古代貴族の歴史観
17年前(2001年)に、「古代貴族の歴史観」と題して4回にわたって雑文を掲載したことがあります。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/history025.htm
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/history026.htm
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/history027.htm
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/history028.htm
たいへん未熟な内容になってしまっているのですが、恥ずかしながら、16年経過してもこの問題についてほとんど勉強が進んでいません。今後、少しずつ調べていこうと考えているのですが、記事が4本に分割されていると読み返すのが面倒なので、1本にまとめてこのブログに掲載することにしました。私にしか役立たない記事となりますが、このブログはほとんど備忘録のようなもので、これでよいかな、と思います。なお、漢字を平仮名にしたり、算用数字を半角にしたりと一部の表記を見直したり、分割掲載のための余分な説明を省略したり、段落構成を変更したり、誤字脱字を修正したり、文章を一部入れ替えたり、文章表現をこのブログに合わせたりしましたが、基本的には当時の記事の再掲です。皇祖神についてなど、この16年間に新たに得た知見もありますが、今回は修正しないことにします。歴代の「天皇(という称号の成立は7世紀以降なのでしょうが)」に関しては、「実在」か否か、「即位」前か後かに関わらず、表記は後代の漢風諡号で統一します。以下、本文です。
表題では「古代貴族」としましたが、これは皇族なども含めて7世紀後半~8世紀後半における律令国家の支配層全体を含んでいます。不正確な表現でしょうが、前之園氏の表現に倣ったのと、「古代貴族」とすると簡潔に見えるように思われたので、こうしました。
戦後になって水野祐氏により提唱された王朝交替説は学界のみならず在野にも大きな影響を与え、水野説にたいして肯定的または批判的な立場から様々な王朝交替説が提示されました。こうした王朝交替説にたいして、根本的な批判もなされるようになり、前之園亮一氏は『古代王朝交替説批判』(吉川弘文館、1986年)などにおいて、王朝交替説とは古代貴族階級の時代区分観を王朝の交替と誤認したものである、と批判しました。前之園氏の提示する古代貴族階級の時代区分観が妥当なものかどうか、私には判断するだけの見識はありませんが、興味深い見解だと思います。以下、この前之園氏の見解や遠山美都男『天皇誕生』(中央公論社、2001年)を参考に、古代貴族の歴史観と『日本書紀』について述べていきます。
『日本書紀』については権力側の自己正当化と記述の正確さという問題があり、在野の研究者の中には、この問題を重視して、『日本書紀』における歴史の捏造を強調する人も多くいます。確かに、『日本書紀』の記述がどこまで歴史的事実に即しているかはよく分からず、推古朝以降の記事はおおむね信用できるのではないか、というのが一般的な見解でしょうから、推古より前の記事にどこまで信憑性があるのか、よくは分からない、ということになります。
何故このようになったのかというと、少なからぬ論者が、天皇(皇族)の万世一系と支配層の正当性を証明するために、都合の悪い歴史的事実を隠蔽しようとして過去の記事を捏造したのだ、と主張するわけですが、この点には疑問が残ります。確かに、支配の正当化のための捏造がなかったとは言いませんが、『日本書紀』の記事が年代をさかのぼるほど信憑性が低くなる根本的な要因は、政治的圧力よりも編者の歴史的知識と見識の欠乏にあった、と私は考えています。
つまり、推古より前に関しては、文字史料がきょくたんに少なかったため、歴史事実があまり正確には伝えられず、その時代に関する歴史的知識が乏しかったのに、推古以前の時代についても歴史書として書かねばならなかったため、編者(というか、編者も含めての当時の支配層)の価値観(願望や理想像も含まれます)・歴史観に大きく依拠した記述となり、乏しい歴史知識に基づいた歴史観によって書かれたので、時として史実とは大きく異なる記述になったのでしょう。この古代貴族の歴史観について、『日本書紀』に即して述べていこう、というのが私の意図するところです。
