人類史における弔意の起源(橋本琴絵氏公認アカウントのネアンデルタール人論)
これは1月24日分の記事として掲載しておきます。昨年(2017年)の衆院選で広島県第5区に希望の党から立候補した橋本琴絵氏(得票率21.7%、惜敗率32.4%で落選)の公認らしいTwitterアカウント(以下、橋本氏と省略します)が、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)について色々と呟き(関連記事)、それなりに話題になりました。遺伝子とさまざまな認知能力との関連は、もちろん環境も大きく影響してくるのでたいへん複雑であり、現時点では不透明なところが多分にある、と言わざるを得ないでしょう。そうした中で、認知能力に基づくある行動の有無を特定の民族集団や生物学的分類群の遺伝子に起因すると断定するのは、差別主義に他ならないと思います。その意味で、
人間で悪いことをする人なんて誰一人としていない。悪いことはすべてネアンデルタールの血がするの。だから、悪いことをしても、それはあなたがしたんじゃない。ネアンデルタールの血がしたの。獣の血を抑えて。きっとあなたは救われる。あなたそのものが悪いのではないのだから。
との橋本氏の発言は、差別主義そのものと言えるでしょう。橋本氏は、ネアンデルタール人には家族の概念や弔意がなく、仲間を食べる、と述べています。現代人の野蛮な振る舞いはネアンデルタール人の遺伝子に起因する、というわけです。これは、ネアンデルタール人と現生人類(Homo sapiens)との交雑という現在の有力説(関連記事)を踏まえたものでしょう。ネアンデルタール人の食人行為はさほど珍しいわけではありませんが(関連記事)、ネアンデルタール人に家族の概念や弔意がなかったと言えるのか、まだ断定できるような状況ではないでしょう。しかし、後期更新世のイベリア半島北部のネアンデルタール人社会において、夫居制的婚姻行動の可能性が指摘されており(関連記事)、現代人とある程度以上対比できるような家族概念がネアンデルタール人社会にも存在した可能性は高いと思います。
では、橋本氏が拘っているように見える、ネアンデルタール人の弔意の有無についてですが、こちらも現時点では断定できるような状況ではありません。橋本氏の見解にたいして、ネアンデルタール人は遺骸に花を供えていた、との批判が少なからず寄せられましたが、これは橋本氏にとっておそらく想定済の批判で、容易に反論できるものです。現在では、イラクのクルディスタン地域にある有名なシャニダール洞窟(Shanidar Cave)遺跡ではネアンデルタール人遺骸に花が供えられていた、との見解は疑問視されており、遺骸に花を供えた最古の証拠としては、13700~11700年前頃のイスラエルの遺跡の事例が知られています(関連記事)。
この件に限らず、橋本氏はネアンデルタール人や人類進化についてよく調べていると思います。うかつに罵倒・嘲笑すると、簡単に反論されてしまうでしょう。たとえば、ネアンデルタール人の遺伝子が現代人の悪行の要因だとしたら、ネアンデルタール人の遺伝的影響が他の地域集団よりずっと少ないか皆無に近い(サハラ砂漠以南の)アフリカ系現代人のみが理性的なのか、といった疑問が呈されます。これは、人類進化に関する近年の研究の進展をある程度把握している人にとって当然の疑問でしょうが、これも橋本氏にとっては容易に反論できる疑問で、橋本氏は「アフリカ人については他の近縁種(たくさんいるよ)との交雑を研究中」と指摘しています。アフリカ系現代人の悪行は、それら「近縁種」の遺伝的影響だと言いたいのでしょう。じっさい、アフリカにおいても、現生人類と遺伝学的に未知の人類系統との交雑の可能性が指摘されています(関連記事)。
また、現在では削除されているものの、上述のまとめ記事では残っている、「アジアにはデニソワ人やネアンデルタール人がわんさか今もいます」との発言も、一見すると電波ですが、東アジア系現代人では西ユーラシア系現代人よりもゲノムに占めるネアンデルタール人や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)由来の領域の割合が高い、との研究成果を踏まえたものと言えるでしょう(関連記事)。もっとも、本格的な差別主義のために、この件に限らず、橋本氏の人類進化に関する知見は、かなりゆがんだ解釈・表現になっていますが。せっかくの人類進化に関する知見がもっぱら差別主義に用いられているというか、差別主義の根拠を求めて人類進化を調べたようにも見えることは、何とも残念ではあります。
このように、橋本氏はネアンデルタール人や人類進化についてかなり調べているようで、ネアンデルタール人には弔意がないという見解も、ある程度以上の根拠に基づいています。なお、橋本氏は、埋葬には弔意が必ず伴い、その証拠が副葬品だと考えているようですが、一般に、埋葬概念に弔意(とその考古学的指標としての副葬品)は必要なく、弔意が必要条件となるのは埋葬や鳥葬などの遺骸処置法ではなく、葬送儀礼だと思います。この点で、橋本氏と、私も含めて橋本氏の批判者との間で会話がかみ合っていないところはあります。
