歴史認識において本当に相性の悪い井沢元彦氏
これは2月22日分の記事として掲載しておきます。先日、少しだけ本棚を整理しました。古人類学や日本古代史や古代ローマ史関連本を新たに置く余裕がなくなったので、読み返す可能性の低い本をダンボールに詰めて押し入れで保管することにしました。その結果、本を新たに置いておく余裕が少しできたのですが、ダンボールに入れた本のなかには、井沢元彦氏の著書がそれなりの数あります。井沢氏の著書を根拠に色々と歴史話をしてくる人が身近にもネットにもいたので、その対策で1990年代後半以降、井沢氏の著書をそれなりの冊数購入して読んだのですが、正直なところ、批判のための読書になってしまい、苦痛でした。
しかも、同じく私が批判のために読んでおり、井沢氏とは異なり(後述するように、高評価している井沢氏の小説もあり、井沢氏への嫌悪感はさほど強くありません)、心底嫌っている小島毅氏(関連記事)の著書と比較すると、学べることがはるかに少ないので(そもそも、井沢氏と同列に扱うのは小島氏に失礼極まりないのでしょうが)、もう読み返すこともほとんどないかな、と考えて押し入れで保管することにしました。まあ、井沢氏の著書を批判するとなると、一定以上は調べないといけませんから、批判目的で読むとしても、勉強にはなると思います。しかし、時間は有限なのですから、それならば、まともな専門家の著書を読むのに時間を使う方がよいと考えて、近年では井沢氏の著書を読み返すことはほとんどありませんでした。
上述したように、1990年代後半以降、井沢氏の著書を購入して読み始め、井沢氏の代表作と言ってよいだろう『逆説の日本史』も、11巻までは購入しました。しかし、『逆説の日本史』冒頭の石高の話から始まって、古代史~中世史~近世史最初期まで、歴史認識において井沢氏と私はかみ合わないことが本当に多く、驚いた記憶があります。もちろん、「逆説」を売りにしている以上、通説・有力説に反するようなことを書いていかねばならない、という(歴史評論)作家としての立場もあるのかもしれませんが、私が読んだ限りでは、井沢氏は本当は違うと考えているのに、あえて立場上「逆説的な」見解を述べているのだ、とは思えませんでした。
そのような前提で、井沢氏の歴史認識への主だった違和感を簡潔に述べていきますが、まずは『逆説の日本史』冒頭の石高の話です。これに関して、私がヤフー掲示板のもう存在しないトピで井沢氏の見解を批判するために、12年近く前(2006年6月26日)にネット上で該当箇所の引用文を掲載したことがあるのですが、それがまとめ記事にて井沢氏の見解への肯定的文脈で言及され、大いに困惑したことがあります。その時にヤフー掲示板でどのようなことを述べたのか、保存していなかったので正確には覚えていませんが、石高制での米の偏在(都市への米の集積)とその結果としての米消費量の偏り(井沢氏が主張するような、農民も米を食べていたはずだ、といった単純な話ではなさそうです)や、石高=米の生産量ではないことや、江戸時代には米1石=1人の図式は成立しないだろう、といったことなどを述べたと記憶しています。そもそも、その引用文を掲載する4年近く前(2002年8月24日)に、井沢氏の石高に関する見解を強く意識し、批判を目的とした雑文を掲載していました。
天智と天武の関係についても、18年近く前(2000年9月9日)やや長めの文章を掲載したことがありますが、そこでも、井沢氏の見解を基本的には否定する内容になってしまいました。その後、この問題については勉強が進んでおらず、当ブログでもほとんど言及していないのですが、天智の娘と天武の婚姻関係についての井沢氏の見解(関連記事)と、天武の年齢が『日本書紀』では不明なことに関する井沢氏の見解(関連記事)に疑問を呈したことがあります。
その他に井沢氏の見解への疑問で強く印象に残っているのは武士の起源についてです。井沢氏の著書を読めば、「左翼」というか「進歩的」言説への嫌悪感が容易に窺え、井沢氏は日本の歴史学研究者が「左翼的」であることを批判というか罵倒するわけですが、武士の起源に関する井沢氏の見解は、在地領主制論に基づく、悪い意味で古臭く左翼的なもので、1970年代以降に大きく進展した武士論がほとんどまったくと言ってよいほど反映されていない、と思います。また、侍所は鎌倉幕府が発明した、との認識にも驚かされました。
