渡邉美樹参院議員には「人として大切なものが欠落している」のか
これは3月20日分の記事として掲載しておきます。表題は最近私のネット環境ではよく見かける人の発言で、「正直言って渡辺美樹氏は議員として以前に、人として大切なものが欠落しているとしか思えないのです。そして彼を公聴会で質疑させた自民党に対しても、同じようにしか思えないのです」とのことです。これまでのさまざまな報道からは、渡邉美樹氏が他者への共感を欠いているように思われますが、実のところ私も、強く確信しているとまでは言わないとしても、そうしたところが多分にあるのは多分間違いないだろう、と考えています。
その意味で、渡邉氏には「人として大切なものが欠落している」と言っても大過ないのかもしれませんが、こうした発言は妥当なのだろうか、と疑問に思ってしまいます。仮に渡邉氏に他者への共感が多分に欠けているとして、それは(ネットで得た情報だけんので確定的とは言えませんが)若い頃の本人の責任ではない苦労が原因となっていたり、生得的なものであったりする可能性も想定されます。ルールを内面化できていなかったり、他者に共感できなかったりする人々(しばしば「サイコパス」と呼ばれます)は現代社会において一定の割合で存在し、それはかなりのところ生得的ではないか、と思います。
そうした生得的な性質にたいして、「人として大切なものが欠落している」と言ってしまってよいのか、私は今では躊躇します。もちろん、生得的だから認められねばならない、と言ってしまうと自然主義的誤謬で(関連記事)、快楽殺人さえ擁護されかねないなどといった危険性はあるのですが、生得的な性質への少なくともある程度以上の配慮や尊重のない社会は本当に恐ろしいと思います。その意味で、他者への共感が多分に欠けているような人物にたいして、「人として大切なものが欠落している」と公言してしまうことには大いに疑問が残ります。
権力勾配や非対称性などを持ち出して、実業家として成功した国会議員なのだから、その程度の発言は当然許容されるべきだ、との見解もあるかもしれません。しかし、強者と弱者という構造は全体的には堅牢だとしても、個人単位で見ていけば案外脆いものであり、安易に個人を必要以上に叩くことには疑問が残ります。それはやがて、社会を殺伐とさせて、自分や自分が支持する個人・組織に跳ね返ってくることも充分考えられます。戦間期ドイツにおけるナチスの台頭も、敵対的な勢力への過激な発言や暴力が横行し、それらを容認してしまった社会風潮に一因があると思います。まあ、こんなことを言うと、「トーンポリシング」だと批判されそうですが。ただ、渡邉氏のような人物にたいして、つい「人として大切なものが欠落している」と言ってしまうのも普遍的心理であり、正直なところ私も、自分と直接的な関わりがあれば、自分を抑えられるか、確信を持てません。
人類史において、フリーライダー的な性向を抑制する社会選択が強力に作用し続けてきたのに、ルールを内面化できていなかったり、しばしば「サイコパス」と呼ばれるような、他者に共感できなかったりする人々が現代社会において一定の割合で存在するのは、一見すると不可解です。しかし、人間の発達した認知能力により、ルールを内面化できていなかったり、他者に共感できなかったりする人々も、ルールや他者への共感が社会で果たす重要な役割を理解できるので、ルールを順守したり、そのように装ったりできます(関連記事)。
利他的な傾向の強い人々の多い社会において、能力と環境(運)に恵まれたフリーライダーは、政治権力・経済力・繁殖などの点できわめて大きな利益を得ることが可能なので、狩猟採集社会よりもずっと大規模な社会においては、フリーライダーを淘汰することがより難しくなっている、と言えるかもしれません。その意味で、今後も渡邉氏的な人物が大きな社会的影響力を有する状況は変わらないでしょうから、渡邉氏的な人物の「暴走」を抑制する仕組みの構築(もちろん、完全だったり永続的だったりする仕組みは存在し得ないわけですが)が精一杯の対応と言うべきなのでしょう。
しかし、今後遺伝子研究が進んでいく過程で、「サイコパス」と呼ばれるような人物に育つ可能性の高い遺伝子群が特定されるかもしれません(とはいっても、遺伝子と環境の複雑な関係は簡単には明らかにならないでしょうが)。では、大規模な社会では排除の難しい「サイコパス」を排除してもよいものなのか、といった議論も今後提起されるかもしれません。「サイコパス」に向いている職業があるとも言われているように、「功利的」判断から「サイコパス」の排除に反対する見解もあるかもしれませんが、これは「望ましくない性質」を排除する優生学的発想であり、優生学の問題点を考えると、「サイコパス」の排除は、せいぜい、上述した「暴走」を抑制する仕組みの構築に留めておくべきでしょう。
優生学は、現実主義者(気取りの人)にとっては真理なのかもしれませんが、自然主義的誤謬というだけではなく、「功利的」観点からでさえ問題だと思います。現代社会では生存の危険性を高める形質には、かつては不利ではなかったか、有利でさえあったものも少なくないようです(関連記事)。生物の諸形質に関する「優秀・劣等」や「有利・不利」などという二分論的な評価は、多分に環境依存的と言うべきでしょう。これは、善悪などといった価値観に関しても同様です。この場合の環境とは、自然的なものだけではなく人為的なものでもあり(自然と人為という安易な二分法の問題はさておくとして)、その意味でも、特定の環境への過剰な適応を目的にしているとも言える優生学の危険性は明らかだと思います。
まあ、私は自覚的な「反リベラル」傾向の強い人間なので、「リベラル側」の「多様性」や「寛容」の尊重を強調する傾向には不信感を抱いていますが、だからといって、特定の生得的な性質を安易に排除してしまうのは、取り返しのつかないたいへん恐ろしいことだと思います。もっとも、自覚的な「反リベラル」傾向が強いとはいっても、公文書での元号のみの使用がすっかり定着していることに批判的で、「反リベラル」や「保守」に徹することのできない中途半端な人間で、原理主義的な振る舞いはできそうにありませんが、私のような中途半端で平凡な人間が社会では圧倒的に多いだろう、と開き直っています。
