渡邊大門編『信長研究の最前線2 まだまだ未解明な「革新者」の実像』
これは8月20日分の記事として掲載しておきます。日本史史料研究会監修で、 歴史新書の一冊として洋泉社より2017年8月に刊行されました。本書は『信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像』の続編となります(関連記事)。本書は5部構成で、各部は複数の論考から構成されています。本書で提示された見解のなかには、すでに他の一般向け書籍で知ったものもありましたが、信長に関する勉強はこの十数年ほどほとんど進んでいなので、多くの知見を得られました。『信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像』と併せて読むと、たいへん有益だと思います。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です
●渡邊大門「はじめに 中世的かつ保守的な信長」P3~9
近年の織田信長研究の動向を紹介しつつ、本書の各論考を簡潔に紹介しています。「革新者」としての信長像には現代では否定的な研究者が多いだろう、とのことですが、一方で、現代日本社会における信長の高い人気が「革新者」という印象に基づくものだろう、ということも指摘されています。この溝はまだ深いように思われます。
第1部 信長の「基本情報」の真偽
●小川雄「織田一族の家系 信長以前の織田氏と、そのルーツとは」P20~38
信長以前の織田氏(勝幡織田氏、弾正忠家)について解説されています。勝幡織田氏は、尾張守護の斯波氏の守護代だった清洲織田氏の一門として、16世紀初頭以降に頭角を現していったようです。斯波氏は越前の守護でもあったものの、応仁の乱以降、越前は実質的に守護代の朝倉氏が支配するようになっており、斯波氏は尾張の支配に重点を置くようになっていったようです。勝幡織田氏は、信長の父である信秀の代に、隣国の三河や美濃の混乱に乗じて台頭していきましたが、三河での今川氏との戦いに敗れた後、晩年(とはいっても、満年齢で40歳になったばかりのようですが)には各地で反撃を受けて苦境に立たされていたようです。
●石神教親「尾張の地理的環境 信長を生んだ、尾張国の地形・地理的環境とは」P39~53
中世の国境には曖昧なところがあり、尾張と三河・伊勢・美濃の間のように、政治情勢によって変更されることもあった、と指摘されています。たとえば、一向一揆の拠点だった長島は伊勢に属していたものの、信長は長島一揆との戦いのなかで長島を尾張と認識し、豊臣政権でも長島は尾張とされていました。長島が伊勢に戻されたのは江戸時代初期になってからです。信長にとって初期の経済基盤となった津島と熱田に関しては、門前町だったことが指摘されています。また、尾張は大半が平野で、防御に優れた山城の構築ができないことから、戦略や用兵が重要となり、織田氏の軍事力が強化されたのではないか、との見解も注目されます。
●和田裕弘「伝記と伝本 信長の一代記『信長記』はいかなる書物か」P54~70
太田牛一が著わした『信長記(信長公記)』について解説されています。『信長記』の題名は、著者の太田牛一がつけていなかったようなので、確定できないそうです。『信長記』は信頼性の高い史料とされており、近代以降の歴史学でも高く評価されてきましたが、信長より年長の太田牛一が信長に仕えたのは比較的遅かったことや、重臣とまでは言えない身分のため知らなかった機密情報もあることなどから、誤りや漏れもある、と指摘されています。
●藤本正行「信長の画像 信長の顔・姿は、どこまで本物に近いのか」P71~86
信長を描いた絵は多数伝わっており、木像も伝わっています。本論考は、それらの由来・性格を検証しています。中世には、人物画は法要のために描かれることが多く、生前に描かれること(寿像)は少なかったようです(木像も同様)。信長に関しては、寿像は確認されておらず、死後間もない法要のための人物画・木像もあることから、信長の外見・人物像を知るための格好の手がかりになっているようです。
