紀元前12000~紀元前500年頃のヨーロッパにおける人間と文化の拡散(追記有)
これは2月23日分の記事として掲載しておきます。紀元前12000~紀元前500年頃のヨーロッパにおける人間と文化の拡散に関する二つの研究が報道(報道1および報道2および報道3)されました。これらの研究はオンライン版での先行公開となります。一方の研究(Olalde et al., 2018)は、鐘状ビーカー複合(Bell Beaker Complex)の拡散が地域により異なる様相だったことを明らかにしています。鐘状ビーカー複合は、定型化した鐘状ポット・銅製短剣・矢尻・石製のリストガード・独特な穴開きボタンなどの人工物の一群で、紀元前2750年に始まり、イベリア半島から西ヨーロッパと中央ヨーロッパに広く拡散した後、紀元前2200~紀元前1800年に消滅しました。
鐘状ビーカー複合の拡散において、人間の移住がどの程度の役割を果たしたのか、議論になっています。人間の移住が主要な役割を果たしたのか、それとも人間の移住をあまり伴わない(交易などによる)文化伝播が主だったのか、という問題です。この研究は、鐘状ビーカー複合の人工物と関連する226人を含む、ヨーロッパの新石器時代・銅器時代・青銅器時代の400人のゲノム規模のデータを分析しました。その結果、鐘状ビーカー複合の人工物と関連したイベリア半島と中央ヨーロッパの住民には、遺伝的類似性が限定的にしか認められませんでした。そのため、ヨーロッパ大陸部における鐘状ビーカー複合の拡散は、人間の移住よりそれをあまり伴わない文化伝播の方がより重要な役割を果たしたのではないか、と推測されています。この大規模な移住を伴わない文化拡散に関しては、社会的威信との関連が想定されています。
しかし、ブリテン島における鐘状ビーカー複合の拡散の様相は異なります。鐘状ビーカー複合は紀元前2500年頃にブリテン島に拡散しましたが、この前後で、ブリテン島の住民の遺伝的構成は大きく変わっており、数百年ほどでブリテン島の遺伝子プールのおよそ90%は置換した、と推定されています。ブリテン島では、鐘状ビーカー複合の拡散に人間の移住が大きな役割を果たした、というわけです。この置換は父系で伝わるY染色体ではほぼ完全で、きょくたんな性比の偏りを示唆しています。ストーンヘンジを築いた集団の子孫は、ブリテン島には少ないようです。大規模な置換の要因として、侵入者がもたらした疫病も想定されています。この置換のさいに、ブリテン島に薄い色の肌がもたらされ、この少し後に乳糖耐性遺伝子が広く定着した、と推測されています。ブリテン島の1万年前頃の住民の肌の色は濃かった、と推測されています(関連記事)。文化の拡散における人間の移住の役割の程度は地域により異なっている、という仮説が改めて支持された、と言えるでしょう。
もう一方の研究(Mathieson et al., 2018)は、紀元前12000~紀元前500年頃のヨーロッパ南東部の住民225人のゲノム解析結果を報告しています。ヨーロッパへと農耕が初めてもたらされたのは紀元前7000年紀半ばで、アナトリアからヨーロッパに移住してきた農耕民によるものと考えられています。この研究は、紀元前12000~紀元前500年頃の間に、南東部ヨーロッパとその周辺地域に住んでいた225人のゲノムを解析しました。
北部および西部ヨーロッパの初期農耕民は、先住の狩猟採集民と限定的に交雑しつつ南東部ヨーロッパから拡散したものの、南東部ヨーロッパの初期農耕民集団のなかには、性比にさほど偏りなく狩猟採集民と広範に混合した事例も確認されました。北部および西部ヨーロッパでは、高緯度が農耕の拡散を阻止したこともあり、農耕民と狩猟採集民との間には長期間境界が存在したと考えられています。この間、農耕民の女性が狩猟採集民共同体に統合される、という傾向にあったようです。時代は下りますが、後期新石器時代~初期青銅器時代の中央ヨーロッパでは、成人女性が外部から来て地元出身の男性と結婚し、地元の女性は他地域に行って配偶者を得たのではないか、と推測されていますが(関連記事)、新石器時代初期のヨーロッパ北部と西部でも類似した傾向が存在したのかもしれません。
