小原克博『一神教とは何か キリスト教、ユダヤ教、イスラームを知るために』
これは3月18日分の記事として掲載しておきます。平凡社新書の一冊として、平凡社より2018年2月に刊行されました。本書は、現代日本社会において「一神教」として分類されることの多いキリスト教・ユダヤ教・イスラームを、「一神教」という概念の形成過程とその妥当性にも言及しつつ、解説しています。著者の専門分野との関係から、キリスト教に関する解説が多くなっていますが、全体的には、現代日本社会における一般的な理解度を踏まえた解説となっており、「一神教」の入門書として適しているのではないか、と思います。
非寛容な一神教世界と寛容な多神教世界、現代社会の危機の根本的要因としての一神教的世界観という、現代日本社会ではかなり定着しているように思われる俗論にたいして、私は昔から批判的でした(関連記事)。本書でもこのような俗論が批判されていますが、今後、日本社会においてイスラームやキリスト教との接点がもっと増えていくと予想されるだけに、非寛容な一神教世界と寛容な多神教世界という俗論への批判は日本社会において周知されるべきだと思います。
本書は、現代日本社会における一般的な理解度にも配慮し、キリスト教・ユダヤ教・イスラームを「一神教」として把握しつつも、各宗教間、さらには各宗教内の違いを指摘しています。たとえば、原罪に関する認識は、キリスト教とイスラームとで大きく違いますが、キリスト教内部でも、西方教会(カトリック)と東方教会(正教会)とで違いが大きいことを本書は指摘しています。また、戦争の正当化と平和に関する問題でも、とくにキリスト教とイスラームにおけるそれぞれの内部での多様性が指摘されています。
終末論や原理主義や政教分離についてもそうですが、本書は「一神教」の多様性を強調し、「一神教」として一括されることも少なくない現代日本社会への啓蒙であるとともに、警鐘でもあるように思います。非寛容な一神教世界と寛容な多神教世界という現代日本社会の通俗的な胡散臭い言説も、「一神教」の多様性という観点から批判されています。確かに、本書における「一神教」の多様性の指摘は、現代日本社会において意義深いとは思いますが、正直なところ、「リベラル作法」を意識しすぎで、「一神教」の有する暴力性や危険性が軽視されているのではないか、とも思われました。まあ、私が無知で「魂の悪い」人間であるために、「リベラル」を理解できずに敵視しているからそう思うのだ、と嘲笑されそうですが。
非寛容な一神教世界と寛容な多神教世界、現代社会の危機の根本的要因としての一神教的世界観という、現代日本社会ではかなり定着しているように思われる俗論にたいして、私は昔から批判的でした(関連記事)。本書でもこのような俗論が批判されていますが、今後、日本社会においてイスラームやキリスト教との接点がもっと増えていくと予想されるだけに、非寛容な一神教世界と寛容な多神教世界という俗論への批判は日本社会において周知されるべきだと思います。
本書は、現代日本社会における一般的な理解度にも配慮し、キリスト教・ユダヤ教・イスラームを「一神教」として把握しつつも、各宗教間、さらには各宗教内の違いを指摘しています。たとえば、原罪に関する認識は、キリスト教とイスラームとで大きく違いますが、キリスト教内部でも、西方教会(カトリック)と東方教会(正教会)とで違いが大きいことを本書は指摘しています。また、戦争の正当化と平和に関する問題でも、とくにキリスト教とイスラームにおけるそれぞれの内部での多様性が指摘されています。
終末論や原理主義や政教分離についてもそうですが、本書は「一神教」の多様性を強調し、「一神教」として一括されることも少なくない現代日本社会への啓蒙であるとともに、警鐘でもあるように思います。非寛容な一神教世界と寛容な多神教世界という現代日本社会の通俗的な胡散臭い言説も、「一神教」の多様性という観点から批判されています。確かに、本書における「一神教」の多様性の指摘は、現代日本社会において意義深いとは思いますが、正直なところ、「リベラル作法」を意識しすぎで、「一神教」の有する暴力性や危険性が軽視されているのではないか、とも思われました。まあ、私が無知で「魂の悪い」人間であるために、「リベラル」を理解できずに敵視しているからそう思うのだ、と嘲笑されそうですが。
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