戦国時代、とくに織田信長についての井沢氏の歴史認識にも、強く違和感が残りました。当ブログでも織田信長についてはそれなりに述べており、まとめたこともありますが(関連記事)、それらの記事での私の見解は、井沢氏の見解とは大きく異なるものになっています。武士の起源をめぐる問題についてもそうでしたが、井沢氏の歴史認識には近年の研究が反映されていないことが多いように思います。江戸時代以降の井沢氏の歴史認識については、該当する『逆説の日本史』を読んでいないので断定はできませんが、松平定信に関するまとめ記事などを読むと、井沢氏の江戸時代認識も、それ以前の時代と同様にかなり怪しいのではないか、と思います。
上述したように、井沢氏の著書には「左翼」というか「進歩的」言説への嫌悪感が容易に窺えますが、もう一つ特徴となるのが、儒教、とくに朱子学への強い嫌悪感です。この点で井沢氏は、「進歩的」というか、近代的価値観を規範としているように思います。さらに言えば、井沢氏は同じく前近代において朱子学を体制教義とした国々でも、とくに韓国への嫌悪感が強いように思います。これは、オリンピック招致で井沢氏の出身地である名古屋がソウルに負けたからだ、と考えるとあまりにも邪推にすぎるでしょうか。
井沢氏は朱子学を、近代化を阻み差別主義の温床になっているとして、激しく批判します。最近では、(少なくとも表向きは)専門家ではない人による儒教批判本が話題になっていますが、そうした儒教批判への反論として、日本の近代化で朱子学をはじめとして儒教が果たした役割を重視する見解も提示されています。確かに、日本の近代化の過程で朱子学をはじめとして儒教が果たした役割は大きく、江戸時代に儒教が浸透していなければ、近代のさまざまな概念の理解がもっと困難になった可能性は高いでしょう。これは、儒教には一定以上の普遍性があるからだと思います。
しかし、幕末から近代前期にかけての「不平等条約」の理解を儒教が阻んでいたように(関連記事)、身分秩序を前提として現状追認的傾向のある儒教の大きな弊害は否定できず、現代日本社会においても、儒教の克服は依然として大きな課題とすべきではないか、と思います。近年、中国では総合的国力の増大とともに、国民が自信をつけてきたためか、伝統文化たる儒教に肯定的な傾向が見られます。しかし、毛沢東政権期の儒教攻撃には行き過ぎがあったとしても、20世紀前半の中国の知識層における儒教克服の試みは基本的には間違っておらず、その意義は現在でも大きいと思います。中国は「文化強国」を目指しているそうですが(関連記事)、率直に言って、現代世界において儒教や孔子を打ち出しても、中国の「文化強国」化にはほとんど貢献しないどころか、逆効果ではないか、とさえ思えます。
このように、井沢氏の歴史認識の特徴は、「左翼」というか「進歩的」言説、および儒教、とくに朱子学への強い嫌悪感で、中国にたいしてもさることながら、韓国への嫌悪感がとくに印象に残ります。もちろん、「嫌悪感」と表現したのは私の主観であり、井沢氏の主観では「冷静で的確な批判」となるのでしょう。しかし、「唯物史観」の「左翼(進歩的知識人)」は怨霊などといった「非科学的」要素を無視している、などといった井沢氏の「左翼的」歴史学にたいする批判は、井沢氏の言論活動の始まるずっと前に、一般向け概説書でも桓武天皇の遷都が怨霊への怖れという視点から解説されていることや、江戸時代の石高と米消費量の解説などからも、的外れなものが多いと思います。また、武士の起源に関する議論でもそうであったように、井沢氏自身が、おそらくは自覚なしに時として「左翼的」史観を前提にしている、といった問題もあります。儒教、とくに朱子学にたいする井沢氏の「批判」にしても、確かに儒教の問題は大きいものの、近代化における儒教の役割が過小評価されているというか、あまりにも儒教が悪魔化されているように思います。
井沢氏に批判的な人々のなかには、小説家としての才能はないので見切りをつけて「反左翼」歴史評論作家に転身し、冷戦崩壊という時流に乗って売れっ子作家になり、さらにその後には、以前からの韓国にたいする嫌悪感の強い論調が21世紀初頭以降の「嫌韓」という時流に乗ったために、作家寿命を保っているのだ、といった悪意のある見方をしている人も少なくないかもしれません。そうした認識には妥当なところもあるのかもしれませんが、個人的には、井沢氏の小説のなかで『銀魔伝』は面白いと思います。まあ、叙述・修辞には特筆すべきものがないかもしれませんが、私が伝奇ものや謎解き要素のある話を好んでいることもあり、物語の筋はなかなか面白いと思います。掲載誌が廃刊(建前としては休刊?)になったため、幕末編の途中で止まっているのは残念ですが、オチが気になるので、何とか完結させてもらいたいものです。羽柴秀吉が即座に気づき、石田三成や小西行長も斬首される直前に気づくような日本の「闇の勢力」とは何者なのか、設定が難しそうですから、しっかりとネタを明かしたうえで完結したら、評価が微妙になるかもしれませんが、それでも、織豊政権~江戸時代初期編と田沼時代編と幕末編の途中までは楽しく読み進められた、との評価は変わらないと思います。