それはさておき、橋本氏は、おそらくは現生人類(Homo sapiens)のことを指しているだろう「人間」には「10万年前」の「墳墓も副葬品もたくさんある」一方で、ネアンデルタール人にはそれらはない、と発言しています。これこそが、「人間」には弔意がある一方で、ネアンデルタール人には弔意がない根拠だというわけです。確かに、ネアンデルタール人に関しては、埋葬は広く認められているものの、確実な副葬品はまだ認められておらず、埋葬と葬儀とは明確に区別しなければならないでしょうが、5万年前よりもさかのぼる、現生人類遺骸に共伴する明確な副葬品の事例は、現時点ではイスラエルのスフール(Skhul)およびカフゼー(Qafzeh)遺跡に限られています(関連記事)。「人間」には「10万年前の人間の墳墓も副葬品もたくさんある」との発言にたいして、スフールおよびカフゼー遺跡以外の事例はあるのでしょうか、と私は尋ねましたが、橋本氏はその他の遺跡を挙げることができませんでした。
少なくとも現時点では、5万年前頃以降の上部旧石器時代の現生人類に関しても、明確(で豪華)な葬儀的儀式の証拠は稀であり、ほとんどの場合はネアンデルタール人の埋葬とあまり変わりませんでした(関連記事)。また、ネアンデルタール人の子供に関しては、遺骸に副葬品が共伴する可能性が指摘されており、ネアンデルタール人社会では子供がきわめて大切に扱われていたのかもしれません(関連記事)。近い将来、ネアンデルタール人の副葬品の事例が広く認められるようになる可能性は高い、と私は考えています。そうだとすると、現代人と同じとは言えないかもしれないにしても、ネアンデルタール人にも何らかの弔意があった可能性は高いでしょう。
現時点では、現生人類の起源地であるアフリカでは5万年以上前の明確な埋葬の痕跡が発見されておらず、西アジアやヨーロッパで埋葬や副葬品が確認されているということは、埋葬や副葬品を備えることは現生人類起源の行為ではなく、ネアンデルタール人起源か、ネアンデルタール人と現生人類との接触による何らかの刺激が両集団に(時として)埋葬(および副葬品を供えること)を行なわせる要因になった、とも考えられます。また、現時点での状況証拠からは、埋葬や副葬品を供えることに関して、ネアンデルタール人と現生人類との間に大きな先天的(遺伝的)な違いがあるというよりは、人口密度や他集団との接触頻度など、後天的な社会的要因が決定的だったのではないか、とも思います。そうだとすると、5万年以上前の副葬品自体はごく稀だとしても、ネアンデルタール人にも現生人類にも、同じではないとしても弔意概念は存在した可能性が高そうです。もちろん、今後アフリカで、10万年以上前の埋葬の痕跡が発見される可能性は無視できないほどあるでしょうし、ゲノム解析からも新たな知見が続々と得られるでしょうから、今後、私の考えは変わるかもしれません。
弔意という概念は現代人では普遍的で、現代人と同じではないとしてもネアンデルタール人でも普遍的だったとすると、その起源は現生人類とネアンデルタール人の最終共通祖先の段階までさかのぼるかもしれません。弔意の状況証拠としては、遺骸を特別に扱うことが挙げられます。たとえば、遺骸の埋葬や、生活空間から離れていたであろう穴に遺骸を集めるなどといった行為です。スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)では、43万年前頃の少なくとも28個体分となる6700個以上の人骨が一括して発見されており、遺骸の特別な処置が明確に認められます(関連記事)。SH人骨群は、ネアンデルタール人の祖先集団か、その近縁集団だと考えられます(関連記事)。おそらくはネアンデルタール人よりもずっと現生人類とは遠い関係にあるだろうホモ属のナレディ(Homo naledi)は、アフリカ南部に遅くとも335000~236000年前頃まで存在していましたが、やはり遺骸を意図的に穴に運んでいた可能性が指摘されています(関連記事)。
これらの事例は葬儀とも解釈されることがありますが、上述したように、埋葬(というか、遺骸の特別な処置)と葬儀とは明確に区別しなければなりません。SH人骨群やナレディの事例は、遺骸が身近にあることによる、腐敗臭などの不快さや肉食獣が接近する危険性を避けるためのものでしかなかった、とも考えられます。SH人骨群に共伴していた石器は副葬品かもしれませんが、単に偶然落ちただけの可能性もあります。ともかく、SH人骨群とナレディに関しては、まだ弔意の存在はとても確認できていない状況です。
