儒教と近代化
これは3月22日分の記事として掲載しておきます。先月(2018年2月)、井沢元彦氏について述べた記事で、儒教と近代化の関係を少しだけ述べました。儒教は近代化を阻む要因として指弾されることが多いものの、日本の近代化で朱子学をはじめとして儒教が果たした役割を重視する見解も提示されている、と述べたわけですが、過去に当ブログで取り上げておきながら、その記事で言及し忘れたことがあるので、この記事を追記とします。
それは、近代化への対応において、非ヨーロッパ地域でも、儒教の影響の強い地域(おおむね東アジアと言ってよさそうですが)は、そうではない地域よりも有利な点があったのではないか、ということです。前近代において、ヨーロッパ勢力がアメリカ大陸など世界中に拡散していった時、西アジアや南アジアでは王権への貢献者(個人や集団)が宗教や出自によらず厚遇されたのにたいして、日本の徳川政権では人間の「内」と「外」の区別をはっきりとつける方針が取られました(関連記事)。
これは、儒教の世界観が礼の有無による区別を重視していたことが一因としてあるのではないか、と思います。その意味で、中華地域や朝鮮も西アジアや南アジアよりもヨーロッパ発の近代化への対応において有利なところがあったのではないか、と思います。中華地域や朝鮮が日本よりも近代化で遅れた理由の一つとしては、社会構造の違いが考えられます。日本においては、内と外を峻別する村を基盤とした戦国大名領国の成立に、近代以降の国民国家の原型の形成を認める見解もあります(関連記事)。中華地域に関しては、近代前期の技術力・経済力では広範で多様な地域を単一の国民国家として統合することが困難だった、との事情も大きいでしょう。
また、礼の有無により中華と夷狄を区別する儒教は、「文明」の有無により個人と国を区別するヨーロッパの近代黎明期の諸国家と論理がよく似ている、と言えるでしょう。もちろん、近代化において基準となった「文明」と儒教の礼とでは、内実に大きな違いがあるわけですが、後天的な修練により習得可能な規範・教養により人や集団は正当に区別され得る、との論理は酷似している、と言えるでしょう。この点でも、儒教はヨーロッパ発の近代化と親和的なところがあります。まあ、近代ヨーロッパにおいては、この違いは生得的なものである、との「人種」差別も広く支持されたわけですが、私の見識ではそれも取り入れて的確にまとめられないので、今回はこれ以上触れません。日本の近代化の過程で朱子学をはじめとして儒教が果たした役割は大きく、江戸時代に儒教が浸透していなければ、近代のさまざまな概念の理解がもっと困難になった可能性は高いでしょう。
しかし、上述したように、近代化において基準となった「文明」と儒教の礼とでは、内実に大きな違いがあります。幕末から近代前期にかけての「不平等条約」の理解を儒教が阻んでいたように(関連記事)、身分秩序を前提として現状追認的傾向のある儒教の大きな弊害は否定できず、現代日本社会においても、儒教の克服は依然として大きな課題とすべきではないか、と思います。近年、中国では総合的国力の増大とともに、国民が自信をつけてきたためか、伝統文化たる儒教に肯定的な傾向が見られます。しかし、毛沢東政権期の儒教攻撃には行き過ぎがあったとしても、20世紀前半の中国の知識層における儒教克服の試みは基本的には間違っていなかったと思います。近代日本では、教育勅語が大きな影響力を有して敗戦まであからさまな批判が躊躇されたように、近代化の中でなし崩し的に儒教が都合よく取り入れられた感があり、その意味で、20世紀前半の中国の知識層における儒教克服の試みの意義は、現代日本社会でも大きいと思います。
私は「反リベラル」傾向が強いと自覚していますが、だからといって「反リベラル」や「保守」に徹することもできず、近代化の恩恵にはある程度自覚的でいるつもりで(私の見識では気づいていない点も多々あるでしょうが)、基本的には近代化を尊重しています。その意味で、現代日本社会において儒教は克服されるべきだ、との信念は今後も変わらないでしょう。しかし、近代化の(一方向の)延長線上にあると思われる、「多様性」や「寛容」を強調し、「アイデンティティポリティクス」に傾斜する近年の「リベラル」的言説には、大いに違和感があります。
これは、私の立場では「リベラル」的言説を真に受けると搾取されるだけだ、との危機感に起因するのですが、「リベラル様」に言わせると、私は「リベラル」的言説が私のような立場の人間を守ると理解できない、愚かな「肉屋を支持する豚」で、「魂の悪い」人間なのだ、ということになるのでしょう。しかし、
要するに「功績は個人のものだから個人を讃えよう、困窮は社会の責任なので皆で支えよう」という人と「功績は社会全体のもの、困窮はそいつ個人が悪い」という人の2種類がいるってだけの話なんだな。僕は前者の方が高潔で徳の高い人間だと思うよ。みんなはどう思う?
