともなところも多分にあると思います。ただ、どのような思想・宗教でも検証・批判の対象になり得るというのが近代化を経た現代社会のあるべき理念だと私は考えており、イスラム教といえども、その例外にすべきではありません。
こんなことを言うと、「リベラル」側は権力勾配や非対称性などを持ち出し、「多様性」という「真理」を主張して、私のような「魂の悪い」愚民にイスラム教への「寛容」を説くのかもしれません。しかし、現在、日本でもヨーロッパでもアメリカ合衆国でも、イスラム教というかイスラム教徒は、単純に人口でも、政治・経済・文化・情報発信の点でも「マイノリティ」かもしれませんが、世界全体では信者が16億人以上と推定される一大宗教ですし、何よりも、少なからぬ現代社会、中でもいわゆる先進国の基本的な価値観は、イスラム教と相容れません(関連記事)。いわゆる先進国の「リベラル」の価値観はとくに、イスラム教と相容れません。自由を否定する思想・集団に自由を認めるのか、というのは古典的な難問ですが、現実問題として、イスラム教を信仰する自由は認めるとしても、イスラム教を批判する自由は保証されねばならないでしょう。もちろん、それだけではなく、イスラム教を批判して危害を加えられるようなことはあってはならない、との広範で強力な社会的合意も必要になります。
ただ、現実問題として、イスラム教は信者が16億人以上と推定される一大宗教ですから、信者が多数派の社会は多く、そうした社会でイスラム教を批判する自由を確保するのはきわめて困難というか、事実上無理でしょう。ならばせめて、イスラム教徒が多数派ではない社会において、イスラム教を批判する自由を確保し続けねばならない、と思います。いつかはそうしたイスラム教批判がイスラム教側の一大宗教改革を誘発する・・・と願いたいところですが、残念ながらその可能性はきわめて低そうです。ならば、せめて、現在イスラム教徒が「マジョリティ」ではない社会において、非イスラム教徒がイスラム教徒を圧倒する社会を維持していくしかありません。この「力」とは、単純な人口だけではなく、経済・政治・文化・情報発信力も含んでいます。もちろん、非イスラム教徒がイスラム教徒を圧倒しているからといって、刑法上の罪を犯していないイスラム教徒を抑圧してはなりませんが。
こんなことを言うと、イスラム教は諸宗教と「共存」してきた長い歴史があり、イスラム教への偏見・差別に他ならない、と批判・罵倒・嘲笑されそうですが、イスラム教には信者を過激派に誘引する強力な内在的論理があり、インターネットの普及に伴い、ずっと多くの信者がイスラム教の正当な解釈に触れやすくなった、と指摘されています(関連記事)。「穏健な」イスラム教の代表例として東南アジアが持ち出され、イスラム教敵視を批判する根拠の一つとされてきましたが、その東南アジアにおいても、イスラム教の「過激化」が問題となりつつある、としばしば報道されています。こうした傾向も、インターネット時代においてイスラム教の正当な解釈に触れやすくなった、という社会的文脈で把握すべきなのでしょう。
正直なところ、イスラム教徒が「マイノリティ」である社会において(上述したように、これは人口だけを基準としているのではありません)、イスラム教への批判の自由が保証され続けたとしても、イスラム教の側が大きく変わるとも思えず、イスラム教徒との対峙は長く変わらないでしょうから、絶望しそうになります。しかし、非イスラム教徒の側がイスラム教徒よりも強い力を保持し続ければ、過激思想に惹かれるイスラム教徒は今後も絶えず、かりにその数が増加傾向を維持し続けるとしても、「実践」を思いとどまる過激派は少なくないでしょう。
かりに、インターネット時代においてイスラム教徒の側が世界規模で圧倒的な力を有してしまえば、非イスラム教徒は生殺与奪権をイスラム教徒側に与えてしまうことになります。もちろん、だからといってイスラム教徒の圧倒的多数は異教徒を殺そうとまでは考えないでしょうが、かりにイスラム教徒が30憶人まで増えて、その0.01%でも「行動的過激派」になったとしたら30万人となるわけで、これだけの数がイスラム教の正当な解釈を声高に主張して異教徒殺害の行動に出たら、多くのイスラム教徒は沈黙してしまうのではないか、と懸念されます。ナチス政権も含めて歴史上の大量殺害や人為的大惨事も、そのような心理の作用が一因ではないか、と思います。
