佐藤信編『古代史講義 邪馬台国から平安時代まで』
これは2月18日分の記事として掲載しておきます。ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2018年1月に刊行されました。日本古代史の勉強も停滞しているので、最新の研究成果を把握するために読みました。本書はたいへん有益でしたが、もちろん、古代史の論点は多岐にわたり、新書一冊で網羅することはできませんので、続編が望まれます。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。
●吉松大志「邪馬台国から古墳の時代へ」P13~29
本論考は弥生時代末期から古墳時代への移行を、文献と考古学から展望しています。いわゆる邪馬台国論争については、考古学的成果を安易な文献解釈と結びつけることのないよう、注意が喚起されています。邪馬台国の基本文献となるのは『三国志』ですが、誤認識や古典からの引用などもあり、正確に当時の倭国の様相を伝えているとは限らない、と指摘されています。また、考古学からは、北部九州や畿内だけではなく出雲など、複数の中心地から構成される多極的なネットワークがあったと推測されています。古墳時代には、こうした弥生時代的な体制から畿内主導の体制へと変容していった、との見通しを本論考は提示しています。
●須原祥二「倭の大王と地方豪族」P31~52
本論考はヤマト王権の展開と地方豪族との関係を検証しています。4世紀後半~5世紀前半の古墳の巨大化は王権の強化を示すものだ、との見解が提示されています。この時期、本州・四国・九州の大半で前方後円墳が築造されるようになり、ヤマト王権を中心とする政治体制が形成されていき、王権は強化された、と評価されています。一方で本論考は、5世紀後半以降の古墳の数と規模の縮小に関しては、王権の衰退ではなく古墳築造の規制であり、制度の強化・安定だと評価しています。古墳の規模から王権の構造を直接把握するのには慎重でなければならないとは思いますが、現時点では有力な解釈として認められていることも否定できないでしょう。『日本書紀』に見える5世紀後半~6世紀前半の王位継承の不安定性については、王権の強化と矛盾するものではなく、奈良時代のように、王権の強化がかえって王位継承の不安定さを惹起する場合もある、と指摘されています。
●鈴木正信「蘇我氏とヤマト王権」P53~71
本論考は、蘇我氏本宗家と言われる稲目・馬子・蝦夷・入鹿の4代をヤマト王権に位置づけて解説しています。古代史本となると、非専門家の私はつい無責任に「刺激的な」見解を求めてしまうのですが、簡潔で穏当な本論考は一般向け書籍にふさわしいと思います。蘇我氏本宗家が滅亡した乙巳の変の要因については、外交方針・王位継承争い・蘇我氏の内部抗争という側面が重視されています。
●中村順昭「飛鳥・藤原の時代と東アジア」P73~86
本論考は乙巳の変から平城京への遷都の前までの国制整備の進展を概観しています。表題には東アジアとありますが、東アジア情勢への言及は予想していたよりも少なく、白村江の戦いの後の、新羅と唐の対立および唐の朝鮮半島における直接的支配の破綻の背景などへの言及はありませんでした。表題にあるように、東アジアという視点をもっと前面に出してもよかったように思います。ただ、7世紀後半~8世紀初頭の国制整備史としては短くも的確な内容になっていると思います。
●馬場基「平城京の実像」P87~104
本論考は平城京について多角的に検証しています。平城京への遷都の前提として、8世紀初頭の遣唐使があるようです。この時に唐(というか、正確には当時の国号は周でしたが)の都である長安を訪れた遣唐使一行は、当時の日本の都だった藤原京が儀礼空間として不充分であることに気づいたのではないか、というわけです。また、平城京の地は遷都まで閑散としていたわけではなく、それなりに開発が進み、交通の要衝だった、とも指摘されています。
●佐々田悠「奈良時代の争乱」P105~122
本論考は奈良時代の争乱、具体的には長屋王事件・藤原広嗣の乱・橘奈良麻呂の変・藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱について、その背景と経緯を解説しています。「過激な」見解が提示されているわけではなく、穏当な奈良時代争乱史になっており、簡潔な奈良時代政治史としても有益だと思います。奈良時代に武力を用いた上層部間の争乱が相次いだ理由として、天皇という仕組みが個人的資質と血統に左右され、平安時代のように安定的制度として整っていなかったことが指摘されています。