その意味で、渡邉氏には「人として大切なものが欠落している」と言っても大過ないのかもしれませんが、こうした発言は妥当なのだろうか、と疑問に思ってしまいます。仮に渡邉氏に他者への共感が多分に欠けているとして、それは(ネットで得た情報だけんので確定的とは言えませんが)若い頃の本人の責任ではない苦労が原因となっていたり、生得的なものであったりする可能性も想定されます。ルールを内面化できていなかったり、他者に共感できなかったりする人々(しばしば「サイコパス」と呼ばれます)は現代社会において一定の割合で存在し、それはかなりのところ生得的ではないか、と思います。
そうした生得的な性質にたいして、「人として大切なものが欠落している」と言ってしまってよいのか、私は今では躊躇します。もちろん、生得的だから認められねばならない、と言ってしまうと自然主義的誤謬で(関連記事)、快楽殺人さえ擁護されかねないなどといった危険性はあるのですが、生得的な性質への少なくともある程度以上の配慮や尊重のない社会は本当に恐ろしいと思います。その意味で、他者への共感が多分に欠けているような人物にたいして、「人として大切なものが欠落している」と公言してしまうことには大いに疑問が残ります。
権力勾配や非対称性などを持ち出して、実業家として成功した国会議員なのだから、その程度の発言は当然許容されるべきだ、との見解もあるかもしれません。しかし、強者と弱者という構造は全体的には堅牢だとしても、個人単位で見ていけば案外脆いものであり、安易に個人を必要以上に叩くことには疑問が残ります。それはやがて、社会を殺伐とさせて、自分や自分が支持する個人・組織に跳ね返ってくることも充分考えられます。戦間期ドイツにおけるナチスの台頭も、敵対的な勢力への過激な発言や暴力が横行し、それらを容認してしまった社会風潮に一因があると思います。まあ、こんなことを言うと、「トーンポリシング」だと批判されそうですが。ただ、渡邉氏のような人物にたいして、つい「人として大切なものが欠落している」と言ってしまうのも普遍的心理であり、正直なところ私も、自分と直接的な関わりがあれば、自分を抑えられるか、確信を持てません。
人類史において、フリーライダー的な性向を抑制する社会選択が強力に作用し続けてきたのに、ルールを内面化できていなかったり、しばしば「サイコパス」と呼ばれるような、他者に共感できなかったりする人々が現代社会において一定の割合で存在するのは、一見すると不可解です。しかし、人間の発達した認知能力により、ルールを内面化できていなかったり、他者に共感できなかったりする人々も、ルールや他者への共感が社会で果たす重要な役割を理解できるので、ルールを順守したり、そのように装ったりできます(関連記事)。
利他的な傾向の強い人々の多い社会において、能力と環境(運)に恵まれたフリーライダーは、政治権力・経済力・繁殖などの点できわめて大きな利益を得ることが可能なので、狩猟採集社会よりもずっと大規模な社会においては、フリーライダーを淘汰することがより難しくなっている、と言えるかもしれません。その意味で、今後も渡邉氏的な人物が大きな社会的影響力を有する状況は変わらないでしょうから、渡邉氏的な人物の「暴走」を抑制する仕組みの構築(もちろん、完全だったり永続的だったりする仕組みは存在し得ないわけですが)が精一杯の対応と言うべきなのでしょう。
しかし、今後遺伝子研究が進んでいく過程で、「サイコパス」と呼ばれるような人物に育つ可能性の高い遺伝子群が特定されるかもしれません(とはいっても、遺伝子と環境の複雑な関係は簡単には明らかにならないでしょうが)。では、大規模な社会では排除の難しい「サイコパス」を排除してもよいものなのか、といった議論も今後提起されるかもしれません。「サイコパス」に向いている職業があるとも言われているように、「功利的」判断から「サイコパス」の排除に反対する見解もあるかもしれませんが、これは「望ましくない性質」を排除する優生学的発想であり、優生学の問題点を考えると、「サイコパス」の排除は、せいぜい、上述した「暴走」を抑制する仕組みの構築に留めておくべきでしょう。
優生学は、現実主義者(気取りの人)にとっては真理なのかもしれませんが、自然主義的誤謬というだけではなく、「功利的」観点からでさえ問題だと思います。現代社会では生存の危険性を高める形質には、かつては不利ではなかったか、有利でさえあったものも少なくないようです(関連記事)。生物の諸形質に関する「優秀・劣等」や「有利・不利」などという二分論的な評価は、多分に環境依存的と言うべきでしょう。これは、善悪などといった価値観に関しても同様です。この場合の環境とは、自然的なものだけではなく人為的なものでもあり(自然と人為という安易な二分法の問題はさておくとして)、その意味でも、特定の環境への過剰な適応を目的にしているとも言える優生学の危険性は明らかだと思います。
まあ、私は自覚的な「反リベラル」傾向の強い人間なので、「リベラル側」の「多様性」や「寛容」の尊重を強調する傾向には不信感を抱いていますが、だからといって、特定の生得的な性質を安易に排除してしまうのは、取り返しのつかないたいへん恐ろしいことだと思います。もっとも、自覚的な「反リベラル」傾向が強いとはいっても、公文書での元号のみの使用がすっかり定着していることに批判的で、「反リベラル」や「保守」に徹することのできない中途半端な人間で、原理主義的な振る舞いはできそうにありませんが、私のような中途半端で平凡な人間が社会では圧倒的に多いだろう、と開き直っています。
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