しかも、同じく私が批判のために読んでおり、井沢氏とは異なり(後述するように、高評価している井沢氏の小説もあり、井沢氏への嫌悪感はさほど強くありません)、心底嫌っている小島毅氏(関連記事)の著書と比較すると、学べることがはるかに少ないので(そもそも、井沢氏と同列に扱うのは小島氏に失礼極まりないのでしょうが)、もう読み返すこともほとんどないかな、と考えて押し入れで保管することにしました。まあ、井沢氏の著書を批判するとなると、一定以上は調べないといけませんから、批判目的で読むとしても、勉強にはなると思います。しかし、時間は有限なのですから、それならば、まともな専門家の著書を読むのに時間を使う方がよいと考えて、近年では井沢氏の著書を読み返すことはほとんどありませんでした。
上述したように、1990年代後半以降、井沢氏の著書を購入して読み始め、井沢氏の代表作と言ってよいだろう『逆説の日本史』も、11巻までは購入しました。しかし、『逆説の日本史』冒頭の石高の話から始まって、古代史~中世史~近世史最初期まで、歴史認識において井沢氏と私はかみ合わないことが本当に多く、驚いた記憶があります。もちろん、「逆説」を売りにしている以上、通説・有力説に反するようなことを書いていかねばならない、という(歴史評論)作家としての立場もあるのかもしれませんが、私が読んだ限りでは、井沢氏は本当は違うと考えているのに、あえて立場上「逆説的な」見解を述べているのだ、とは思えませんでした。
そのような前提で、井沢氏の歴史認識への主だった違和感を簡潔に述べていきますが、まずは『逆説の日本史』冒頭の石高の話です。これに関して、私がヤフー掲示板のもう存在しないトピで井沢氏の見解を批判するために、12年近く前(2006年6月26日)にネット上で該当箇所の引用文を掲載したことがあるのですが、それがまとめ記事にて井沢氏の見解への肯定的文脈で言及され、大いに困惑したことがあります。その時にヤフー掲示板でどのようなことを述べたのか、保存していなかったので正確には覚えていませんが、石高制での米の偏在(都市への米の集積)とその結果としての米消費量の偏り(井沢氏が主張するような、農民も米を食べていたはずだ、といった単純な話ではなさそうです)や、石高=米の生産量ではないことや、江戸時代には米1石=1人の図式は成立しないだろう、といったことなどを述べたと記憶しています。そもそも、その引用文を掲載する4年近く前(2002年8月24日)に、井沢氏の石高に関する見解を強く意識し、批判を目的とした雑文を掲載していました。
天智と天武の関係についても、18年近く前(2000年9月9日)やや長めの文章を掲載したことがありますが、そこでも、井沢氏の見解を基本的には否定する内容になってしまいました。その後、この問題については勉強が進んでおらず、当ブログでもほとんど言及していないのですが、天智の娘と天武の婚姻関係についての井沢氏の見解(関連記事)と、天武の年齢が『日本書紀』では不明なことに関する井沢氏の見解(関連記事)に疑問を呈したことがあります。
その他に井沢氏の見解への疑問で強く印象に残っているのは武士の起源についてです。井沢氏の著書を読めば、「左翼」というか「進歩的」言説への嫌悪感が容易に窺え、井沢氏は日本の歴史学研究者が「左翼的」であることを批判というか罵倒するわけですが、武士の起源に関する井沢氏の見解は、在地領主制論に基づく、悪い意味で古臭く左翼的なもので、1970年代以降に大きく進展した武士論がほとんどまったくと言ってよいほど反映されていない、と思います。また、侍所は鎌倉幕府が発明した、との認識にも驚かされました。
戦国時代、とくに織田信長についての井沢氏の歴史認識にも、強く違和感が残りました。当ブログでも織田信長についてはそれなりに述べており、まとめたこともありますが(関連記事)、それらの記事での私の見解は、井沢氏の見解とは大きく異なるものになっています。武士の起源をめぐる問題についてもそうでしたが、井沢氏の歴史認識には近年の研究が反映されていないことが多いように思います。江戸時代以降の井沢氏の歴史認識については、該当する『逆説の日本史』を読んでいないので断定はできませんが、松平定信に関するまとめ記事などを読むと、井沢氏の江戸時代認識も、それ以前の時代と同様にかなり怪しいのではないか、と思います。