第2部 信長の「敵対勢力」との関係
●千葉篤志「初期信長権力の形成過程 スムーズではなかった、信長の「家督相続」の現実」P88~103
信長の尾張統一は順調ではなく、一族や元々は仕えていた守護代、さらには守護との対立・連携のなかで進んでいき、尾張国内に限らず、美濃の斎藤氏や駿河・遠江から三河・尾張へと勢力を拡大してくる今川氏との対立・連携も関わっていたことが指摘されています。信長が守護と連携したことや上洛したことも、そうした状況での権威確立のためだったようです。信長が弾正忠家(勝幡織田氏)の正当な継承者だったことは自明とされていましたが、弟の信勝(達成、信成)の花押や官途から、弾正忠家における家督継承は曖昧で、信長と信勝の分掌体制が見られる、とも指摘されています。
●木下聡「道三と義龍・龍興 信長と美濃斎藤氏との関係とは」P104~116
織田氏と美濃の斎藤氏は信長の父である信秀の代には対立関係にありましたが、斎藤道三の娘が信長の妻となることで和睦します。道三は信長に肩入れしていたようで、これは、織田氏との友好関係により美濃の統治を安定化させる、という目的もあったようです。道三は織田氏との縁戚関係を築いた後、主君の土岐頼芸を追放しています。道三は嫡男の義龍と争い殺害され、これ以降、義龍・龍興の親子は信長と激しく対立しますが、道三の他の子孫たちは織田氏に重臣として仕えました。このことからも、道三が信長に肩入れしたという逸話は、かなりの程度事実を反映しているのではないか、と思います。
●太田浩司「信長と浅井氏 浅井長政は、なぜ信長を裏切る決断をしたのか」P117~135
信長の妹である市と浅井長政との婚姻時期については、1567~1568年とする見解が通説となっていましたが、本論考は、浅井長政の改名(賢政から長政)が1560年であることから、『東浅井郡志』に見える1561年説が妥当だろう、との見解を提示しています。長政が信長を裏切った理由として、信長が浅井氏を家臣として位置づけようとしていたからではないか、と推測されています。1572~1573年の武田信玄の西上作戦については、当初は遠江・三河の制圧が目的だったものの、三方ヶ原の戦いでの勝利により、周囲の要求などから上洛を意識するようになったのではないか、と推測されています。
第3部 信長と「室町幕府・朝廷」の関係
●山田康弘「信長と室町幕府 室町幕府の「幕府」とは何か」P138~156
本論考は、戦国時代・戦国大名といった基本的な用語を掘り下げて定義しようとしています。これは昔からの持論ですが、一般的に、基本的な概念ほど定義が難しいものだと思います。戦国時代・戦国大名についても、掘り下げていくと、定義は難しいとよく分かります。本論考はとくに幕府について掘り下げており、幕府には、将軍と大名たちとの全体的な相互補完関係(広義)、および将軍とその直属の中央機関(狭義)という二つの意味がある、と指摘しています。この観点から、足利義昭が京都から追放されて室町幕府が「滅亡した」と言えるのか、といった問題を考察しなければならない、と本論考は指摘しています。また、諸大名が将軍の命令に従う場合などの理由として、権威で説明されるものの、権威とは何か、本当に権威で説明できるのか、といった問題も提起されています。
●堺有宏「信長と朝廷・東大寺 信長は、なぜ蘭奢待を切り取ったのか」P157~172
信長が東大寺の蘭奢待を切り取ったことは、信長と天皇との関係で論じられてきました。これは、正親町天皇にたいする信長の示威行為であり、信長と天皇・朝廷との対立を示すものだ、というわけです。しかし近年では、信長と天皇との対立関係に否定的な見解が有力なようです。本論考は、信長による蘭奢待切り取りを、信長による寺院政策の一環として位置づけ、信長が奈良における新たな支配者であることを誇示する目的があったのではないか、と推測しています。
●神田裕理「朝廷と信長の関係 信長の「馬揃え」は、朝廷への軍事的圧力だったのか」P173~189