との発言にたいして、
その高潔な思想をかいつまむと、「社会」は個人に都合の悪いときだけ責任を取らされ、都合のいいときは大人しくしてろと命じられるブラックなセクターということになりますけど、社会はあくまで個人の集合なんですよね。これをどうお考えになるのか。誰がブラックなセクターを担うのでしょうか。
との指摘に見られますが、「リベラル」的言説を真に受けると、自分が「ブラックなセクターを担う」人物にならざるを得ないのではないか、との疑念は拭えません。私は、「同情されないような」いくつかの重要な「アイデンティティ」において「マジョリティ」だからです。
まあ、こんなことを言うと「ネトウヨ」扱いされても仕方ないでしょうが、私は、現代日本社会の夫婦同氏(同姓)は明治になっての西洋の物真似ではなく前近代の慣行に由来すると考えており(関連記事)、元々人類社会は父系的な構造で、「原始的な」社会が「発展する」と母系社会から父系社会へ移行するといった見解は偏見そのもので、唯物史観の悪影響だと考えていますし(関連記事)、現代日本社会においては、縄文時代の日本列島の住民の遺伝的影響はかなり低そうではあるものの、言語をはじめとして文化面では遺伝的影響から想定されるよりも影響が高いかもしれない(関連記事)、と推測しており、中華人民共和国の成立期に関しても、伝統的な公的史観とは異なる見解を支持しているので(関連記事)、少なからぬ「リベラル様」にとっては、「ネトウヨ」そのものかもしれません。
それは、近代化への対応において、非ヨーロッパ地域でも、儒教の影響の強い地域(おおむね東アジアと言ってよさそうですが)は、そうではない地域よりも有利な点があったのではないか、ということです。前近代において、ヨーロッパ勢力がアメリカ大陸など世界中に拡散していった時、西アジアや南アジアでは王権への貢献者(個人や集団)が宗教や出自によらず厚遇されたのにたいして、日本の徳川政権では人間の「内」と「外」の区別をはっきりとつける方針が取られました(関連記事)。
これは、儒教の世界観が礼の有無による区別を重視していたことが一因としてあるのではないか、と思います。その意味で、中華地域や朝鮮も西アジアや南アジアよりもヨーロッパ発の近代化への対応において有利なところがあったのではないか、と思います。中華地域や朝鮮が日本よりも近代化で遅れた理由の一つとしては、社会構造の違いが考えられます。日本においては、内と外を峻別する村を基盤とした戦国大名領国の成立に、近代以降の国民国家の原型の形成を認める見解もあります(関連記事)。中華地域に関しては、近代前期の技術力・経済力では広範で多様な地域を単一の国民国家として統合することが困難だった、との事情も大きいでしょう。
また、礼の有無により中華と夷狄を区別する儒教は、「文明」の有無により個人と国を区別するヨーロッパの近代黎明期の諸国家と論理がよく似ている、と言えるでしょう。もちろん、近代化において基準となった「文明」と儒教の礼とでは、内実に大きな違いがあるわけですが、後天的な修練により習得可能な規範・教養により人や集団は正当に区別され得る、との論理は酷似している、と言えるでしょう。この点でも、儒教はヨーロッパ発の近代化と親和的なところがあります。まあ、近代ヨーロッパにおいては、この違いは生得的なものである、との「人種」差別も広く支持されたわけですが、私の見識ではそれも取り入れて的確にまとめられないので、今回はこれ以上触れません。日本の近代化の過程で朱子学をはじめとして儒教が果たした役割は大きく、江戸時代に儒教が浸透していなければ、近代のさまざまな概念の理解がもっと困難になった可能性は高いでしょう。