上述したように、井沢氏の著書には「左翼」というか「進歩的」言説への嫌悪感が容易に窺えますが、もう一つ特徴となるのが、儒教、とくに朱子学への強い嫌悪感です。この点で井沢氏は、「進歩的」というか、近代的価値観を規範としているように思います。さらに言えば、井沢氏は同じく前近代において朱子学を体制教義とした国々でも、とくに韓国への嫌悪感が強いように思います。これは、オリンピック招致で井沢氏の出身地である名古屋がソウルに負けたからだ、と考えるとあまりにも邪推にすぎるでしょうか。
井沢氏は朱子学を、近代化を阻み差別主義の温床になっているとして、激しく批判します。最近では、(少なくとも表向きは)専門家ではない人による儒教批判本が話題になっていますが、そうした儒教批判への反論として、日本の近代化で朱子学をはじめとして儒教が果たした役割を重視する見解も提示されています。確かに、日本の近代化の過程で朱子学をはじめとして儒教が果たした役割は大きく、江戸時代に儒教が浸透していなければ、近代のさまざまな概念の理解がもっと困難になった可能性は高いでしょう。これは、儒教には一定以上の普遍性があるからだと思います。
しかし、幕末から近代前期にかけての「不平等条約」の理解を儒教が阻んでいたように(関連記事)、身分秩序を前提として現状追認的傾向のある儒教の大きな弊害は否定できず、現代日本社会においても、儒教の克服は依然として大きな課題とすべきではないか、と思います。近年、中国では総合的国力の増大とともに、国民が自信をつけてきたためか、伝統文化たる儒教に肯定的な傾向が見られます。しかし、毛沢東政権期の儒教攻撃には行き過ぎがあったとしても、20世紀前半の中国の知識層における儒教克服の試みは基本的には間違っておらず、その意義は現在でも大きいと思います。中国は「文化強国」を目指しているそうですが(関連記事)、率直に言って、現代世界において儒教や孔子を打ち出しても、中国の「文化強国」化にはほとんど貢献しないどころか、逆効果ではないか、とさえ思えます。
このように、井沢氏の歴史認識の特徴は、「左翼」というか「進歩的」言説、および儒教、とくに朱子学への強い嫌悪感で、中国にたいしてもさることながら、韓国への嫌悪感がとくに印象に残ります。もちろん、「嫌悪感」と表現したのは私の主観であり、井沢氏の主観では「冷静で的確な批判」となるのでしょう。しかし、「唯物史観」の「左翼(進歩的知識人)」は怨霊などといった「非科学的」要素を無視している、などといった井沢氏の「左翼的」歴史学にたいする批判は、井沢氏の言論活動の始まるずっと前に、一般向け概説書でも桓武天皇の遷都が怨霊への怖れという視点から解説されていることや、江戸時代の石高と米消費量の解説などからも、的外れなものが多いと思います。また、武士の起源に関する議論でもそうであったように、井沢氏自身が、おそらくは自覚なしに時として「左翼的」史観を前提にしている、といった問題もあります。儒教、とくに朱子学にたいする井沢氏の「批判」にしても、確かに儒教の問題は大きいものの、近代化における儒教の役割が過小評価されているというか、あまりにも儒教が悪魔化されているように思います。
井沢氏に批判的な人々のなかには、小説家としての才能はないので見切りをつけて「反左翼」歴史評論作家に転身し、冷戦崩壊という時流に乗って売れっ子作家になり、さらにその後には、以前からの韓国にたいする嫌悪感の強い論調が21世紀初頭以降の「嫌韓」という時流に乗ったために、作家寿命を保っているのだ、といった悪意のある見方をしている人も少なくないかもしれません。そうした認識には妥当なところもあるのかもしれませんが、個人的には、井沢氏の小説のなかで『銀魔伝』は面白いと思います。まあ、叙述・修辞には特筆すべきものがないかもしれませんが、私が伝奇ものや謎解き要素のある話を好んでいることもあり、物語の筋はなかなか面白いと思います。掲載誌が廃刊(建前としては休刊?)になったため、幕末編の途中で止まっているのは残念ですが、オチが気になるので、何とか完結させてもらいたいものです。羽柴秀吉が即座に気づき、石田三成や小西行長も斬首される直前に気づくような日本の「闇の勢力」とは何者なのか、設定が難しそうですから、しっかりとネタを明かしたうえで完結したら、評価が微妙になるかもしれませんが、それでも、織豊政権~江戸時代初期編と田沼時代編と幕末編の途中までは楽しく読み進められた、との評価は変わらないと思います。
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