『日本書紀』は神話から始まります。多くの地域や共同体においては、歴史の始まりは神話から語られ、神話を排した歴史が一般的となるのは、文字による記録が行なわれるようになったこの5000年間でも、ごく最近のことです。もちろん、合理主義の発達にともない、神話や神話もどきの説話への疑念は呈されるようになっており、中国などは、そうした傾向が世界でも最初期に認められる地域と言えるかもしれません。それはともかく、一般的には、神話を歴史の起点に置くことが圧倒的に長期にわたって行われてきたのでした。
人間が自らの起源と来歴について関心を抱くのは普通のことで、人類学や遺伝学などの確立していない時代にも、その時代の知見と価値観により、自らの起源と来歴が考えられていました。しかし、よく分からないことだけに、自らの起源を不可知的な存在であると考えていた神に結びつけたのは、自然なことでした。そう考えると、『日本書紀』が神話から始まっているのも当然で、古代貴族の価値観・歴史観が反映された結果であると言えます。もちろん、天皇や各氏族を直接・間接に神と結びつけることにより、支配の正統性と自らの高貴性を証明せんとの意図もあったわけですが、別にそれは必ずしも神に根拠を求めなくても可能なものです。神に自らの根拠を求めたのは、人間の起源を神との密接な関係に求める歴史観というか観念が広く浸透していたからでした。
古代貴族の歴史観では、神と直接・間接に結びつけられた天皇(皇族)や各氏族は、いきなり神から人になったのではないようで、前之園亮一氏が論じているように、その間に過渡期が設定されていると思われます。つまり、神と人との性格を併せ持つ人物がいた、との設定になっています。『日本書紀』に見える初期の天皇は、驚くほど長命です。初代の神武から15代の応神まで没年齢(数え年)は順に、127・84・57・77・113・137・128・116・111・120・140・106・107・52・110、となります(現在では天皇と数えられていない神功は100歳で没)。応神より後は、没年齢が不明な場合が多く、判明している場合も、一応は常識の範囲内に収まっています。このような長命は、応神以前は天皇が未だに神と人との中間的存在である、と理解されていたからで、異様な長命も何ら不思議ではありません。
一方で、推古朝に建国の年代を大幅に繰り上げた結果、各天皇の寿命が大幅に引き延ばされた、との見解もあります。この見解を全否定するつもりはありませんが、さらにはそこから、『日本書紀』に見える歴代の天皇は実在しており、初期の天皇の不自然な長命は無理に建国の年代を繰り上げたためで、初期の天皇が架空の人物だとしたら、このような不自然な寿命にするのではなく、適当にさらに何代かの天皇を創作し、それぞれの天皇の寿命をもっともらしいものにすればよい、との見解も提示されています。しかし、この見解はまったくの誤りでしょう。神と人との中間的存在である天皇が常識外れの長命であることは、古代貴族の歴史観に沿ったものであり、彼らにとって不自然なことではなかったのです。
『日本書紀』では、最初から天皇の支配が「日本」全土に及んでいたとされているわけではありません。天皇の支配が「日本」全土に及ぶ(「全国支配」も、古代貴族の歴史観というか、観念・理想・願望なわけですが)に至った経緯についても、古代貴族なりの歴史観があり、それに沿って『日本書紀』は編纂されました。後に初代天皇とされた彦火火出見(神日本磐余彦天皇または神武天皇)が、元は日向(現在の宮崎県)にいたことはよく知られています。神武は45歳になった時、東征を決意して出立するわけですが、そのさいの決意表明は、大略次のようなものです。
昔、天神がこの国を我が祖先に授けられ、代々祖先の神々はこの西のほとりを統治して善政をしいてこられ、恩沢がゆきわたった。だが遠国では、まだ王の恩恵を受けず、邑(ムラ)には君(キミ)が、村(アレ・フレ)には長(ヒトコノカミ)がいて、境を分かって相争っている。さて、塩土老翁(シオツトノオキナ)に聞くと、東方によき地(クニ)があり、青い山に囲まれていて、天磐船(アマノイワフネ)に乗って飛び降りた者がいるという。余が思うに、その地(クニ)は大業を広め、天下を治めるのに充分であり、国の中心となろう。何としてもそこへ行き都としよう。