私のような能力も見識も経済力も乏しくほとんど権力を有していない多くの人にできることは限られていますが、まずは、イスラム教徒が「マジョリティ」ではない社会において、イスラム教に問題があると考えたら、批判を躊躇わないことが重要だと思います。大日本帝国再興を主張したり、ナチズムを信奉したりする人々が、我々は「現実主義者」なので現在の力関係を考慮して「実践」はしませんし、現在は「マイノリティ」なので配慮してください(しかし、我々が「マジョリティ」になればどう行動するかは我々次第です)、などと言っても「リベラル」側は遠慮なく批判・罵倒・嘲笑するでしょうが、イスラム教にたいしても、同様の自由は保証されるべきでしょう。日本人の大半はイスラム教徒どころか「啓典の民」でさえないわけで、日本社会においてもっとイスラム教は知られるべきなのでしょう。まあ、私もイスラム教の知識は乏しいので、今後勉強を続けていかねばなりませんが。
現代日本社会はナチスに甘いとの批判はもっともなのですが、そうした批判者が、安倍晋三首相をヒトラー、安倍政権をナチスと罵倒することもあり、そのように安易にナチスを比較対象として持ち出すこと自体が、現代日本社会におけるナチス文化への甘さを醸成しているのではないか、と思います。政治家が何かとナチスを引き合いに出すのも、ナチス文化に甘い社会的風潮があるからと言うべきで、麻生副首相が2回もナチスに言及して批判されたことも、そのような社会的文脈で把握すべきなのでしょう。
もっとも、批判された麻生副首相のナチス発言は、「絶対悪」として有名なナチスに安易に言及したという感じで、もっと適切な事例もあるかもしれないのに、知らないからナチスを持ち出しただけ、という側面も多分にあるのでしょう。安倍政権を批判するのに、ナチス(あるいは「戦前」というか大日本帝国)よりもっと適切な事例があるかもしれないのに、すぐにナチス(あるいは「戦前」)を持ち出すことと根本的には同様の構造と言うべきでしょう。まあ、その点では私もあまりにも不勉強なので、せめて自覚して注意せねばなりません。なお、5年近く前(2013年7月29日)の麻生副首相の「ナチスの手口」発言は、今でも「リベラル」側を中心に誤解が少なくないようですが、この問題に関しては、「国家鮟鱇」というブログの2013年7月および8月の一連の記事が有益だと思います。
近年、日本社会では儒教「批判本」が流行しており、それらは「ヘイトスピーチ」・「ネトウヨ」的言説として批判されています。しかし、そうした儒教「批判本」の認識には問題が多いとしても、現代日本社会において儒教は克服されるべき時代錯誤の思想・宗教だと私は確信しています(関連記事)。ただ、儒教は日本社会にあまりにも浸透してしまったので、その影響を短期間で取り除こうとすると、弊害・反動は大きいかもしれません。しかし、文化大革命のようなやり方は論外としても、たとえば20世紀前半の中国の知識層における儒教克服の試みは、現代日本社会でも見習うべき点が少なくないように思います。近代日本では、教育勅語が大きな影響力を有して敗戦まであからさまな批判が躊躇されたように、近代化の中でなし崩し的に儒教が都合よく取り入れられた感があり、少なくとも一度は、儒教批判・克服の大きな社会的運動(潮流)を経験すべきではないか、と考えています。
ナチズムや儒教を批判しても、現代では殺される危険性はきわめて低いでしょうが、イスラム教に関しては、批判を躊躇う人は少なくないと思います。私もこれまでそういうところがありましたが、それこそがイスラム教への偏見なのだ、との批判は当然あるでしょうし、そうした批判にはもっともなところも多分にあると思います。ただ、どのような思想・宗教でも検証・批判の対象になり得るというのが近代化を経た現代社会のあるべき理念だと私は考えており、イスラム教といえども、その例外にすべきではありません。
こんなことを言うと、「リベラル」側は権力勾配や非対称性などを持ち出し、「多様性」という「真理」を主張して、私のような「魂の悪い」愚民にイスラム教への「寛容」を説くのかもしれません。しかし、現在、日本でもヨーロッパでもアメリカ合衆国でも、イスラム教というかイスラム教徒は、単純に人口でも、政治・経済・文化・情報発信の点でも「マイノリティ」かもしれませんが、世界全体では信者が16億人以上と推定される一大宗教ですし、何よりも、少なからぬ現代社会、中でもいわゆる先進国の基本的な価値観は、イスラム教と相容れません(関連記事)。いわゆる先進国の「リベラル」の価値観はとくに、イスラム教と相容れません。自由を否定する思想・集団に自由を認めるのか、というのは古典的な難問ですが、現実問題として、イスラム教を信仰する自由は認めるとしても、イスラム教を批判する自由は保証されねばならないでしょう。もちろん、それだけではなく、イスラム教を批判して危害を加えられるようなことはあってはならない、との広範で強力な社会的合意も必要になります。