しかし、上述したように、近代化において基準となった「文明」と儒教の礼とでは、内実に大きな違いがあります。幕末から近代前期にかけての「不平等条約」の理解を儒教が阻んでいたように(関連記事)、身分秩序を前提として現状追認的傾向のある儒教の大きな弊害は否定できず、現代日本社会においても、儒教の克服は依然として大きな課題とすべきではないか、と思います。近年、中国では総合的国力の増大とともに、国民が自信をつけてきたためか、伝統文化たる儒教に肯定的な傾向が見られます。しかし、毛沢東政権期の儒教攻撃には行き過ぎがあったとしても、20世紀前半の中国の知識層における儒教克服の試みは基本的には間違っていなかったと思います。近代日本では、教育勅語が大きな影響力を有して敗戦まであからさまな批判が躊躇されたように、近代化の中でなし崩し的に儒教が都合よく取り入れられた感があり、その意味で、20世紀前半の中国の知識層における儒教克服の試みの意義は、現代日本社会でも大きいと思います。
私は「反リベラル」傾向が強いと自覚していますが、だからといって「反リベラル」や「保守」に徹することもできず、近代化の恩恵にはある程度自覚的でいるつもりで(私の見識では気づいていない点も多々あるでしょうが)、基本的には近代化を尊重しています。その意味で、現代日本社会において儒教は克服されるべきだ、との信念は今後も変わらないでしょう。しかし、近代化の(一方向の)延長線上にあると思われる、「多様性」や「寛容」を強調し、「アイデンティティポリティクス」に傾斜する近年の「リベラル」的言説には、大いに違和感があります。
これは、私の立場では「リベラル」的言説を真に受けると搾取されるだけだ、との危機感に起因するのですが、「リベラル様」に言わせると、私は「リベラル」的言説が私のような立場の人間を守ると理解できない、愚かな「肉屋を支持する豚」で、「魂の悪い」人間なのだ、ということになるのでしょう。しかし、
要するに「功績は個人のものだから個人を讃えよう、困窮は社会の責任なので皆で支えよう」という人と「功績は社会全体のもの、困窮はそいつ個人が悪い」という人の2種類がいるってだけの話なんだな。僕は前者の方が高潔で徳の高い人間だと思うよ。みんなはどう思う?
との発言にたいして、
その高潔な思想をかいつまむと、「社会」は個人に都合の悪いときだけ責任を取らされ、都合のいいときは大人しくしてろと命じられるブラックなセクターということになりますけど、社会はあくまで個人の集合なんですよね。これをどうお考えになるのか。誰がブラックなセクターを担うのでしょうか。
との指摘に見られますが、「リベラル」的言説を真に受けると、自分が「ブラックなセクターを担う」人物にならざるを得ないのではないか、との疑念は拭えません。私は、「同情されないような」いくつかの重要な「アイデンティティ」において「マジョリティ」だからです。
まあ、こんなことを言うと「ネトウヨ」扱いされても仕方ないでしょうが、私は、現代日本社会の夫婦同氏(同姓)は明治になっての西洋の物真似ではなく前近代の慣行に由来すると考えており(関連記事)、元々人類社会は父系的な構造で、「原始的な」社会が「発展する」と母系社会から父系社会へ移行するといった見解は偏見そのもので、唯物史観の悪影響だと考えていますし(関連記事)、現代日本社会においては、縄文時代の日本列島の住民の遺伝的影響はかなり低そうではあるものの、言語をはじめとして文化面では遺伝的影響から想定されるよりも影響が高いかもしれない(関連記事)、と推測しており、中華人民共和国の成立期に関しても、伝統的な公的史観とは異なる見解を支持しているので(関連記事)、少なからぬ「リベラル様」にとっては、「ネトウヨ」そのものかもしれません。
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