●佐藤信「地方官衙と地方豪族」P123~144
本論考はおもに奈良時代における地方支配の実態を、郡司・郡家(群衙)に着目して検証しています。本論考は、郡司が律令制よりも前の時代の地方支配層から採用され、そうした支配層の政治力を活用することで律令制下当初の地方支配が可能だったことを強調しています。また、郡には郡司を担える複数の家柄が存在したこともあった、とも指摘されています。律令制では文書主義が徹底され、地方でも郡司の下の層まで文字が浸透しつつあったことが窺えます。
●飯田剛彦「遣唐使と天平文化」P145~162
本論考は天平文化の性格と遣唐使の役割について検証しています。天平文化については、その「国際性」が強調されることもありますが、天平文化の「国際性」の象徴たる正倉院の宝物も、薬物を除けば舶載品は最大でも5%に満たないだろう、との推定が提示されています。そのうえで本論考は、天平文化の「国際性」の真の意味とは、外来要素を受容し、自国でのさまざまな物の制作に活かしたことだろう、と指摘しています。このような「国際性」のある天平文化が開花するうえで、唐から直接国際色の豊かな文化を持ち帰った遣唐使の役割は大きかったようです。
●吉野武「平安遷都と対蝦夷戦争」P163~182
本論考は桓武天皇の二大事業である軍事(対蝦夷戦争)と造作(平城京から長岡京、さらには平安京への遷都)を検証しています。桓武天皇がこの二大事業を推し進めた要因として、皇位継承者としては血統的に弱点があり、権威を確立する必要があった、と指摘されています。長岡京から平安京への遷都に関しては、怨霊を恐れたからというよりも、洪水による都市機能への打撃が懸念されたためではないか、と推測されています。桓武天皇が怨霊を恐れたのは平安京への遷都後ではないか、というわけです。桓武天皇は晩年に、徳政相論によりこの二大事業を停止しますが、桓武天皇自身も民の疲弊から二大事業の継続に無理があることを認識しており、有徳の英明な君主としての姿を示すために徳政相論をさせたのではないか、と本論考は推測しています。
●仁藤智子「平安京の成熟と都市王権の展開」P183~198
本論考は、平安時代前期の政治史と平安京が都として確立していく過程を解説しています。平安時代初期の平城朝に関しては、その治世が4年と短かったことと、平城天皇(上皇)が政治的敗者となり、その子孫が皇統とはならなかったこともあり、低く評価されているようにも思われますが、本論考は、国制改革を積極的に推進した時期として重視しています。この平城上皇が政変(薬子の変)で敗れたことにより、平安京は都として定着していくことになり、支配層の間で平安京を中心とした世界観が形成されていきます。
●榎本淳一「摂関政治の実像」P199~213
本論考は摂関の地位・権能がどのように成立してきたのか、摂関は国制においてどのような役割を果たしたのか、検証しています。本論考は、摂政・関白とともに内覧の権能を重視しており、摂政・関白・内覧の解説となっています。摂関の地位が10世紀後半に大きく変わったこと(太政大臣の地位との分離、律令官職の超越)や、藤原道長政権期を中心とした摂関政治全盛期においても、摂関が恣意的に政治を運営することはできず、以前からの朝廷の枠組みでの政治運営だったことが指摘されています。摂関は誰が天皇であっても安定的な国政運営が可能となるような制度として形成されていったのであり、天皇親政と対立的に把握されるべきではない、との指摘は、今でも天皇と摂関を対立的に把握する通俗的見解が根強いように思われるだけに、重要だと思います。
●河内春人「国風文化と唐物の世界」P215~232
本論考は、遣唐使の廃止により唐文化の流入が途絶え、日本独自の「国風文化」が発達した、という見解の見直しを提示しています。遣唐使の「廃止」については、すでに近年では一般向け書籍でも取り上げられているように、廃止ではなく延期だったことが指摘されています。「国風文化」については、唐が滅亡してからも、中華地域からの「唐物」が日本の文化に必要であり、規範にもなっていたことが指摘されています。この前提として、遣唐使のような国家間の通交は衰退しても、商人による東アジア交易が盛んになっていったことがあります。また、「国風文化」の対象はおもに貴族層に限定されており、圧倒的多数を占める庶民の文化も考慮に入れられなければならない、とも提言されています。
●三谷芳幸「受領と地方社会」P233~249