まず、この国の統治権が神により自らの祖先に与えられたこと、故に自らの全国支配が正当なものであることを述べていますが、だからといって当初より全国支配がなされていたと主張しているわけではありません。邑や村といった単位で首長がいて、それぞれ境界を争っている、と述べられています。現在の訓読みでは共に「ムラ」という邑と村とが別に記述されているのは興味深いことで、知見不足なので見当外れの説明になっているかもしれませんが、村の連合体が邑で、邑同士で境界を争っているのみならず、その邑を構成する村同士でも境界を争っていて、村にせよ邑にせよ強固な政治組織ではないことが窺えます。古代貴族が、邑を後の国(武蔵国や河内国というさいの国)か郡の前身だと考えていたとしたら、当初より全国支配がなされていたわけではない、ということのみならず、各地方単位での政治統合も元来は強固なものではなかった、と認識していたわけで、古代貴族の歴史観を知る上で実に興味深いことです。
それはともかく、神武が東征に出る前までは、天皇(と後になるべき人)の支配領域は九州南部の一部程度で、各地は境界を相争い分裂していた、というのが古代貴族の歴史観でした。日向を出立した神武一行は、各地に立ち寄りながら河内(現在の大阪府)の青雲白肩津に着き、ここから中洲(ウチツクニ)に入ろうとしましたが、この地に勢力を持つ長髄彦の抵抗に遭い、兄を失うなど苦戦しつつも、勝利しました。この中洲とは、後に橿原宮を建造させてそこで即位したことなどからして、奈良盆地南部を指す狭義のヤマトのことなのでしょう。
初期の天皇の宮が狭義のヤマトに集中していることから推測すると、ヤマトこそ天皇家と国家の発祥地・本拠地であると古代貴族は考えていたようで、神武東征説話は、神の子孫である天皇が如何にしてヤマトを根拠地とするに至ったかという問いにたいする、古代貴族なりの説明だったと思われます。それなら、日向ではなく最初からヤマトに下ればよさそうなものですが、太陽神的性格の強い天照大神の子孫である天皇家の降臨先としては、ヤマトよりも日向の方が相応しいと考えられたのでしょう。
神武東征説話は、たとえば天皇家の祖先が九州より東征してヤマトを征服したといった、天皇家と国家の発祥に関する事実を何らかの形で反映しているのかもしれませんが、その可能性は高くはないように私には思われます。神武東征説話は、天皇と国家との成立事情を伝えたものではなく、古代貴族の歴史観を色濃く反映したものだと思います。ただ、神武東征説話が全くの創作かというとそうではなく、やはり何らかの史実を反映している可能性は高く、水野祐氏などが指摘されているように、神武のヤマト平定説話は、壬申の乱における天武側の進軍が参考にされたのでしょう。
長髄彦を倒した(饒速日命が殺害したわけですが)神武がその後にやったことといえば、一部周辺地域の平定、橿原宮の建造、そこでの即位、といったあたりです。即位2年前の令に、周辺がまだ鎮定されていない、とあることからも、神武の平定した地域はヤマトとその一部周辺に留まっていたと言えるでしょう。その後の2~9代の天皇については、いつ都(宮)をどこに移したか、いつ誰を皇后・皇太子にしたか、いつ亡くなったか、ということが簡潔に記されているだけで、これといって目ぼしい事跡はほとんどありません。ただ、第2代の綏靖に関しては、即位前の兄との争いがやや詳しく描かれています。このことから、2~9代の天皇は実在しなかったとするのが一般的見解で、欠史8代と呼ばれています。
さて、この大した事跡のない2~9代の天皇は、古代貴族の歴史観においてはどのような存在だったのでしょうか。この問題については、遠山美都男氏が『天皇誕生』(中央公論新社、2001年)において興味深い見解を提示しています。遠山氏は、『日本書紀』編纂時には皇后は皇族から選ぶのが一般的なのに、欠史8代の場合のみ例外的に県主の娘から皇后が選ばれていることに着目しました。『日本書紀』本文では県主出身の皇后はこの間も1人ですが、異伝と『古事記』では県主出身の皇后が多くなっています。県主とは県の中心に祭られている神々の祭祀を統括する役目を世襲した神官的な氏族で、大和の名家でしたが、皇后を出す程の家柄ではありません。欠史8代は、大和の名家と婚姻関係を結ぶことにより奈良盆地とその周辺に勢力を浸透させていった、という役割を担わされたのではないか、と遠山氏は論じています。
