飯山陽『イスラム教の論理』
これは3月25日分の記事として掲載しておきます。新潮新書の一冊として、新潮社から2018年2月に刊行されました。近年では、「イスラーム」という表記が日本社会でもかなり浸透しているように思われ、私も当ブログでは基本的に「イスラーム」と表記してきましたが、本書は「イスラム教」で一貫しています。本書を読み、ユダヤ教やキリスト教などとの対比という観点からは、「イスラム教」表記の方が妥当なのかな、と考えを改めました。今後、当ブログでは「イスラム教」表記で一貫することにします。ただ、この問題に関してはこれまで不勉強だったので、確信を抱けるほどではなく、今後の課題となります。
本書は、イスラム教の論理を丁寧に解説し、「イスラム国(IS)」など「過激派」の主張が正当なイスラム教解釈に由来している、と指摘します。もちろん、最近読んだ小原克博『一神教とは何か キリスト教、ユダヤ教、イスラームを知るために』(関連記事)でも指摘されていたように、イスラム教の解釈と実践は多様で、本書もその点を否定しているわけではありません。ただ、「原理主義」とか「本質」とかいった言葉で表現すると、本書を浅く理解しているというか、自分の読解力・表現力の乏しさを晒してしまうようですが、イスラム教「過激派」の主張は、かなりのところ正当なイスラム教解釈に基づいており、イスラム教の本質を表しているように思われます。
もちろん、イスラム教誕生以降の歴史が示すように、イスラム教徒が全員、過激派になり、過激な行為を実践するわけではありません。しかし、過激派は少数としても、1980(1990?)年代以降、絶えることはなく、注目を集める過激派の事件が起き続けています。これは、先進諸国による抑圧や搾取、さらにはその結果としての貧困の問題として把握してよいのでしょうか。本書は、そのような現実の社会経済状況と無関係ではないとしても、イスラム教の内在的論理に基づいて(一部の)イスラム教徒は「過激派」になっていき、多数のイスラム教徒もそれ故に過激派の主張を全否定することがないのだ、と丁寧に解説していきます。以前からの持論ですが、宗教や思想体系や価値体系などにおいて、「原理主義」は「正論」であるが故に強く、「原理主義」側から本気で論争を仕掛けられたら、「穏健派(堕落派)」が「論破」するのはきわめて困難で、「穏健派」が「原理主義」を退けるとしたら、経済力・武力・政治力・情報発信力などで圧倒するしかない、と思います。
本書を読むと、イスラム教過激派は原理主義的であるが故にイスラム教徒にとって魅力的であり、実践まで進むイスラム教徒は少数派としても、潜在的な「過激派」は多数いるので、イスラム教が大規模な宗教改革にでも進まない限り、いかにイスラム教徒のいる地域が平和で豊かになろうとも、過激派は次々に出現し続けるだろうな、と諦めの境地に至ってしまいます。本書も、どうすればイスラム教で大規模な宗教改革が起きるのか、解決策をまったく提示できていません。非イスラム教徒は今後も、このきわめて厄介なイスラム教とどのように接していけばよいのか、分からずに迷走していきそうで、絶望しそうになります。
過激派はごく少数であり、懸念は偏見・差別に他ならないとの見解もあるでしょうが、かりにイスラム教徒の0.01%が過激派になるとして、確かに比率ではごく少数派でも、人口1000万人の社会では1000人となります。1000万人程度の規模の社会で自爆を正当化するような過激派が1000人もいれば、たいへんな脅威と言うべきでしょう。それでも、「リベラル様」はイスラム教自体には問題がないと擁護するでしょうが、かりに、日本社会において過激な差別主義者が人口の0.01%いたとして、過激派は0.01%にすぎないから日本社会への懸念は偏見・差別に他ならない、との見解が妥当なのか、よく考えてみるべきでしょう。日本社会で人口の0.01%とは12000人以上になるわけで、それだけの人数の過激な差別主義者が日本社会程度の面積にいれば、社会にとってたいへんな脅威と言うべきでしょう。
イスラム教は、近年のリベラリズムも含む近代以降のヨーロッパ的価値観とは本質的に相容れないのに、リベラル勢力により「多様性」や「寛容」などと言ってイスラム教が擁護されるのは、現在のリベラリズム側の深刻な矛盾ではないか、と思ってしまいます。近代以降のヨーロッパの価値観を多分に受容した現代日本社会にとっても、イスラム教は深刻な脅威になると思います。また、日本の近代化の前提となった前近代社会にしても、イスラム教とは本質的に相容れないと思います。今後、イスラム教にどう対応していくのか、現在はヨーロッパほど深刻ではないとしても、日本社会にとっても悩ましいところです。
私が、本書の見解をおおむね好意的に受け取り、上記のように考えてしまうのは、以前からイスラム教への反感と嫌悪感が強いからだということは否定できません。したがって、「リベラル様」からは、無知な差別主義者のイスラム恐怖症だ、と批判・罵倒・嘲笑されそうです。まあ、本書のイスラム教解釈と評価がどこまで妥当なのか、近代以降のヨーロッパ的価値観を規範とする社会において敵視・危険視されるようなイスラム教の要素を強調しているのではないか、との疑問も残ります。おそらく、「リベラル様」は本書を徹底的に批判・罵倒・嘲笑することでしょう。まあ私はそれでも、本書は教えられることの多い有益な一冊だった、と考えていますが。イスラム教は、現代日本社会では身近な存在になりつつあるように思います。能力・経済力からも、私に可能なことは限定的ですが、イスラム教とどのように接すればよいのか、まずはイスラム教をよく知らねばならないことは確かでしょう。今後も、イスラム教については少しずつ調べていくつもりです。