南東部ヨーロッパは農耕民到来後も東西の人間集団の移動の交差点であり続け、草原地帯の集団とも断続的な遺伝的接触が見られます。それは、黒海およびカスピ海北方の草原地帯の遊牧集団の大規模な拡散よりも2000年は早い接触でした。紀元前3300年頃より始まるこのヤムナヤ(Yamnaya)遊牧集団の大規模な拡散はヨーロッパに大きな影響を及ぼし、多くの場所で地域的な狩猟採集民文化が置換されました。ヤムナヤ文化は、馬を飼い馬車を開発したことで、強い伝播力を有し、広範に拡散しました(関連記事)。
ヤムナヤ文化は、西は大西洋岸、東はモンゴリア、南はインドまで拡散し、これによりインド・ヨーロッパ語族の分布を説明できるのではないか、と考えられています。また、ヤムナヤ文化の拡散は、現代のヨーロッパ人とアメリカ大陸先住民との遺伝的関連も説明します。24000年前頃の南中央シベリアのマリタ(Mal’ta)遺跡で発見された少年(MA-1)のDNA解析の結果、この少年の集団と現代ヨーロッパ人および現代アメリカ大陸先住民集団との類似性が確認され、アメリカ大陸先住民集団に見られる、西ユーラシアで見られて東アジアでは見られないミトコンドリアDNA(mtDNA)のハプログループXは、南中央シベリアの集団からアメリカ大陸へともたらされたのではないか、と推測されています(関連記事)。このマリタ集団(もしくはその近縁集団)はヤムナヤ文化集団にも遺伝的影響を及ぼしており、ヤムナヤ文化集団を通じてヨーロッパにもマリタ集団の遺伝的影響が及んでいる、と考えられます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。
【ゲノミクス】鐘状ビーカーがヨーロッパに広まった過程
独特の文化遺物と農業がヨーロッパに広まった過程をゲノム技術によってたどり、新石器時代と青銅器時代のヨーロッパ人の生活に関する知見を集めた2報の論文が、今週掲載される。
古代人の文化は、当時の人工遺物によって解明されることが多い。その1例である鐘状ビーカー複合(Bell Beaker Complex)は、定型化した鐘状ポット、銅製短剣、矢尻、石製のリストガード、独特な穴開きボタンなどの品の一群で、新石器時代末期の墓所と考えられる場所で発見された。鐘状ビーカー文化は、紀元前2750年に始まり、西ヨーロッパと中央ヨーロッパの全体に広がったが、この拡散の原因が古代人の移動によるものか、文化の発生によるものか、その両者なのかという考古学上の論点に決着はついていない。
David Reichたちの第1の論文には、136か所の考古遺跡から出土した新石器時代、銅器時代、および青銅器時代のヨーロッパ人の遺体(400体)のゲノム全域のデータを解析した結果が示されている。400体のうちの226体は、ビーカー形の物体と共に埋葬されており、遺伝的多様性が認められたことをReichたちは報告している。この結果は、文化の伝達と古代人の移動が共に重要な役割を果たしており、これら2つのプロセスの関わりの大小に地域差があるとするモデルの正当性が裏付けられている。
また、Reichたちの第2の論文では、紀元前12000~500年に生きていた225人のヨーロッパ人のゲノムを解析して、もう1つの文化的革新である農業が南ヨーロッパに拡散した軌跡を明らかにした。農業は、紀元前7000年紀の中頃に東南ヨーロッパに定着したアナトリア出身の移住者がヨーロッパに持ち込んだことが判明した。
この研究でReichたちは、ヨーロッパ全土での農業の拡散に関連する遺伝的動態を調べて、東南ヨーロッパが、農業が到来した時期の前後に東西の人々の接触点として機能していたことを明らかにした。ただ、先住民と移住者の交流の程度には大きなばらつきがあり、東南ヨーロッパを通って、北ヨーロッパと西ヨーロッパに移動した一部の初期の農民は、狩猟採集民との遺伝的相互作用が限定的だったが、その他の集団は、東南ヨーロッパの地元の集団と広範に交配を行っていたことが、この論文に記述されている。
参考文献:
Mathieson I. et al.(2018): The genomic history of southeastern Europe. Nature, 555, 7695, 197–203.