この遠山氏の見解は、大筋では妥当なものだと思います。欠史8代では、県主や物部氏や尾張氏や穂積氏といった、『日本書紀』編纂時には到底皇后を輩出できないような家柄から皇后を立てられていることが多くなっています。物部氏も、神武より先にヤマトに降り立っていた天孫族の饒速日命を祖とするとされているのですから、天皇より先にヤマトに勢力を有していたという設定になります。欠史8代は、神武のヤマト平定の跡を受けて、ヤマト土着や近隣の豪族と婚姻関係を結んでいくことで、ヤマトとその周囲に勢力を浸透させていった時代であった、というのが古代貴族の歴史観だったと思われます。欠史8の後の崇神は、古代貴族の歴史観において画期とされていると思われますので、ここで今まで述べてきたことを、今後述べていく予定の見解も一部含めてまとめてみます。
ヤマトを根拠地とする古代貴族は、自らの「全国支配」が領域的にも質的にも長い時間をかけて徐々に達成されてきたとの歴史観を持ち、「日本国」支配の根源的な正当性が神々との直接・間接の連続性(天皇の場合は直接的な連続性となります)にある、と考えていました。そこで、『日本書紀』においてまずは「天界」での神話が、続いて「俗界」への降臨が述べられました。『日本書紀』編纂時には太陽神的性格が強い天照大神が皇祖神とされていたので、降臨先には日向が選ばれました。むろん、日向のような地名は各地にあったのでしょうが、遠山美都男氏が述べられているように、『日本書紀』編纂時には現在の宮崎県である日向が最も有名で、そのために降臨先に選ばれたのでしょう。
この時点では、支配領域は日向の一部程度です。ここから、古代貴族の根拠地とされていたヤマトに移らなければなりません。そのため、後に初代天皇となる人物が東征してヤマトを平定すると考えられ、その結果創られたのが神武東征説話でしたが、この時点でも支配領域はヤマトとその周辺の極一部です。その後、2~9代の天皇は、ヤマトとその周辺に勢力を有する豪族と婚姻関係を結んでいくことで、それらの地域に勢力をじょじょに浸透させていきました。しかし、それでも支配領域は神武の頃と大して変わらず、天皇は未だに神と人の両方の性格を有していた、というのが古代貴族の大まかな歴史観です。
要するに、古代貴族の基本的な歴史観は、自らを神々と直接・間接に繋がるとし、根拠地・発祥地であるヤマトから次第に勢力を浸透させていき「全国支配」を達成したというもので、それに加えて、皇祖神の性格との整合性から神武東征説話が創られたのではないか、というのが私の現時点(2001年)での考えです。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/history025.htm
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/history026.htm
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/history027.htm
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/history028.htm
たいへん未熟な内容になってしまっているのですが、恥ずかしながら、16年経過してもこの問題についてほとんど勉強が進んでいません。今後、少しずつ調べていこうと考えているのですが、記事が4本に分割されていると読み返すのが面倒なので、1本にまとめてこのブログに掲載することにしました。私にしか役立たない記事となりますが、このブログはほとんど備忘録のようなもので、これでよいかな、と思います。なお、漢字を平仮名にしたり、算用数字を半角にしたりと一部の表記を見直したり、分割掲載のための余分な説明を省略したり、段落構成を変更したり、誤字脱字を修正したり、文章を一部入れ替えたり、文章表現をこのブログに合わせたりしましたが、基本的には当時の記事の再掲です。皇祖神についてなど、この16年間に新たに得た知見もありますが、今回は修正しないことにします。歴代の「天皇(という称号の成立は7世紀以降なのでしょうが)」に関しては、「実在」か否か、「即位」前か後かに関わらず、表記は後代の漢風諡号で統一します。以下、本文です。
表題では「古代貴族」としましたが、これは皇族なども含めて7世紀後半~8世紀後半における律令国家の支配層全体を含んでいます。不正確な表現でしょうが、前之園氏の表現に倣ったのと、「古代貴族」とすると簡潔に見えるように思われたので、こうしました。