本論考は平安時代に地方制度が変容していったことを解説しています。9世紀に律令制以前からの郡司層が没落していき、中央政府(朝廷)は受領(国司の首席で通常は守)に権限を集中させる新たな制度を構築していきます。受領は大きな権限を把握しますが、在地の有力者と受領が都から引き連れてきた郎等の間で対立が生じ、それが「尾張国郡司百姓等解文」に代表される国司苛政上訴の頻発を招来しますが、院政期には受領と在地勢力との関係は安定し、在地勢力を取り入れた体制が確立していきます。大きな権限を得た受領の任命と評価について、摂関などの有力者による恣意的人事もあったものの、全体的には朝廷支配層(公卿)による真剣な検証・討議が行なわれた、と指摘されています。朝廷は地方政治への高い関心を有していた、というわけです。本論考は奈良時代~平安時代の地方制度について、「神話」の8世紀から「道徳」の9世紀を経て「経済」の10世紀へと転換していき、それは古代日本における「文明化」であった、と評価しています。
●宮瀧交二「平将門・藤原純友の乱の再検討」P251~264
本論考は平将門の乱と藤原純友の乱を、考古学や古環境学の研究成果も取り入れて検証しています。平安時代には温暖化が進んだことから、平将門の乱に関しては、増大した富の奪い合いが背景にあるのではないか、と推測されています。また、平将門の乱の頃のものではありませんが、近い年代の関東の集落では焼き討ちの痕跡が確認されており、平将門の乱に関する文献は今後考古学的にも裏づけられるのではないか、と指摘されています。藤原純友の乱に関しては、9世紀後半に瀬戸内海の海上交通圏を掌握していた伴(大伴)氏・紀氏が中央政界で没落したことにより、その配下の交易に関わっていた海上輸送集団が海賊として取り締まられ、海上交通の利権が再編されるなかで生じた利権争いとしての側面があるのではないか、と指摘されています。なお、本論考は1976年放送の大河ドラマ『風と雲と虹と』に言及していますが、「豪華なキャスティング」のなかに藤原秀郷(田原藤太)役の露口茂氏の名前がなかったのは残念でした。
●大平聡「平泉と奥州藤原氏」P265~281
本論考は奥州藤原氏について、考古学的研究成果を大きく取り入れて解説しています。奥州藤原氏は、都(平安京)とのつながりを強く有しつつも、北東ユーラシアともつながり、単なる都の模倣ではなく、独自性を有していた、と本論考は評価しています。奥州藤原氏の拠点となった平泉に関する考古学的研究の進展には目覚ましいものがあるようで、奥州藤原氏の富強が強く印象づけられます。ただ、奥州藤原氏がどのような支配体制を築いていたのか、なぜ源頼朝の侵攻にあっさりと支配体制が崩壊したのか、という問題には言及されていないのは残念でした。
●吉松大志「邪馬台国から古墳の時代へ」P13~29
本論考は弥生時代末期から古墳時代への移行を、文献と考古学から展望しています。いわゆる邪馬台国論争については、考古学的成果を安易な文献解釈と結びつけることのないよう、注意が喚起されています。邪馬台国の基本文献となるのは『三国志』ですが、誤認識や古典からの引用などもあり、正確に当時の倭国の様相を伝えているとは限らない、と指摘されています。また、考古学からは、北部九州や畿内だけではなく出雲など、複数の中心地から構成される多極的なネットワークがあったと推測されています。古墳時代には、こうした弥生時代的な体制から畿内主導の体制へと変容していった、との見通しを本論考は提示しています。
●須原祥二「倭の大王と地方豪族」P31~52
本論考はヤマト王権の展開と地方豪族との関係を検証しています。4世紀後半~5世紀前半の古墳の巨大化は王権の強化を示すものだ、との見解が提示されています。この時期、本州・四国・九州の大半で前方後円墳が築造されるようになり、ヤマト王権を中心とする政治体制が形成されていき、王権は強化された、と評価されています。一方で本論考は、5世紀後半以降の古墳の数と規模の縮小に関しては、王権の衰退ではなく古墳築造の規制であり、制度の強化・安定だと評価しています。古墳の規模から王権の構造を直接把握するのには慎重でなければならないとは思いますが、現時点では有力な解釈として認められていることも否定できないでしょう。『日本書紀』に見える5世紀後半~6世紀前半の王位継承の不安定性については、王権の強化と矛盾するものではなく、奈良時代のように、王権の強化がかえって王位継承の不安定さを惹起する場合もある、と指摘されています。
●鈴木正信「蘇我氏とヤマト王権」P53~71
本論考は、蘇我氏本宗家と言われる稲目・馬子・蝦夷・入鹿の4代をヤマト王権に位置づけて解説しています。古代史本となると、非専門家の私はつい無責任に「刺激的な」見解を求めてしまうのですが、簡潔で穏当な本論考は一般向け書籍にふさわしいと思います。蘇我氏本宗家が滅亡した乙巳の変の要因については、外交方針・王位継承争い・蘇我氏の内部抗争という側面が重視されています。
