倉本一宏『藤原氏―権力中枢の一族』

 これは3月4日分の記事として掲載しておきます。中公新書の一冊として、中央公論新社から2017年12月に刊行されました。本書は、おもに7世紀半ばの乙巳の変から鎌倉時代の五摂家(近衛・九条・一条・二条・鷹司)の分立までを、藤原氏を視点に据えて概観しています。本書のような視点の通史は珍しくないのかもしれませんが、藤原氏のうち摂関家のみならず、氏族全体の動向・盛衰を視野に入れた一般向け書籍となると、意外と少ないのかな、と思います。まあ、私が無知なだけかもしれませんが。

 本書は飛鳥時代・奈良時代に全体の半分ほどを割いており、平安時代がほぼ400年間なのにたいして、飛鳥時代(乙巳の変以降)~奈良時代が150年に満たないくらいの期間であることを考えると、藤原氏成立の過程をかなり重視している、と言えるでしょう。本書では、乙巳の変の主導権を把握していたのは中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足とされていますが、そうならば、蘇我入鹿と古人大兄皇子を殺害・失脚させた後、皇極(斉明)天皇が軽皇子(孝徳天皇)に譲位する必要があるのかな、という疑問は残ります。

 本書は、律令体制下での官人の出世・生存競争は厳しく、一度没落すると復活するのはたいへん困難だった、と強調しますが、確かに、藤原氏に限っても、かつては大臣を複数輩出していながら、後には議政官にも昇進できないようになり、完全に没落する系統も珍しくありません。藤原氏のなかには、地方に進出して、秀郷流のように有力武士団として近世まで存続した系統もありますが、本書は、没落・失敗した系統も多いのではないか、と指摘しています。また本書は、繁栄・没落には偶然的な要素もあり、最初から藤原氏北家の優位が確立していたわけではなく、南家や式家が優勢だった時代があることも指摘しています。

 本書は、古代後期~中世における家業・家格の固定的なイエ社会の到来(たとえば、摂政・関白の地位が天皇とのミウチ関係の有無に左右されず、藤原道長の特定の子孫の家柄に固定されます)までを視野に入れた、藤原氏視点の(乙巳の変から鎌倉時代中期までの)通史としてなかなかよくまとまっているのではないか、と思います。鎌倉時代中期までの日本史の復習にも適していると思います。興味深いのは薬子の変の解釈で、平安京の嵯峨天皇政権(主導者は藤原氏北家を中心とした貴族層)が、平城京の平城上皇の専制的な政治運営を阻止するために起こしたクーデターだ、との見解が提示されています。

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