1581年2月28日と同年3月5日に京都で行なわれた馬揃えについて検証されています。この2回の馬揃えについては、信長と天皇・朝廷との対立を前提として、信長による天皇・朝廷への示威行為との見解も提示されています。しかし本論考は、この時期に信長と天皇・朝廷との深刻な対立の確たる証拠は見られず、また朝廷側との協議で馬揃えが行なわれていることから、示威行為説を否定しています。本論考は、京都での馬揃えの前提として同年1月15日の安土での馬揃えがあり、その評判を聞きつけた朝廷が、皇太子生母の死に伴う喪が明けたことから、華やかな馬揃えの実施を求めたのではないか、と推測しています。
第4部 信長の「宗教政策」と権力の源泉
●松本和也「宣教師と信長 信長とイエズス会の本当の関係とは」P192~208
信長は仏教を弾圧し、キリスト教を擁護した、と通俗的には言われているかもしれませんが、信長の対宗教政策は仏教とキリスト教とでとくに変わらない、と指摘されています。信長は、自分に従順な宗派には友好的に、従順ではない宗派には敵対的に接しただけで、キリスト教も、信長と友好的な関係を築いていたものの、荒木村重の謀反の時のように、対応を間違えれば信長から弾圧された可能性が指摘されています。当時、キリスト教が仏教の一派として把握されていたこととも関わってくるのでしょう。
●松下浩「信長の神格化の問題 信長「神格化」の真偽を検証してみる」P209~226
イエズス会史料に見える信長の神格化に関する、さまざまな見解が取り上げられています。本論考は、信長神格化に肯定的な見解と否定的な見解の核心は、信長の政権をどう把握するかにある、と指摘しています。神格化肯定説の前提は、信長は超越的な専制権力を志向しており、本願寺のイデオロギー、さらには天皇をも越えようとしていた、との認識であり、神格化否定説の前提は、信長は既存の秩序に自らを位置づけようとしていた、との認識です。本論考は、信長の基本的な宗教政策は、敵対しなければ既存の宗派を保護するというものであり、信長が自らを神として崇拝させるような新宗教を創出したとは考えられない、との見解を提示しています。
●木戸雅寿「安土城天主像の諸説 安土城「天主」の復元は、どこまで可能なのか」P227~244
本論考は、天主(天守)の起源と展開について検証しつつ、安土城天主の復元に関する諸説を取り上げています。天主という文字が当てられたのは信長によってであり、豊臣秀吉が大坂城を築いた頃に天守という表記に変わった、と指摘されています。安土城天主は時代を画するものとなったようですが、その起源については、室町時代の金閣・銀閣と、中世以降に発達してきた城郭施設が融合したものだ、と指摘されています。安土城の復元に関しては諸説提示されていますが、今後も飛躍的な進展は難しい、との見通しが提示されています。
第5部 信長と「商人」の関係
●渡邊大門「信長と銀山 信長は生野銀山を直接支配したのか」P246~265
信長が生野銀山を直接支配したのか、検証されています。1569年の織田の但馬侵攻は、生野銀山の支配を目的としたもの、との見解も提示されています。しかし本論考は、信長は毛利氏との連携において但馬に侵攻した、と指摘しています。織田に攻め込まれた山名氏は、銭の献上で信長に赦免を乞おうとして、今井宗久も仲立ちをしましたが、その財源とされたのが生野銀山だった、と推測されています。しかし、山名氏やその重臣の抵抗により銭の献上との約束は破棄されており、信長による生野銀山の支配も行なわれなかっただろう、と推測されています。
●廣田浩治「信長と都市・豪商 信長と都市・堺はどのような関係だったのか」P266~281
堺は町衆の自治都市だったものの、武家政権の都市でもあった、と指摘されています。信長の上洛前には、三好氏の直轄地となり、三好長慶は家臣を堺の代官としています。信長は上洛後、堺を支配下に置きますが、堺は武家権力との関わりが以前より強かったため、信長による支配にも適応できたのではないか、と指摘されています。また、堺は信長の支配下に置かれたものの、経済活動には信長に統制されない面があったことも指摘されています。
