平井上総『兵農分離はあったのか』

 これは10月29日分の記事として掲載しておきます。シリーズ「中世から近世へ」の一冊として、平凡社より2017年9月に刊行されました。私はかつて兵農分離について熱心に調べていましたが、この十数年ほどは優先順位が以前ほど高くはなくなり、ほとんど勉強が進んでいません。それでも、まだ関心の高い問題なので、最新の研究成果を知る好機と思い読んでみました。本書の提示する歴史像は違和感のないもので、期待通りに、知らなかった史実やよく理解していなかった論点の解説がありました。私のような非専門家層にとっても、長く兵農分離についての基本書となるでしょう。

 兵農分離は、中世と近世を分かつ重要な指標とされています。織田信長は、戦国大名のなかでいち早く兵農分離を達成したために、勢力を拡大して近世の扉を開いた、というような俗説はまだ一般層には根強いと思います。信長とその後継者である羽柴秀吉の成功の一因として兵農分離があり、それが武田・上杉・北条・毛利などといった旧態依然たる戦国大名との大きな違いで、兵農分離は織豊政権の先進的政策の象徴で覇権の要因だった、というわけです。こうした俗説に限らず、専門家の間でも、中世と近世を分かつ重要な指標としての兵農分離という見解は根強いようです。

 本書は、このようにマジックワードとして使われている感のある兵農分離を具体的に検証し、兵農分離を志向・意図するような政策は、織豊政権・徳川政権でも基本的にはなかった、との見解を提示しています。本書は、マジックワードとして使われている兵農分離を5要素に分解し、関連する政策・事象を具体的に検証しています。その5要素とは、(1)農民兵から専業兵へ、(2)武士と百姓の土地所有形態の分離、(3)武士の居住地の変化、(4)百姓の武器所持否定、(5)武士と百姓の身分分離です。

 本書は、すでに戦国時代の時点で武士と百姓の間に軍事関連の負担分離の明確な観念(戦闘員としての武士と非戦闘員としての百姓)があったことや、江戸時代になっても百姓が兵たる武家奉公人の重要な供給源だったことや、江戸時代にも武士の耕地所有や村落住居が認められていたこと(一定以上の割合の武家奉公人は城下町に居住していたわけではなかったこと)や、刀狩により百姓が武器を所有しなくなったわけではないことなどを挙げ、これまで漠然と考えられてきた兵農分離という用語で、中世と近世を明確に区分できるわけではないことを指摘します。

 そのうえで本書は、近世になって、武士の城下町への集住傾向が強まり、武士と百姓の身分の違いの視覚化が強化されるなど、じゅうらい考えられてきた兵農分離的な事象の一部が進行したことを認めつつも、それらは兵農分離を意図した政策の結果というよりは、変化する状況への対応策としての側面が強かったのではないか、と指摘します。強力な統一政権を築いた羽柴秀吉により達成された「平和」により、近隣との抗争よりも遠征が主体となったことや、転封が頻繁に行なわれるようになったことから、多くの武家奉公人にとって、村落での散居よりも城下町集住の方が合理的になったのではないか、というわけです。

 また本書は、兵農分離の指標として重要とされる地方知行制から俸禄制への移行に関しても、江戸時代には一定以上の割合で地方知行制が残っていることを指摘するとともに、俸禄制への移行など知行制の変化は武家奉公人の困窮化への対応という側面が強かったのではないか、と推測しています。また、俸禄制への移行の背景として、重い負担などから、武家奉公人が領主であることを忌避する傾向が生じていたのではないか、と推測されています。こうした武家奉公人の困窮化については、城下町への集住に起因するところが多分にあり、これまで中世と近世を分かつ重要な指標とされてきた、一般的に考えられている兵農分離とは、状況の変化(強力な統一政権の誕生など)への諸々の対応策が複雑に絡み合った結果であり、意図して進められた一貫的政策ではない、と本書は指摘しています。

 現生人類(Homo sapiens)の思考傾向として、どうしても筋道の通った解釈を採用してしまうものですから、江戸時代に見られる兵農分離的状況を、特定の個人もしくは政権が意図的に推進した、という見解は分かりやすく、受け入れられやすいのだと思います。しかし、この兵農分離の問題に限りませんが、世の中の多くの事象はそのように単純なものではなく、もっと複雑なのでしょう。複雑な事象を複雑なまま理解するのは難しく、たとえ可能だとしても、その数は能力・時間に制約されます。私の場合はとくにその限界数が少なそうですが、複雑な事象をできるだけ多くそのままに理解していきたいものです。

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