本書は、イスラム教の論理を丁寧に解説し、「イスラム国(IS)」など「過激派」の主張が正当なイスラム教解釈に由来している、と指摘します。もちろん、最近読んだ小原克博『一神教とは何か キリスト教、ユダヤ教、イスラームを知るために』(関連記事)でも指摘されていたように、イスラム教の解釈と実践は多様で、本書もその点を否定しているわけではありません。ただ、「原理主義」とか「本質」とかいった言葉で表現すると、本書を浅く理解しているというか、自分の読解力・表現力の乏しさを晒してしまうようですが、イスラム教「過激派」の主張は、かなりのところ正当なイスラム教解釈に基づいており、イスラム教の本質を表しているように思われます。
もちろん、イスラム教誕生以降の歴史が示すように、イスラム教徒が全員、過激派になり、過激な行為を実践するわけではありません。しかし、過激派は少数としても、1980(1990?)年代以降、絶えることはなく、注目を集める過激派の事件が起き続けています。これは、先進諸国による抑圧や搾取、さらにはその結果としての貧困の問題として把握してよいのでしょうか。本書は、そのような現実の社会経済状況と無関係ではないとしても、イスラム教の内在的論理に基づいて(一部の)イスラム教徒は「過激派」になっていき、多数のイスラム教徒もそれ故に過激派の主張を全否定することがないのだ、と丁寧に解説していきます。以前からの持論ですが、宗教や思想体系や価値体系などにおいて、「原理主義」は「正論」であるが故に強く、「原理主義」側から本気で論争を仕掛けられたら、「穏健派(堕落派)」が「論破」するのはきわめて困難で、「穏健派」が「原理主義」を退けるとしたら、経済力・武力・政治力・情報発信力などで圧倒するしかない、と思います。
本書を読むと、イスラム教過激派は原理主義的であるが故にイスラム教徒にとって魅力的であり、実践まで進むイスラム教徒は少数派としても、潜在的な「過激派」は多数いるので、イスラム教が大規模な宗教改革にでも進まない限り、いかにイスラム教徒のいる地域が平和で豊かになろうとも、過激派は次々に出現し続けるだろうな、と諦めの境地に至ってしまいます。本書も、どうすればイスラム教で大規模な宗教改革が起きるのか、解決策をまったく提示できていません。非イスラム教徒は今後も、このきわめて厄介なイスラム教とどのように接していけばよいのか、分からずに迷走していきそうで、絶望しそうになります。
過激派はごく少数であり、懸念は偏見・差別に他ならないとの見解もあるでしょうが、かりにイスラム教徒の0.01%が過激派になるとして、確かに比率ではごく少数派でも、人口1000万人の社会では1000人となります。1000万人程度の規模の社会で自爆を正当化するような過激派が1000人もいれば、たいへんな脅威と言うべきでしょう。それでも、「リベラル様」はイスラム教自体には問題がないと擁護するでしょうが、かりに、日本社会において過激な差別主義者が人口の0.01%いたとして、過激派は0.01%にすぎないから日本社会への懸念は偏見・差別に他ならない、との見解が妥当なのか、よく考えてみるべきでしょう。日本社会で人口の0.01%とは12000人以上になるわけで、それだけの人数の過激な差別主義者が日本社会程度の面積にいれば、社会にとってたいへんな脅威と言うべきでしょう。
イスラム教は、近年のリベラリズムも含む近代以降のヨーロッパ的価値観とは本質的に相容れないのに、リベラル勢力により「多様性」や「寛容」などと言ってイスラム教が擁護されるのは、現在のリベラリズム側の深刻な矛盾ではないか、と思ってしまいます。近代以降のヨーロッパの価値観を多分に受容した現代日本社会にとっても、イスラム教は深刻な脅威になると思います。また、日本の近代化の前提となった前近代社会にしても、イスラム教とは本質的に相容れないと思います。今後、イスラム教にどう対応していくのか、現在はヨーロッパほど深刻ではないとしても、日本社会にとっても悩ましいところです。
私が、本書の見解をおおむね好意的に受け取り、上記のように考えてしまうのは、以前からイスラム教への反感と嫌悪感が強いからだということは否定できません。したがって、「リベラル様」からは、無知な差別主義者のイスラム恐怖症だ、と批判・罵倒・嘲笑されそうです。まあ、本書のイスラム教解釈と評価がどこまで妥当なのか、近代以降のヨーロッパ的価値観を規範とする社会において敵視・危険視されるようなイスラム教の要素を強調しているのではないか、との疑問も残ります。おそらく、「リベラル様」は本書を徹底的に批判・罵倒・嘲笑することでしょう。まあ私はそれでも、本書は教えられることの多い有益な一冊だった、と考えていますが。イスラム教は、現代日本社会では身近な存在になりつつあるように思います。能力・経済力からも、私に可能なことは限定的ですが、イスラム教とどのように接すればよいのか、まずはイスラム教をよく知らねばならないことは確かでしょう。今後も、イスラム教については少しずつ調べていくつもりです。
この記事へのコメント
NHK radio や教養セミナーから、
イスラム正統派アラブの異民族司法はヨーロッパ火薬庫の惨事で
民族自決が近代的司法、
アフガンパキスタン北部パシュトゥン人は、元祖難き仇討ち江戸の華、殺られた横変死遺族による報復司法で、
イスラミックステイトとタリバン彼の地神学生は、武力抗争中。
一部の新教以外は、法人の宗教故、
該当法人所属の弱い個人からあの世の不幸?
勝手な思い込みかもしれないけど