http://dx.doi.org/10.1038/nature25778
Olalde I. et al.(2018): The Beaker phenomenon and the genomic transformation of northwest Europe. Nature, 555, 7695, 190–196.
http://dx.doi.org/10.1038/nature25738
追記(2018年3月8日)
本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。
遺伝学:ビーカー現象とヨーロッパ北西部におけるゲノムの変化
遺伝学:ヨーロッパ南東部のゲノム史
遺伝学:ゲノム解析から得られたビーカー文化の手掛かり
鐘状ビーカーは、新石器時代の終わりにヨーロッパの西部から中央部に広く見られた特徴的な土器様式である。こうした土器を用いた「ビーカー文化」の起源およびそれがどのようにして広まったのかについて、以前の研究からは相反する結果が得られている。D Reichたちは今回、異なる136の遺跡に由来する、新石器時代、銅器時代および青銅器時代のヨーロッパ人400個体について、ゲノム規模のデータを提示している。このデータには、ビーカー文化と関連付けられた226個体が含まれている。これらのヨーロッパ人には高い遺伝的不均一性が見られ、ビーカー文化の広がりには文化伝播と移動の両方が重要な役割を果たしたとするモデルが裏付けられたが、これら2つの過程の相対的なバランスは地域によって異なっていた。Reichたちはまた別の論文で、紀元前1万2000~500年にヨーロッパ南東部およびその周辺地域で暮らしていた225個体のゲノム規模のDNAデータの解析についても報告している。以前のゲノムデータセットと組み合わせて解析を行うことにより、ヨーロッパにおける農耕の初期の広まりに関する既存のモデルが更新された。
鐘状ビーカー複合の拡散において、人間の移住がどの程度の役割を果たしたのか、議論になっています。人間の移住が主要な役割を果たしたのか、それとも人間の移住をあまり伴わない(交易などによる)文化伝播が主だったのか、という問題です。この研究は、鐘状ビーカー複合の人工物と関連する226人を含む、ヨーロッパの新石器時代・銅器時代・青銅器時代の400人のゲノム規模のデータを分析しました。その結果、鐘状ビーカー複合の人工物と関連したイベリア半島と中央ヨーロッパの住民には、遺伝的類似性が限定的にしか認められませんでした。そのため、ヨーロッパ大陸部における鐘状ビーカー複合の拡散は、人間の移住よりそれをあまり伴わない文化伝播の方がより重要な役割を果たしたのではないか、と推測されています。この大規模な移住を伴わない文化拡散に関しては、社会的威信との関連が想定されています。
しかし、ブリテン島における鐘状ビーカー複合の拡散の様相は異なります。鐘状ビーカー複合は紀元前2500年頃にブリテン島に拡散しましたが、この前後で、ブリテン島の住民の遺伝的構成は大きく変わっており、数百年ほどでブリテン島の遺伝子プールのおよそ90%は置換した、と推定されています。ブリテン島では、鐘状ビーカー複合の拡散に人間の移住が大きな役割を果たした、というわけです。この置換は父系で伝わるY染色体ではほぼ完全で、きょくたんな性比の偏りを示唆しています。ストーンヘンジを築いた集団の子孫は、ブリテン島には少ないようです。大規模な置換の要因として、侵入者がもたらした疫病も想定されています。この置換のさいに、ブリテン島に薄い色の肌がもたらされ、この少し後に乳糖耐性遺伝子が広く定着した、と推測されています。ブリテン島の1万年前頃の住民の肌の色は濃かった、と推測されています(関連記事)。文化の拡散における人間の移住の役割の程度は地域により異なっている、という仮説が改めて支持された、と言えるでしょう。