●中村順昭「飛鳥・藤原の時代と東アジア」P73~86
本論考は乙巳の変から平城京への遷都の前までの国制整備の進展を概観しています。表題には東アジアとありますが、東アジア情勢への言及は予想していたよりも少なく、白村江の戦いの後の、新羅と唐の対立および唐の朝鮮半島における直接的支配の破綻の背景などへの言及はありませんでした。表題にあるように、東アジアという視点をもっと前面に出してもよかったように思います。ただ、7世紀後半~8世紀初頭の国制整備史としては短くも的確な内容になっていると思います。
●馬場基「平城京の実像」P87~104
本論考は平城京について多角的に検証しています。平城京への遷都の前提として、8世紀初頭の遣唐使があるようです。この時に唐(というか、正確には当時の国号は周でしたが)の都である長安を訪れた遣唐使一行は、当時の日本の都だった藤原京が儀礼空間として不充分であることに気づいたのではないか、というわけです。また、平城京の地は遷都まで閑散としていたわけではなく、それなりに開発が進み、交通の要衝だった、とも指摘されています。
●佐々田悠「奈良時代の争乱」P105~122
本論考は奈良時代の争乱、具体的には長屋王事件・藤原広嗣の乱・橘奈良麻呂の変・藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱について、その背景と経緯を解説しています。「過激な」見解が提示されているわけではなく、穏当な奈良時代争乱史になっており、簡潔な奈良時代政治史としても有益だと思います。奈良時代に武力を用いた上層部間の争乱が相次いだ理由として、天皇という仕組みが個人的資質と血統に左右され、平安時代のように安定的制度として整っていなかったことが指摘されています。
●佐藤信「地方官衙と地方豪族」P123~144
本論考はおもに奈良時代における地方支配の実態を、郡司・郡家(群衙)に着目して検証しています。本論考は、郡司が律令制よりも前の時代の地方支配層から採用され、そうした支配層の政治力を活用することで律令制下当初の地方支配が可能だったことを強調しています。また、郡には郡司を担える複数の家柄が存在したこともあった、とも指摘されています。律令制では文書主義が徹底され、地方でも郡司の下の層まで文字が浸透しつつあったことが窺えます。
●飯田剛彦「遣唐使と天平文化」P145~162
本論考は天平文化の性格と遣唐使の役割について検証しています。天平文化については、その「国際性」が強調されることもありますが、天平文化の「国際性」の象徴たる正倉院の宝物も、薬物を除けば舶載品は最大でも5%に満たないだろう、との推定が提示されています。そのうえで本論考は、天平文化の「国際性」の真の意味とは、外来要素を受容し、自国でのさまざまな物の制作に活かしたことだろう、と指摘しています。このような「国際性」のある天平文化が開花するうえで、唐から直接国際色の豊かな文化を持ち帰った遣唐使の役割は大きかったようです。
●吉野武「平安遷都と対蝦夷戦争」P163~182
本論考は桓武天皇の二大事業である軍事(対蝦夷戦争)と造作(平城京から長岡京、さらには平安京への遷都)を検証しています。桓武天皇がこの二大事業を推し進めた要因として、皇位継承者としては血統的に弱点があり、権威を確立する必要があった、と指摘されています。長岡京から平安京への遷都に関しては、怨霊を恐れたからというよりも、洪水による都市機能への打撃が懸念されたためではないか、と推測されています。桓武天皇が怨霊を恐れたのは平安京への遷都後ではないか、というわけです。桓武天皇は晩年に、徳政相論によりこの二大事業を停止しますが、桓武天皇自身も民の疲弊から二大事業の継続に無理があることを認識しており、有徳の英明な君主としての姿を示すために徳政相論をさせたのではないか、と本論考は推測しています。
●仁藤智子「平安京の成熟と都市王権の展開」P183~198
本論考は、平安時代前期の政治史と平安京が都として確立していく過程を解説しています。平安時代初期の平城朝に関しては、その治世が4年と短かったことと、平城天皇(上皇)が政治的敗者となり、その子孫が皇統とはならなかったこともあり、低く評価されているようにも思われますが、本論考は、国制改革を積極的に推進した時期として重視しています。この平城上皇が政変(薬子の変)で敗れたことにより、平安京は都として定着していくことになり、支配層の間で平安京を中心とした世界観が形成されていきます。
