ネアンデルタール人社会における負傷からの回復についての解釈

 これは3月17日分の記事として掲載しておきます。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)社会における負傷からの回復を再評価した研究(Spikins et al., 2018)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ネアンデルタール人負傷者の回復事例は、これまでに少なからず報告されてきました。そのためネアンデルタール人は、現生人類(Homo sapiens)とも共通する、他者を世話するような感情機構を有していたのではないか、と解釈されてきました。

 しかし、ネアンデルタール人と現生人類との違いを強調する見解においては、異なる解釈が提示されています。そうした見解では、ネアンデルタール人は打算的で他者には無関心だった、とされます。たとえば、ネアンデルタール人の自己治癒力は現生人類よりずっと高く、他者の世話をさほど必要としなかったかもしれない、というものです。また、ネアンデルタール人社会では下肢負傷者は見捨てられていた、との見解も提示されています(関連記事)。

 本論文は、ネアンデルタール人の負傷や病気からの少なからぬ回復事例を再検証し、それが高コストとなる他者の世話を必要とするものであることから、ネアンデルタール人は他者に無関心でも冷淡でもなく、他者の世話は打算的ではなくて現生人類と同様の思いやりのあるものだった、と主張します。本論文は、ネアンデルタール人や現生人類よりもずっと前の人類の事例からも、負傷者や病人の世話は人類史において珍しくなかったことを指摘し、ネアンデルタール人が他者に無関心で冷淡だった、との解釈を批判しています。

 たとえば、死亡時に25~40歳頃のネアンデルタール人男性は脊椎と肩の変性疾患などを患っており、死ぬ前の1年間ほどは集団にほぼ貢献できていなかったと考えられますが、丁重に埋葬されていました。これは、重度の病人や負傷者がネアンデルタール人社会において見捨てられることなく世話をされていた、と示唆します。ネアンデルタール人社会では下肢負傷者は見捨てられていた、との見解にたいしては、標本数が少ないことと、負傷や病気のために少なくとも一定期間動けなかっただろう個体の回復事例が見られることや、イラクのシャニダール洞窟(Shanidar Cave)のように、ネアンデルタール人遺骸は負傷者や病人でなくとも接近の難しい場所での発見が多いことなどから、本論文では否定的な評価が提示されています。

 また、ネアンデルタール人と初期現生人類との間で成人死亡率に顕著な差はなく、ネアンデルタール人が薬用植物の効用をよく理解して治療のために使用していた、との見解(関連記事)も提示されていることなどから、ネアンデルタール人は健康管理のための知識と実践において現生人類と類似しており、それがネアンデルタール人の存続を可能にしてきたのではないか、と本論文では指摘されています。健康管理の知識と実践は死亡率を低下させ、遠方への資源獲得の危険性を減少させる点で重要だったのではないか、というわけです。ネアンデルタール人の負傷者や病気からの回復事例は、強い社会的結束を示す社会的文脈の一部として把握しなければならないのではないか、と本論文は提起しています。

 本論文は、ネアンデルタール人の負傷・病気からの少なからぬ回復事例を再検証しており、現生人類と変わらない他者への関心・世話があったのではないか、との見解は説得力があると思います。ネアンデルタール人も社会的生物の一分類群として(現代の個人の感覚としては)長期にわたって存続した以上、他者への共感や世話がなかったと考える方が不自然だと思います。本論文は、ネアンデルタール人見直し論(関連記事)の傾向をさらに強めていくものとなりそうです。ただ、現生人類との比較において、ネアンデルタール人は打算的なのか思いやりがあるのか、といった問題提起にはやや疑問が残り、現生人類でも、負傷者や病人の世話には打算的なところも多分にあるものだとは思います。


参考文献:
Spikins P. et al.(2018): Calculated or caring? Neanderthal healthcare in social context. World Archaeology, 50, 3, 384-403.
https://doi.org/10.1080/00438243.2018.1433060

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