●八尾嘉男「信長と茶の湯 「名物狩り」と「御茶湯御政道」の実像とは」P282~299
信長がいつ茶の湯を知ったのか、確実なことは不明のようですが、信長の傳役だった平手政秀が尾張に立ち寄った公家に茶を振る舞い、茶道具を持っていたことなどからも、信長は1559年の最初の上洛以前に茶の湯を知っていただろう、と推測されています。信長は「名物狩り」により名物茶道具を天下人に集中させ、「御茶湯御政道」により主従関係の構築・強化に茶の湯を利用しました。こうした信長による茶の湯の活用は、豊臣政権・徳川政権にも継承されました。
●渡邊大門「はじめに 中世的かつ保守的な信長」P3~9
近年の織田信長研究の動向を紹介しつつ、本書の各論考を簡潔に紹介しています。「革新者」としての信長像には現代では否定的な研究者が多いだろう、とのことですが、一方で、現代日本社会における信長の高い人気が「革新者」という印象に基づくものだろう、ということも指摘されています。この溝はまだ深いように思われます。
第1部 信長の「基本情報」の真偽
●小川雄「織田一族の家系 信長以前の織田氏と、そのルーツとは」P20~38
信長以前の織田氏(勝幡織田氏、弾正忠家)について解説されています。勝幡織田氏は、尾張守護の斯波氏の守護代だった清洲織田氏の一門として、16世紀初頭以降に頭角を現していったようです。斯波氏は越前の守護でもあったものの、応仁の乱以降、越前は実質的に守護代の朝倉氏が支配するようになっており、斯波氏は尾張の支配に重点を置くようになっていったようです。勝幡織田氏は、信長の父である信秀の代に、隣国の三河や美濃の混乱に乗じて台頭していきましたが、三河での今川氏との戦いに敗れた後、晩年(とはいっても、満年齢で40歳になったばかりのようですが)には各地で反撃を受けて苦境に立たされていたようです。
●石神教親「尾張の地理的環境 信長を生んだ、尾張国の地形・地理的環境とは」P39~53
中世の国境には曖昧なところがあり、尾張と三河・伊勢・美濃の間のように、政治情勢によって変更されることもあった、と指摘されています。たとえば、一向一揆の拠点だった長島は伊勢に属していたものの、信長は長島一揆との戦いのなかで長島を尾張と認識し、豊臣政権でも長島は尾張とされていました。長島が伊勢に戻されたのは江戸時代初期になってからです。信長にとって初期の経済基盤となった津島と熱田に関しては、門前町だったことが指摘されています。また、尾張は大半が平野で、防御に優れた山城の構築ができないことから、戦略や用兵が重要となり、織田氏の軍事力が強化されたのではないか、との見解も注目されます。
●和田裕弘「伝記と伝本 信長の一代記『信長記』はいかなる書物か」P54~70
太田牛一が著わした『信長記(信長公記)』について解説されています。『信長記』の題名は、著者の太田牛一がつけていなかったようなので、確定できないそうです。『信長記』は信頼性の高い史料とされており、近代以降の歴史学でも高く評価されてきましたが、信長より年長の太田牛一が信長に仕えたのは比較的遅かったことや、重臣とまでは言えない身分のため知らなかった機密情報もあることなどから、誤りや漏れもある、と指摘されています。
●藤本正行「信長の画像 信長の顔・姿は、どこまで本物に近いのか」P71~86
信長を描いた絵は多数伝わっており、木像も伝わっています。本論考は、それらの由来・性格を検証しています。中世には、人物画は法要のために描かれることが多く、生前に描かれること(寿像)は少なかったようです(木像も同様)。信長に関しては、寿像は確認されておらず、死後間もない法要のための人物画・木像もあることから、信長の外見・人物像を知るための格好の手がかりになっているようです。
第2部 信長の「敵対勢力」との関係
●千葉篤志「初期信長権力の形成過程 スムーズではなかった、信長の「家督相続」の現実」P88~103