もう一方の研究(Mathieson et al., 2018)は、紀元前12000~紀元前500年頃のヨーロッパ南東部の住民225人のゲノム解析結果を報告しています。ヨーロッパへと農耕が初めてもたらされたのは紀元前7000年紀半ばで、アナトリアからヨーロッパに移住してきた農耕民によるものと考えられています。この研究は、紀元前12000~紀元前500年頃の間に、南東部ヨーロッパとその周辺地域に住んでいた225人のゲノムを解析しました。
北部および西部ヨーロッパの初期農耕民は、先住の狩猟採集民と限定的に交雑しつつ南東部ヨーロッパから拡散したものの、南東部ヨーロッパの初期農耕民集団のなかには、性比にさほど偏りなく狩猟採集民と広範に混合した事例も確認されました。北部および西部ヨーロッパでは、高緯度が農耕の拡散を阻止したこともあり、農耕民と狩猟採集民との間には長期間境界が存在したと考えられています。この間、農耕民の女性が狩猟採集民共同体に統合される、という傾向にあったようです。時代は下りますが、後期新石器時代~初期青銅器時代の中央ヨーロッパでは、成人女性が外部から来て地元出身の男性と結婚し、地元の女性は他地域に行って配偶者を得たのではないか、と推測されていますが(関連記事)、新石器時代初期のヨーロッパ北部と西部でも類似した傾向が存在したのかもしれません。
南東部ヨーロッパは農耕民到来後も東西の人間集団の移動の交差点であり続け、草原地帯の集団とも断続的な遺伝的接触が見られます。それは、黒海およびカスピ海北方の草原地帯の遊牧集団の大規模な拡散よりも2000年は早い接触でした。紀元前3300年頃より始まるこのヤムナヤ(Yamnaya)遊牧集団の大規模な拡散はヨーロッパに大きな影響を及ぼし、多くの場所で地域的な狩猟採集民文化が置換されました。ヤムナヤ文化は、馬を飼い馬車を開発したことで、強い伝播力を有し、広範に拡散しました(関連記事)。
ヤムナヤ文化は、西は大西洋岸、東はモンゴリア、南はインドまで拡散し、これによりインド・ヨーロッパ語族の分布を説明できるのではないか、と考えられています。また、ヤムナヤ文化の拡散は、現代のヨーロッパ人とアメリカ大陸先住民との遺伝的関連も説明します。24000年前頃の南中央シベリアのマリタ(Mal’ta)遺跡で発見された少年(MA-1)のDNA解析の結果、この少年の集団と現代ヨーロッパ人および現代アメリカ大陸先住民集団との類似性が確認され、アメリカ大陸先住民集団に見られる、西ユーラシアで見られて東アジアでは見られないミトコンドリアDNA(mtDNA)のハプログループXは、南中央シベリアの集団からアメリカ大陸へともたらされたのではないか、と推測されています(関連記事)。このマリタ集団(もしくはその近縁集団)はヤムナヤ文化集団にも遺伝的影響を及ぼしており、ヤムナヤ文化集団を通じてヨーロッパにもマリタ集団の遺伝的影響が及んでいる、と考えられます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。
【ゲノミクス】鐘状ビーカーがヨーロッパに広まった過程
独特の文化遺物と農業がヨーロッパに広まった過程をゲノム技術によってたどり、新石器時代と青銅器時代のヨーロッパ人の生活に関する知見を集めた2報の論文が、今週掲載される。
古代人の文化は、当時の人工遺物によって解明されることが多い。その1例である鐘状ビーカー複合(Bell Beaker Complex)は、定型化した鐘状ポット、銅製短剣、矢尻、石製のリストガード、独特な穴開きボタンなどの品の一群で、新石器時代末期の墓所と考えられる場所で発見された。鐘状ビーカー文化は、紀元前2750年に始まり、西ヨーロッパと中央ヨーロッパの全体に広がったが、この拡散の原因が古代人の移動によるものか、文化の発生によるものか、その両者なのかという考古学上の論点に決着はついていない。