●榎本淳一「摂関政治の実像」P199~213
本論考は摂関の地位・権能がどのように成立してきたのか、摂関は国制においてどのような役割を果たしたのか、検証しています。本論考は、摂政・関白とともに内覧の権能を重視しており、摂政・関白・内覧の解説となっています。摂関の地位が10世紀後半に大きく変わったこと(太政大臣の地位との分離、律令官職の超越)や、藤原道長政権期を中心とした摂関政治全盛期においても、摂関が恣意的に政治を運営することはできず、以前からの朝廷の枠組みでの政治運営だったことが指摘されています。摂関は誰が天皇であっても安定的な国政運営が可能となるような制度として形成されていったのであり、天皇親政と対立的に把握されるべきではない、との指摘は、今でも天皇と摂関を対立的に把握する通俗的見解が根強いように思われるだけに、重要だと思います。
●河内春人「国風文化と唐物の世界」P215~232
本論考は、遣唐使の廃止により唐文化の流入が途絶え、日本独自の「国風文化」が発達した、という見解の見直しを提示しています。遣唐使の「廃止」については、すでに近年では一般向け書籍でも取り上げられているように、廃止ではなく延期だったことが指摘されています。「国風文化」については、唐が滅亡してからも、中華地域からの「唐物」が日本の文化に必要であり、規範にもなっていたことが指摘されています。この前提として、遣唐使のような国家間の通交は衰退しても、商人による東アジア交易が盛んになっていったことがあります。また、「国風文化」の対象はおもに貴族層に限定されており、圧倒的多数を占める庶民の文化も考慮に入れられなければならない、とも提言されています。
●三谷芳幸「受領と地方社会」P233~249
本論考は平安時代に地方制度が変容していったことを解説しています。9世紀に律令制以前からの郡司層が没落していき、中央政府(朝廷)は受領(国司の首席で通常は守)に権限を集中させる新たな制度を構築していきます。受領は大きな権限を把握しますが、在地の有力者と受領が都から引き連れてきた郎等の間で対立が生じ、それが「尾張国郡司百姓等解文」に代表される国司苛政上訴の頻発を招来しますが、院政期には受領と在地勢力との関係は安定し、在地勢力を取り入れた体制が確立していきます。大きな権限を得た受領の任命と評価について、摂関などの有力者による恣意的人事もあったものの、全体的には朝廷支配層(公卿)による真剣な検証・討議が行なわれた、と指摘されています。朝廷は地方政治への高い関心を有していた、というわけです。本論考は奈良時代~平安時代の地方制度について、「神話」の8世紀から「道徳」の9世紀を経て「経済」の10世紀へと転換していき、それは古代日本における「文明化」であった、と評価しています。
●宮瀧交二「平将門・藤原純友の乱の再検討」P251~264
本論考は平将門の乱と藤原純友の乱を、考古学や古環境学の研究成果も取り入れて検証しています。平安時代には温暖化が進んだことから、平将門の乱に関しては、増大した富の奪い合いが背景にあるのではないか、と推測されています。また、平将門の乱の頃のものではありませんが、近い年代の関東の集落では焼き討ちの痕跡が確認されており、平将門の乱に関する文献は今後考古学的にも裏づけられるのではないか、と指摘されています。藤原純友の乱に関しては、9世紀後半に瀬戸内海の海上交通圏を掌握していた伴(大伴)氏・紀氏が中央政界で没落したことにより、その配下の交易に関わっていた海上輸送集団が海賊として取り締まられ、海上交通の利権が再編されるなかで生じた利権争いとしての側面があるのではないか、と指摘されています。なお、本論考は1976年放送の大河ドラマ『風と雲と虹と』に言及していますが、「豪華なキャスティング」のなかに藤原秀郷(田原藤太)役の露口茂氏の名前がなかったのは残念でした。
●大平聡「平泉と奥州藤原氏」P265~281
本論考は奥州藤原氏について、考古学的研究成果を大きく取り入れて解説しています。奥州藤原氏は、都(平安京)とのつながりを強く有しつつも、北東ユーラシアともつながり、単なる都の模倣ではなく、独自性を有していた、と本論考は評価しています。奥州藤原氏の拠点となった平泉に関する考古学的研究の進展には目覚ましいものがあるようで、奥州藤原氏の富強が強く印象づけられます。ただ、奥州藤原氏がどのような支配体制を築いていたのか、なぜ源頼朝の侵攻にあっさりと支配体制が崩壊したのか、という問題には言及されていないのは残念でした。
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