戦後になって水野祐氏により提唱された王朝交替説は学界のみならず在野にも大きな影響を与え、水野説にたいして肯定的または批判的な立場から様々な王朝交替説が提示されました。こうした王朝交替説にたいして、根本的な批判もなされるようになり、前之園亮一氏は『古代王朝交替説批判』(吉川弘文館、1986年)などにおいて、王朝交替説とは古代貴族階級の時代区分観を王朝の交替と誤認したものである、と批判しました。前之園氏の提示する古代貴族階級の時代区分観が妥当なものかどうか、私には判断するだけの見識はありませんが、興味深い見解だと思います。以下、この前之園氏の見解や遠山美都男『天皇誕生』(中央公論社、2001年)を参考に、古代貴族の歴史観と『日本書紀』について述べていきます。
『日本書紀』については権力側の自己正当化と記述の正確さという問題があり、在野の研究者の中には、この問題を重視して、『日本書紀』における歴史の捏造を強調する人も多くいます。確かに、『日本書紀』の記述がどこまで歴史的事実に即しているかはよく分からず、推古朝以降の記事はおおむね信用できるのではないか、というのが一般的な見解でしょうから、推古より前の記事にどこまで信憑性があるのか、よくは分からない、ということになります。
何故このようになったのかというと、少なからぬ論者が、天皇(皇族)の万世一系と支配層の正当性を証明するために、都合の悪い歴史的事実を隠蔽しようとして過去の記事を捏造したのだ、と主張するわけですが、この点には疑問が残ります。確かに、支配の正当化のための捏造がなかったとは言いませんが、『日本書紀』の記事が年代をさかのぼるほど信憑性が低くなる根本的な要因は、政治的圧力よりも編者の歴史的知識と見識の欠乏にあった、と私は考えています。
つまり、推古より前に関しては、文字史料がきょくたんに少なかったため、歴史事実があまり正確には伝えられず、その時代に関する歴史的知識が乏しかったのに、推古以前の時代についても歴史書として書かねばならなかったため、編者(というか、編者も含めての当時の支配層)の価値観(願望や理想像も含まれます)・歴史観に大きく依拠した記述となり、乏しい歴史知識に基づいた歴史観によって書かれたので、時として史実とは大きく異なる記述になったのでしょう。この古代貴族の歴史観について、『日本書紀』に即して述べていこう、というのが私の意図するところです。
『日本書紀』は神話から始まります。多くの地域や共同体においては、歴史の始まりは神話から語られ、神話を排した歴史が一般的となるのは、文字による記録が行なわれるようになったこの5000年間でも、ごく最近のことです。もちろん、合理主義の発達にともない、神話や神話もどきの説話への疑念は呈されるようになっており、中国などは、そうした傾向が世界でも最初期に認められる地域と言えるかもしれません。それはともかく、一般的には、神話を歴史の起点に置くことが圧倒的に長期にわたって行われてきたのでした。
人間が自らの起源と来歴について関心を抱くのは普通のことで、人類学や遺伝学などの確立していない時代にも、その時代の知見と価値観により、自らの起源と来歴が考えられていました。しかし、よく分からないことだけに、自らの起源を不可知的な存在であると考えていた神に結びつけたのは、自然なことでした。そう考えると、『日本書紀』が神話から始まっているのも当然で、古代貴族の価値観・歴史観が反映された結果であると言えます。もちろん、天皇や各氏族を直接・間接に神と結びつけることにより、支配の正統性と自らの高貴性を証明せんとの意図もあったわけですが、別にそれは必ずしも神に根拠を求めなくても可能なものです。神に自らの根拠を求めたのは、人間の起源を神との密接な関係に求める歴史観というか観念が広く浸透していたからでした。
古代貴族の歴史観では、神と直接・間接に結びつけられた天皇(皇族)や各氏族は、いきなり神から人になったのではないようで、前之園亮一氏が論じているように、その間に過渡期が設定されていると思われます。つまり、神と人との性格を併せ持つ人物がいた、との設定になっています。『日本書紀』に見える初期の天皇は、驚くほど長命です。初代の神武から15代の応神まで没年齢(数え年)は順に、127・84・57・77・113・137・128・116・111・120・140・106・107・52・110、となります(現在では天皇と数えられていない神功は100歳で没)。応神より後は、没年齢が不明な場合が多く、判明している場合も、一応は常識の範囲内に収まっています。このような長命は、応神以前は天皇が未だに神と人との中間的存在である、と理解されていたからで、異様な長命も何ら不思議ではありません。