ただ、現生人類とネアンデルタール人に弔意が存在したとすると、上述したように、現代人と同じではないとしても、現生人類とネアンデルタール人の最終共通祖先の段階で何らかの弔意概念が存在した可能性は無視できませんし、それが現生人類およびネアンデルタール人とナレディとの最終共通祖先の段階までさかのぼる可能性すら考えられます。弔意概念の起源については現時点ではとても断定できず、人間ではない現生動物種の事例も含めて、今後の研究の進展が期待されます。
人間で悪いことをする人なんて誰一人としていない。悪いことはすべてネアンデルタールの血がするの。だから、悪いことをしても、それはあなたがしたんじゃない。ネアンデルタールの血がしたの。獣の血を抑えて。きっとあなたは救われる。あなたそのものが悪いのではないのだから。
との橋本氏の発言は、差別主義そのものと言えるでしょう。橋本氏は、ネアンデルタール人には家族の概念や弔意がなく、仲間を食べる、と述べています。現代人の野蛮な振る舞いはネアンデルタール人の遺伝子に起因する、というわけです。これは、ネアンデルタール人と現生人類(Homo sapiens)との交雑という現在の有力説(関連記事)を踏まえたものでしょう。ネアンデルタール人の食人行為はさほど珍しいわけではありませんが(関連記事)、ネアンデルタール人に家族の概念や弔意がなかったと言えるのか、まだ断定できるような状況ではないでしょう。しかし、後期更新世のイベリア半島北部のネアンデルタール人社会において、夫居制的婚姻行動の可能性が指摘されており(関連記事)、現代人とある程度以上対比できるような家族概念がネアンデルタール人社会にも存在した可能性は高いと思います。
では、橋本氏が拘っているように見える、ネアンデルタール人の弔意の有無についてですが、こちらも現時点では断定できるような状況ではありません。橋本氏の見解にたいして、ネアンデルタール人は遺骸に花を供えていた、との批判が少なからず寄せられましたが、これは橋本氏にとっておそらく想定済の批判で、容易に反論できるものです。現在では、イラクのクルディスタン地域にある有名なシャニダール洞窟(Shanidar Cave)遺跡ではネアンデルタール人遺骸に花が供えられていた、との見解は疑問視されており、遺骸に花を供えた最古の証拠としては、13700~11700年前頃のイスラエルの遺跡の事例が知られています(関連記事)。
この件に限らず、橋本氏はネアンデルタール人や人類進化についてよく調べていると思います。うかつに罵倒・嘲笑すると、簡単に反論されてしまうでしょう。たとえば、ネアンデルタール人の遺伝子が現代人の悪行の要因だとしたら、ネアンデルタール人の遺伝的影響が他の地域集団よりずっと少ないか皆無に近い(サハラ砂漠以南の)アフリカ系現代人のみが理性的なのか、といった疑問が呈されます。これは、人類進化に関する近年の研究の進展をある程度把握している人にとって当然の疑問でしょうが、これも橋本氏にとっては容易に反論できる疑問で、橋本氏は「アフリカ人については他の近縁種(たくさんいるよ)との交雑を研究中」と指摘しています。アフリカ系現代人の悪行は、それら「近縁種」の遺伝的影響だと言いたいのでしょう。じっさい、アフリカにおいても、現生人類と遺伝学的に未知の人類系統との交雑の可能性が指摘されています(関連記事)。
また、現在では削除されているものの、上述のまとめ記事では残っている、「アジアにはデニソワ人やネアンデルタール人がわんさか今もいます」との発言も、一見すると電波ですが、東アジア系現代人では西ユーラシア系現代人よりもゲノムに占めるネアンデルタール人や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)由来の領域の割合が高い、との研究成果を踏まえたものと言えるでしょう(関連記事)。もっとも、本格的な差別主義のために、この件に限らず、橋本氏の人類進化に関する知見は、かなりゆがんだ解釈・表現になっていますが。せっかくの人類進化に関する知見がもっぱら差別主義に用いられているというか、差別主義の根拠を求めて人類進化を調べたようにも見えることは、何とも残念ではあります。
このように、橋本氏はネアンデルタール人や人類進化についてかなり調べているようで、ネアンデルタール人には弔意がないという見解も、ある程度以上の根拠に基づいています。なお、橋本氏は、埋葬には弔意が必ず伴い、その証拠が副葬品だと考えているようですが、一般に、埋葬概念に弔意(とその考古学的指標としての副葬品)は必要なく、弔意が必要条件となるのは埋葬や鳥葬などの遺骸処置法ではなく、葬送儀礼だと思います。この点で、橋本氏と、私も含めて橋本氏の批判者との間で会話がかみ合っていないところはあります。