信長の尾張統一は順調ではなく、一族や元々は仕えていた守護代、さらには守護との対立・連携のなかで進んでいき、尾張国内に限らず、美濃の斎藤氏や駿河・遠江から三河・尾張へと勢力を拡大してくる今川氏との対立・連携も関わっていたことが指摘されています。信長が守護と連携したことや上洛したことも、そうした状況での権威確立のためだったようです。信長が弾正忠家(勝幡織田氏)の正当な継承者だったことは自明とされていましたが、弟の信勝(達成、信成)の花押や官途から、弾正忠家における家督継承は曖昧で、信長と信勝の分掌体制が見られる、とも指摘されています。
●木下聡「道三と義龍・龍興 信長と美濃斎藤氏との関係とは」P104~116
織田氏と美濃の斎藤氏は信長の父である信秀の代には対立関係にありましたが、斎藤道三の娘が信長の妻となることで和睦します。道三は信長に肩入れしていたようで、これは、織田氏との友好関係により美濃の統治を安定化させる、という目的もあったようです。道三は織田氏との縁戚関係を築いた後、主君の土岐頼芸を追放しています。道三は嫡男の義龍と争い殺害され、これ以降、義龍・龍興の親子は信長と激しく対立しますが、道三の他の子孫たちは織田氏に重臣として仕えました。このことからも、道三が信長に肩入れしたという逸話は、かなりの程度事実を反映しているのではないか、と思います。
●太田浩司「信長と浅井氏 浅井長政は、なぜ信長を裏切る決断をしたのか」P117~135
信長の妹である市と浅井長政との婚姻時期については、1567~1568年とする見解が通説となっていましたが、本論考は、浅井長政の改名(賢政から長政)が1560年であることから、『東浅井郡志』に見える1561年説が妥当だろう、との見解を提示しています。長政が信長を裏切った理由として、信長が浅井氏を家臣として位置づけようとしていたからではないか、と推測されています。1572~1573年の武田信玄の西上作戦については、当初は遠江・三河の制圧が目的だったものの、三方ヶ原の戦いでの勝利により、周囲の要求などから上洛を意識するようになったのではないか、と推測されています。
第3部 信長と「室町幕府・朝廷」の関係
●山田康弘「信長と室町幕府 室町幕府の「幕府」とは何か」P138~156
本論考は、戦国時代・戦国大名といった基本的な用語を掘り下げて定義しようとしています。これは昔からの持論ですが、一般的に、基本的な概念ほど定義が難しいものだと思います。戦国時代・戦国大名についても、掘り下げていくと、定義は難しいとよく分かります。本論考はとくに幕府について掘り下げており、幕府には、将軍と大名たちとの全体的な相互補完関係(広義)、および将軍とその直属の中央機関(狭義)という二つの意味がある、と指摘しています。この観点から、足利義昭が京都から追放されて室町幕府が「滅亡した」と言えるのか、といった問題を考察しなければならない、と本論考は指摘しています。また、諸大名が将軍の命令に従う場合などの理由として、権威で説明されるものの、権威とは何か、本当に権威で説明できるのか、といった問題も提起されています。
●堺有宏「信長と朝廷・東大寺 信長は、なぜ蘭奢待を切り取ったのか」P157~172
信長が東大寺の蘭奢待を切り取ったことは、信長と天皇との関係で論じられてきました。これは、正親町天皇にたいする信長の示威行為であり、信長と天皇・朝廷との対立を示すものだ、というわけです。しかし近年では、信長と天皇との対立関係に否定的な見解が有力なようです。本論考は、信長による蘭奢待切り取りを、信長による寺院政策の一環として位置づけ、信長が奈良における新たな支配者であることを誇示する目的があったのではないか、と推測しています。
●神田裕理「朝廷と信長の関係 信長の「馬揃え」は、朝廷への軍事的圧力だったのか」P173~189
1581年2月28日と同年3月5日に京都で行なわれた馬揃えについて検証されています。この2回の馬揃えについては、信長と天皇・朝廷との対立を前提として、信長による天皇・朝廷への示威行為との見解も提示されています。しかし本論考は、この時期に信長と天皇・朝廷との深刻な対立の確たる証拠は見られず、また朝廷側との協議で馬揃えが行なわれていることから、示威行為説を否定しています。本論考は、京都での馬揃えの前提として同年1月15日の安土での馬揃えがあり、その評判を聞きつけた朝廷が、皇太子生母の死に伴う喪が明けたことから、華やかな馬揃えの実施を求めたのではないか、と推測しています。
