河内春人『倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア』

 これは2月25日分の記事として掲載しておきます。中公新書の一冊として、中央公論新社から2018年1月に刊行されました。『古事記』・『日本書紀』にはあまり依拠せず、おもに中華地域と朝鮮の史料および考古学的研究を活用しているのが本書の特徴です。また、本書の特徴としては、倭の五王を東アジア史のなかに位置づけるという姿勢が強く現れていることも挙げられます。もちろん、倭の五王に言及したこれまでの本・論文も、第二次世界大戦以降であれば、東アジア史を強く意識してはいたのでしょうが、本書は、朝鮮半島や中華地域の当時の情勢を、新書としてはかなり詳しく扱っているように思います。

 本書は、倭の五王の前史となる4世紀後半の東アジア情勢にもそれなりの分量を割いた後、倭の五王を東アジア情勢のなかに位置づけつつ個別に検証し、なぜ倭から中華王朝への遣使が隋代まで途絶えたのか、という問題も取り上げています。倭の五王のうち、『宋書』において珍と済の続柄が記載されていないことは有名で、当時の倭には王統が複数存在したのではないか、とも言われています。本書は、百舌鳥と古市という二つの古墳群が、二つの王族集団を反映しているのではないか、との見解を提示しています。また、倭の五王の最後となる武については、477年に武の前の興が宋に使者を派遣し、その直後に死去したため、武が478年に宋に使者を派遣した、との見解が提示されています。

 この見解は、稲荷山古墳鉄剣銘に見える「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」=倭王武=『日本書紀』に見える雄略天皇(大泊瀬幼武天皇)とする通説とは異なります。本書は、武の前の興が獲加多支鹵大王だった可能性も提示しつつ、今後の研究を俟つとしています。この件に限らず本書は、倭の五王を安易に記紀の「天皇」に比定することに批判的で、音韻論も系譜論も方法論としては危うい、と指摘しています。本書のこうした見解の前提として、倭において6世紀以降に成立した世襲王権にとって、5世紀の王の系譜は正確に記憶されねばならない問題ではなかっただろう、との認識があります。武を最後に隋代まで倭から中華王朝への遣使が途絶える理由としては、稲荷山古墳鉄剣銘から窺える独自の天下観念の発展など、倭王権の成熟というよりは、宋から斉(南斉)への王朝交代により、皇帝の権威が破綻したとの認識があったことと、倭の政治的混乱が指摘されています。

 また、武の上表文に見える東西の征服という表現は、当時の漢文における慣用表現であり、考古学的研究からは、古墳時代の日本列島において大規模な戦争があったとは考えにくく、この武の(史実に基づかない)自己認識が後にヤマト王権支配層において史実と考えられ、記紀に見えるヤマトタケルの征服譚などに反映されたのではないか、との見解も興味深いものです。本書は通説とは異なる見解を提示しており、ただちに有力説と認められることはないでしょうし、その考古学的研究の解釈が妥当なのか、議論となりそうですが、倭の五王の一般向け入門書として、たいへん丁寧で優れていると思います。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック

  • 夏王朝の実在をめぐる議論と大化前代をめぐる議論の共通点

    Excerpt: 夏王朝の実在認定をめぐって、日中ではかなりの温度差があったようです。佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』(関連記事)第1章第2節によると、中国では夏王朝の実在は確実とされ、それを前提として議論が展開され.. Weblog: 雑記帳 racked: 2018-05-03 00:01