それはさておき、橋本氏は、おそらくは現生人類(Homo sapiens)のことを指しているだろう「人間」には「10万年前」の「墳墓も副葬品もたくさんある」一方で、ネアンデルタール人にはそれらはない、と発言しています。これこそが、「人間」には弔意がある一方で、ネアンデルタール人には弔意がない根拠だというわけです。確かに、ネアンデルタール人に関しては、埋葬は広く認められているものの、確実な副葬品はまだ認められておらず、埋葬と葬儀とは明確に区別しなければならないでしょうが、5万年前よりもさかのぼる、現生人類遺骸に共伴する明確な副葬品の事例は、現時点ではイスラエルのスフール(Skhul)およびカフゼー(Qafzeh)遺跡に限られています(関連記事)。「人間」には「10万年前の人間の墳墓も副葬品もたくさんある」との発言にたいして、スフールおよびカフゼー遺跡以外の事例はあるのでしょうか、と私は尋ねましたが、橋本氏はその他の遺跡を挙げることができませんでした。
少なくとも現時点では、5万年前頃以降の上部旧石器時代の現生人類に関しても、明確(で豪華)な葬儀的儀式の証拠は稀であり、ほとんどの場合はネアンデルタール人の埋葬とあまり変わりませんでした(関連記事)。また、ネアンデルタール人の子供に関しては、遺骸に副葬品が共伴する可能性が指摘されており、ネアンデルタール人社会では子供がきわめて大切に扱われていたのかもしれません(関連記事)。近い将来、ネアンデルタール人の副葬品の事例が広く認められるようになる可能性は高い、と私は考えています。そうだとすると、現代人と同じとは言えないかもしれないにしても、ネアンデルタール人にも何らかの弔意があった可能性は高いでしょう。
現時点では、現生人類の起源地であるアフリカでは5万年以上前の明確な埋葬の痕跡が発見されておらず、西アジアやヨーロッパで埋葬や副葬品が確認されているということは、埋葬や副葬品を備えることは現生人類起源の行為ではなく、ネアンデルタール人起源か、ネアンデルタール人と現生人類との接触による何らかの刺激が両集団に(時として)埋葬(および副葬品を供えること)を行なわせる要因になった、とも考えられます。また、現時点での状況証拠からは、埋葬や副葬品を供えることに関して、ネアンデルタール人と現生人類との間に大きな先天的(遺伝的)な違いがあるというよりは、人口密度や他集団との接触頻度など、後天的な社会的要因が決定的だったのではないか、とも思います。そうだとすると、5万年以上前の副葬品自体はごく稀だとしても、ネアンデルタール人にも現生人類にも、同じではないとしても弔意概念は存在した可能性が高そうです。もちろん、今後アフリカで、10万年以上前の埋葬の痕跡が発見される可能性は無視できないほどあるでしょうし、ゲノム解析からも新たな知見が続々と得られるでしょうから、今後、私の考えは変わるかもしれません。
弔意という概念は現代人では普遍的で、現代人と同じではないとしてもネアンデルタール人でも普遍的だったとすると、その起源は現生人類とネアンデルタール人の最終共通祖先の段階までさかのぼるかもしれません。弔意の状況証拠としては、遺骸を特別に扱うことが挙げられます。たとえば、遺骸の埋葬や、生活空間から離れていたであろう穴に遺骸を集めるなどといった行為です。スペイン北部の通称「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡(以下、SHと省略)では、43万年前頃の少なくとも28個体分となる6700個以上の人骨が一括して発見されており、遺骸の特別な処置が明確に認められます(関連記事)。SH人骨群は、ネアンデルタール人の祖先集団か、その近縁集団だと考えられます(関連記事)。おそらくはネアンデルタール人よりもずっと現生人類とは遠い関係にあるだろうホモ属のナレディ(Homo naledi)は、アフリカ南部に遅くとも335000~236000年前頃まで存在していましたが、やはり遺骸を意図的に穴に運んでいた可能性が指摘されています(関連記事)。
これらの事例は葬儀とも解釈されることがありますが、上述したように、埋葬(というか、遺骸の特別な処置)と葬儀とは明確に区別しなければなりません。SH人骨群やナレディの事例は、遺骸が身近にあることによる、腐敗臭などの不快さや肉食獣が接近する危険性を避けるためのものでしかなかった、とも考えられます。SH人骨群に共伴していた石器は副葬品かもしれませんが、単に偶然落ちただけの可能性もあります。ともかく、SH人骨群とナレディに関しては、まだ弔意の存在はとても確認できていない状況です。
ただ、現生人類とネアンデルタール人に弔意が存在したとすると、上述したように、現代人と同じではないとしても、現生人類とネアンデルタール人の最終共通祖先の段階で何らかの弔意概念が存在した可能性は無視できませんし、それが現生人類およびネアンデルタール人とナレディとの最終共通祖先の段階までさかのぼる可能性すら考えられます。弔意概念の起源については現時点ではとても断定できず、人間ではない現生動物種の事例も含めて、今後の研究の進展が期待されます。
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