ただ、現実問題として、イスラム教は信者が16億人以上と推定される一大宗教ですから、信者が多数派の社会は多く、そうした社会でイスラム教を批判する自由を確保するのはきわめて困難というか、事実上無理でしょう。ならばせめて、イスラム教徒が多数派ではない社会において、イスラム教を批判する自由を確保し続けねばならない、と思います。いつかはそうしたイスラム教批判がイスラム教側の一大宗教改革を誘発する・・・と願いたいところですが、残念ながらその可能性はきわめて低そうです。ならば、せめて、現在イスラム教徒が「マジョリティ」ではない社会において、非イスラム教徒がイスラム教徒を圧倒する社会を維持していくしかありません。この「力」とは、単純な人口だけではなく、経済・政治・文化・情報発信力も含んでいます。もちろん、非イスラム教徒がイスラム教徒を圧倒しているからといって、刑法上の罪を犯していないイスラム教徒を抑圧してはなりませんが。
こんなことを言うと、イスラム教は諸宗教と「共存」してきた長い歴史があり、イスラム教への偏見・差別に他ならない、と批判・罵倒・嘲笑されそうですが、イスラム教には信者を過激派に誘引する強力な内在的論理があり、インターネットの普及に伴い、ずっと多くの信者がイスラム教の正当な解釈に触れやすくなった、と指摘されています(関連記事)。「穏健な」イスラム教の代表例として東南アジアが持ち出され、イスラム教敵視を批判する根拠の一つとされてきましたが、その東南アジアにおいても、イスラム教の「過激化」が問題となりつつある、としばしば報道されています。こうした傾向も、インターネット時代においてイスラム教の正当な解釈に触れやすくなった、という社会的文脈で把握すべきなのでしょう。
正直なところ、イスラム教徒が「マイノリティ」である社会において(上述したように、これは人口だけを基準としているのではありません)、イスラム教への批判の自由が保証され続けたとしても、イスラム教の側が大きく変わるとも思えず、イスラム教徒との対峙は長く変わらないでしょうから、絶望しそうになります。しかし、非イスラム教徒の側がイスラム教徒よりも強い力を保持し続ければ、過激思想に惹かれるイスラム教徒は今後も絶えず、かりにその数が増加傾向を維持し続けるとしても、「実践」を思いとどまる過激派は少なくないでしょう。
かりに、インターネット時代においてイスラム教徒の側が世界規模で圧倒的な力を有してしまえば、非イスラム教徒は生殺与奪権をイスラム教徒側に与えてしまうことになります。もちろん、だからといってイスラム教徒の圧倒的多数は異教徒を殺そうとまでは考えないでしょうが、かりにイスラム教徒が30憶人まで増えて、その0.01%でも「行動的過激派」になったとしたら30万人となるわけで、これだけの数がイスラム教の正当な解釈を声高に主張して異教徒殺害の行動に出たら、多くのイスラム教徒は沈黙してしまうのではないか、と懸念されます。ナチス政権も含めて歴史上の大量殺害や人為的大惨事も、そのような心理の作用が一因ではないか、と思います。
私のような能力も見識も経済力も乏しくほとんど権力を有していない多くの人にできることは限られていますが、まずは、イスラム教徒が「マジョリティ」ではない社会において、イスラム教に問題があると考えたら、批判を躊躇わないことが重要だと思います。大日本帝国再興を主張したり、ナチズムを信奉したりする人々が、我々は「現実主義者」なので現在の力関係を考慮して「実践」はしませんし、現在は「マイノリティ」なので配慮してください(しかし、我々が「マジョリティ」になればどう行動するかは我々次第です)、などと言っても「リベラル」側は遠慮なく批判・罵倒・嘲笑するでしょうが、イスラム教にたいしても、同様の自由は保証されるべきでしょう。日本人の大半はイスラム教徒どころか「啓典の民」でさえないわけで、日本社会においてもっとイスラム教は知られるべきなのでしょう。まあ、私もイスラム教の知識は乏しいので、今後勉強を続けていかねばなりませんが。
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