瀧浪貞子『光明皇后 平城京にかけた夢と祈り』
これは11月12日分の記事として掲載しておきます。中公新書の一冊として、中央公論新社から2017年10月に刊行されました。本書は光明皇后(安宿媛、光明子)の生涯を、両親・息子・異母兄・夫という肉親の死の観点から描き出そうとしています。なお、安宿媛という名前は、光明皇后の父親である藤原不比等を養育した田辺史一族の本拠地に因むものだろう、と本書は推測しています。光明皇后は慈悲深く信仰心の篤い人物との印象もあるでしょうが、本書は、息子の基王に続く母親の三千代の死が、光明皇后を仏教へ深く傾斜させたのではないか、と推測しています。
これと関連して本書の見解で興味深いのは、光明皇后と聖徳太子信仰との関わりを、三千代の影響ではないか、と推測していることです。河内の帰化氏族との深いつながりのなかで育った三千代は、早くから聖徳太子への追慕の念を抱いており、光明皇后は母が帰依した聖徳太子への崇敬を継承することが、母への供養と考えたのではないか、というわけです。法隆寺は奈良時代初期まで国家から特別扱いされることはなかったのですが、三千代の死後、光明皇后はたびたび仏具を献納するとともに、東院を造営します。
光明皇后には、強気で権勢欲の強い人物だったとの印象もあるでしょうが、これは、夫である聖武天皇が病弱で弱気な人物であり、母も妻も藤原不比等の娘であることから藤原氏の言いなりになっていた、との印象と一体のものと言えるでしょう。しかし本書は、聖武天皇は政治に意欲的で剛直なところがあり、藤原氏を牽制することもあった、との見解を提示しています。光明皇后は夫となる聖武天皇とともに不比等のもとで育ち、夫の性格をよく理解していたので、そのような夫を支えたのではないか、と本書は推測しています。飛鳥時代には皇后から天皇(大王)に即位した例もありますが、光明皇后は自身の即位をまったく想定しておらず、それは周囲も同様だっただろう、というのが本書の見解です。
光明皇后にとって異母姉であり、聖武天皇の母親でもあった宮古は、聖武天皇を出産直後に鬱病と思われる状態に陥り、長きにわたって息子と面会することがありませんでした。その面会に功績のあったのが玄昉と吉備真備で、二人は光明皇后・聖武天皇の信頼を得ていくことになります。本書は、宮古と聖武天皇の対面が天平年間の藤原四兄弟の相次ぐ死の後であることから、宮古を聖武天皇から隔離したのは、不比等とその息子たちである四兄弟の意向ではないか、と推測しています。
これと関連して本書の見解で興味深いのは、光明皇后と聖徳太子信仰との関わりを、三千代の影響ではないか、と推測していることです。河内の帰化氏族との深いつながりのなかで育った三千代は、早くから聖徳太子への追慕の念を抱いており、光明皇后は母が帰依した聖徳太子への崇敬を継承することが、母への供養と考えたのではないか、というわけです。法隆寺は奈良時代初期まで国家から特別扱いされることはなかったのですが、三千代の死後、光明皇后はたびたび仏具を献納するとともに、東院を造営します。
光明皇后には、強気で権勢欲の強い人物だったとの印象もあるでしょうが、これは、夫である聖武天皇が病弱で弱気な人物であり、母も妻も藤原不比等の娘であることから藤原氏の言いなりになっていた、との印象と一体のものと言えるでしょう。しかし本書は、聖武天皇は政治に意欲的で剛直なところがあり、藤原氏を牽制することもあった、との見解を提示しています。光明皇后は夫となる聖武天皇とともに不比等のもとで育ち、夫の性格をよく理解していたので、そのような夫を支えたのではないか、と本書は推測しています。飛鳥時代には皇后から天皇(大王)に即位した例もありますが、光明皇后は自身の即位をまったく想定しておらず、それは周囲も同様だっただろう、というのが本書の見解です。
光明皇后にとって異母姉であり、聖武天皇の母親でもあった宮古は、聖武天皇を出産直後に鬱病と思われる状態に陥り、長きにわたって息子と面会することがありませんでした。その面会に功績のあったのが玄昉と吉備真備で、二人は光明皇后・聖武天皇の信頼を得ていくことになります。本書は、宮古と聖武天皇の対面が天平年間の藤原四兄弟の相次ぐ死の後であることから、宮古を聖武天皇から隔離したのは、不比等とその息子たちである四兄弟の意向ではないか、と推測しています。
この記事へのコメント
読み通すには一頑張りが必要かも。
読めば日本史の盲点に気付くでしょう。
ネット小説も面白いです。