David Reichたちの第1の論文には、136か所の考古遺跡から出土した新石器時代、銅器時代、および青銅器時代のヨーロッパ人の遺体(400体)のゲノム全域のデータを解析した結果が示されている。400体のうちの226体は、ビーカー形の物体と共に埋葬されており、遺伝的多様性が認められたことをReichたちは報告している。この結果は、文化の伝達と古代人の移動が共に重要な役割を果たしており、これら2つのプロセスの関わりの大小に地域差があるとするモデルの正当性が裏付けられている。
また、Reichたちの第2の論文では、紀元前12000~500年に生きていた225人のヨーロッパ人のゲノムを解析して、もう1つの文化的革新である農業が南ヨーロッパに拡散した軌跡を明らかにした。農業は、紀元前7000年紀の中頃に東南ヨーロッパに定着したアナトリア出身の移住者がヨーロッパに持ち込んだことが判明した。
この研究でReichたちは、ヨーロッパ全土での農業の拡散に関連する遺伝的動態を調べて、東南ヨーロッパが、農業が到来した時期の前後に東西の人々の接触点として機能していたことを明らかにした。ただ、先住民と移住者の交流の程度には大きなばらつきがあり、東南ヨーロッパを通って、北ヨーロッパと西ヨーロッパに移動した一部の初期の農民は、狩猟採集民との遺伝的相互作用が限定的だったが、その他の集団は、東南ヨーロッパの地元の集団と広範に交配を行っていたことが、この論文に記述されている。
参考文献:
Mathieson I. et al.(2018): The genomic history of southeastern Europe. Nature, 555, 7695, 197–203.
http://dx.doi.org/10.1038/nature25778
Olalde I. et al.(2018): The Beaker phenomenon and the genomic transformation of northwest Europe. Nature, 555, 7695, 190–196.
http://dx.doi.org/10.1038/nature25738
追記(2018年3月8日)
本論文が『ネイチャー』本誌に掲載されたので、以下に『ネイチャー』の日本語サイトから引用します。
遺伝学:ビーカー現象とヨーロッパ北西部におけるゲノムの変化
遺伝学:ヨーロッパ南東部のゲノム史
遺伝学:ゲノム解析から得られたビーカー文化の手掛かり
鐘状ビーカーは、新石器時代の終わりにヨーロッパの西部から中央部に広く見られた特徴的な土器様式である。こうした土器を用いた「ビーカー文化」の起源およびそれがどのようにして広まったのかについて、以前の研究からは相反する結果が得られている。D Reichたちは今回、異なる136の遺跡に由来する、新石器時代、銅器時代および青銅器時代のヨーロッパ人400個体について、ゲノム規模のデータを提示している。このデータには、ビーカー文化と関連付けられた226個体が含まれている。これらのヨーロッパ人には高い遺伝的不均一性が見られ、ビーカー文化の広がりには文化伝播と移動の両方が重要な役割を果たしたとするモデルが裏付けられたが、これら2つの過程の相対的なバランスは地域によって異なっていた。Reichたちはまた別の論文で、紀元前1万2000~500年にヨーロッパ南東部およびその周辺地域で暮らしていた225個体のゲノム規模のDNAデータの解析についても報告している。以前のゲノムデータセットと組み合わせて解析を行うことにより、ヨーロッパにおける農耕の初期の広まりに関する既存のモデルが更新された。
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