一方で、推古朝に建国の年代を大幅に繰り上げた結果、各天皇の寿命が大幅に引き延ばされた、との見解もあります。この見解を全否定するつもりはありませんが、さらにはそこから、『日本書紀』に見える歴代の天皇は実在しており、初期の天皇の不自然な長命は無理に建国の年代を繰り上げたためで、初期の天皇が架空の人物だとしたら、このような不自然な寿命にするのではなく、適当にさらに何代かの天皇を創作し、それぞれの天皇の寿命をもっともらしいものにすればよい、との見解も提示されています。しかし、この見解はまったくの誤りでしょう。神と人との中間的存在である天皇が常識外れの長命であることは、古代貴族の歴史観に沿ったものであり、彼らにとって不自然なことではなかったのです。
『日本書紀』では、最初から天皇の支配が「日本」全土に及んでいたとされているわけではありません。天皇の支配が「日本」全土に及ぶ(「全国支配」も、古代貴族の歴史観というか、観念・理想・願望なわけですが)に至った経緯についても、古代貴族なりの歴史観があり、それに沿って『日本書紀』は編纂されました。後に初代天皇とされた彦火火出見(神日本磐余彦天皇または神武天皇)が、元は日向(現在の宮崎県)にいたことはよく知られています。神武は45歳になった時、東征を決意して出立するわけですが、そのさいの決意表明は、大略次のようなものです。
昔、天神がこの国を我が祖先に授けられ、代々祖先の神々はこの西のほとりを統治して善政をしいてこられ、恩沢がゆきわたった。だが遠国では、まだ王の恩恵を受けず、邑(ムラ)には君(キミ)が、村(アレ・フレ)には長(ヒトコノカミ)がいて、境を分かって相争っている。さて、塩土老翁(シオツトノオキナ)に聞くと、東方によき地(クニ)があり、青い山に囲まれていて、天磐船(アマノイワフネ)に乗って飛び降りた者がいるという。余が思うに、その地(クニ)は大業を広め、天下を治めるのに充分であり、国の中心となろう。何としてもそこへ行き都としよう。
まず、この国の統治権が神により自らの祖先に与えられたこと、故に自らの全国支配が正当なものであることを述べていますが、だからといって当初より全国支配がなされていたと主張しているわけではありません。邑や村といった単位で首長がいて、それぞれ境界を争っている、と述べられています。現在の訓読みでは共に「ムラ」という邑と村とが別に記述されているのは興味深いことで、知見不足なので見当外れの説明になっているかもしれませんが、村の連合体が邑で、邑同士で境界を争っているのみならず、その邑を構成する村同士でも境界を争っていて、村にせよ邑にせよ強固な政治組織ではないことが窺えます。古代貴族が、邑を後の国(武蔵国や河内国というさいの国)か郡の前身だと考えていたとしたら、当初より全国支配がなされていたわけではない、ということのみならず、各地方単位での政治統合も元来は強固なものではなかった、と認識していたわけで、古代貴族の歴史観を知る上で実に興味深いことです。
それはともかく、神武が東征に出る前までは、天皇(と後になるべき人)の支配領域は九州南部の一部程度で、各地は境界を相争い分裂していた、というのが古代貴族の歴史観でした。日向を出立した神武一行は、各地に立ち寄りながら河内(現在の大阪府)の青雲白肩津に着き、ここから中洲(ウチツクニ)に入ろうとしましたが、この地に勢力を持つ長髄彦の抵抗に遭い、兄を失うなど苦戦しつつも、勝利しました。この中洲とは、後に橿原宮を建造させてそこで即位したことなどからして、奈良盆地南部を指す狭義のヤマトのことなのでしょう。
初期の天皇の宮が狭義のヤマトに集中していることから推測すると、ヤマトこそ天皇家と国家の発祥地・本拠地であると古代貴族は考えていたようで、神武東征説話は、神の子孫である天皇が如何にしてヤマトを根拠地とするに至ったかという問いにたいする、古代貴族なりの説明だったと思われます。それなら、日向ではなく最初からヤマトに下ればよさそうなものですが、太陽神的性格の強い天照大神の子孫である天皇家の降臨先としては、ヤマトよりも日向の方が相応しいと考えられたのでしょう。
神武東征説話は、たとえば天皇家の祖先が九州より東征してヤマトを征服したといった、天皇家と国家の発祥に関する事実を何らかの形で反映しているのかもしれませんが、その可能性は高くはないように私には思われます。神武東征説話は、天皇と国家との成立事情を伝えたものではなく、古代貴族の歴史観を色濃く反映したものだと思います。ただ、神武東征説話が全くの創作かというとそうではなく、やはり何らかの史実を反映している可能性は高く、水野祐氏などが指摘されているように、神武のヤマト平定説話は、壬申の乱における天武側の進軍が参考にされたのでしょう。
長髄彦を倒した(饒速日命が殺害したわけですが)神武がその後にやったことといえば、一部周辺地域の平定、橿原宮の建造、そこでの即位、といったあたりです。即位2年前の令に、周辺がまだ鎮定されていない、とあることからも、神武の平定した地域はヤマトとその一部周辺に留まっていたと言えるでしょう。その後の2~9代の天皇については、いつ都(宮)をどこに移したか、いつ誰を皇后・皇太子にしたか、いつ亡くなったか、ということが簡潔に記されているだけで、これといって目ぼしい事跡はほとんどありません。ただ、第2代の綏靖に関しては、即位前の兄との争いがやや詳しく描かれています。このことから、2~9代の天皇は実在しなかったとするのが一般的見解で、欠史8代と呼ばれています。
さて、この大した事跡のない2~9代の天皇は、古代貴族の歴史観においてはどのような存在だったのでしょうか。この問題については、遠山美都男氏が『天皇誕生』(中央公論新社、2001年)において興味深い見解を提示しています。遠山氏は、『日本書紀』編纂時には皇后は皇族から選ぶのが一般的なのに、欠史8代の場合のみ例外的に県主の娘から皇后が選ばれていることに着目しました。『日本書紀』本文では県主出身の皇后はこの間も1人ですが、異伝と『古事記』では県主出身の皇后が多くなっています。県主とは県の中心に祭られている神々の祭祀を統括する役目を世襲した神官的な氏族で、大和の名家でしたが、皇后を出す程の家柄ではありません。欠史8代は、大和の名家と婚姻関係を結ぶことにより奈良盆地とその周辺に勢力を浸透させていった、という役割を担わされたのではないか、と遠山氏は論じています。
この遠山氏の見解は、大筋では妥当なものだと思います。欠史8代では、県主や物部氏や尾張氏や穂積氏といった、『日本書紀』編纂時には到底皇后を輩出できないような家柄から皇后を立てられていることが多くなっています。物部氏も、神武より先にヤマトに降り立っていた天孫族の饒速日命を祖とするとされているのですから、天皇より先にヤマトに勢力を有していたという設定になります。欠史8代は、神武のヤマト平定の跡を受けて、ヤマト土着や近隣の豪族と婚姻関係を結んでいくことで、ヤマトとその周囲に勢力を浸透させていった時代であった、というのが古代貴族の歴史観だったと思われます。欠史8の後の崇神は、古代貴族の歴史観において画期とされていると思われますので、ここで今まで述べてきたことを、今後述べていく予定の見解も一部含めてまとめてみます。
ヤマトを根拠地とする古代貴族は、自らの「全国支配」が領域的にも質的にも長い時間をかけて徐々に達成されてきたとの歴史観を持ち、「日本国」支配の根源的な正当性が神々との直接・間接の連続性(天皇の場合は直接的な連続性となります)にある、と考えていました。そこで、『日本書紀』においてまずは「天界」での神話が、続いて「俗界」への降臨が述べられました。『日本書紀』編纂時には太陽神的性格が強い天照大神が皇祖神とされていたので、降臨先には日向が選ばれました。むろん、日向のような地名は各地にあったのでしょうが、遠山美都男氏が述べられているように、『日本書紀』編纂時には現在の宮崎県である日向が最も有名で、そのために降臨先に選ばれたのでしょう。
この時点では、支配領域は日向の一部程度です。ここから、古代貴族の根拠地とされていたヤマトに移らなければなりません。そのため、後に初代天皇となる人物が東征してヤマトを平定すると考えられ、その結果創られたのが神武東征説話でしたが、この時点でも支配領域はヤマトとその周辺の極一部です。その後、2~9代の天皇は、ヤマトとその周辺に勢力を有する豪族と婚姻関係を結んでいくことで、それらの地域に勢力をじょじょに浸透させていきました。しかし、それでも支配領域は神武の頃と大して変わらず、天皇は未だに神と人の両方の性格を有していた、というのが古代貴族の大まかな歴史観です。
要するに、古代貴族の基本的な歴史観は、自らを神々と直接・間接に繋がるとし、根拠地・発祥地であるヤマトから次第に勢力を浸透させていき「全国支配」を達成したというもので、それに加えて、皇祖神の性格との整合性から神武東征説話が創られたのではないか、というのが私の現時点(2001年)での考えです。
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