第4部 信長の「宗教政策」と権力の源泉
●松本和也「宣教師と信長 信長とイエズス会の本当の関係とは」P192~208
信長は仏教を弾圧し、キリスト教を擁護した、と通俗的には言われているかもしれませんが、信長の対宗教政策は仏教とキリスト教とでとくに変わらない、と指摘されています。信長は、自分に従順な宗派には友好的に、従順ではない宗派には敵対的に接しただけで、キリスト教も、信長と友好的な関係を築いていたものの、荒木村重の謀反の時のように、対応を間違えれば信長から弾圧された可能性が指摘されています。当時、キリスト教が仏教の一派として把握されていたこととも関わってくるのでしょう。
●松下浩「信長の神格化の問題 信長「神格化」の真偽を検証してみる」P209~226
イエズス会史料に見える信長の神格化に関する、さまざまな見解が取り上げられています。本論考は、信長神格化に肯定的な見解と否定的な見解の核心は、信長の政権をどう把握するかにある、と指摘しています。神格化肯定説の前提は、信長は超越的な専制権力を志向しており、本願寺のイデオロギー、さらには天皇をも越えようとしていた、との認識であり、神格化否定説の前提は、信長は既存の秩序に自らを位置づけようとしていた、との認識です。本論考は、信長の基本的な宗教政策は、敵対しなければ既存の宗派を保護するというものであり、信長が自らを神として崇拝させるような新宗教を創出したとは考えられない、との見解を提示しています。
●木戸雅寿「安土城天主像の諸説 安土城「天主」の復元は、どこまで可能なのか」P227~244
本論考は、天主(天守)の起源と展開について検証しつつ、安土城天主の復元に関する諸説を取り上げています。天主という文字が当てられたのは信長によってであり、豊臣秀吉が大坂城を築いた頃に天守という表記に変わった、と指摘されています。安土城天主は時代を画するものとなったようですが、その起源については、室町時代の金閣・銀閣と、中世以降に発達してきた城郭施設が融合したものだ、と指摘されています。安土城の復元に関しては諸説提示されていますが、今後も飛躍的な進展は難しい、との見通しが提示されています。
第5部 信長と「商人」の関係
●渡邊大門「信長と銀山 信長は生野銀山を直接支配したのか」P246~265
信長が生野銀山を直接支配したのか、検証されています。1569年の織田の但馬侵攻は、生野銀山の支配を目的としたもの、との見解も提示されています。しかし本論考は、信長は毛利氏との連携において但馬に侵攻した、と指摘しています。織田に攻め込まれた山名氏は、銭の献上で信長に赦免を乞おうとして、今井宗久も仲立ちをしましたが、その財源とされたのが生野銀山だった、と推測されています。しかし、山名氏やその重臣の抵抗により銭の献上との約束は破棄されており、信長による生野銀山の支配も行なわれなかっただろう、と推測されています。
●廣田浩治「信長と都市・豪商 信長と都市・堺はどのような関係だったのか」P266~281
堺は町衆の自治都市だったものの、武家政権の都市でもあった、と指摘されています。信長の上洛前には、三好氏の直轄地となり、三好長慶は家臣を堺の代官としています。信長は上洛後、堺を支配下に置きますが、堺は武家権力との関わりが以前より強かったため、信長による支配にも適応できたのではないか、と指摘されています。また、堺は信長の支配下に置かれたものの、経済活動には信長に統制されない面があったことも指摘されています。
●八尾嘉男「信長と茶の湯 「名物狩り」と「御茶湯御政道」の実像とは」P282~299
信長がいつ茶の湯を知ったのか、確実なことは不明のようですが、信長の傳役だった平手政秀が尾張に立ち寄った公家に茶を振る舞い、茶道具を持っていたことなどからも、信長は1559年の最初の上洛以前に茶の湯を知っていただろう、と推測されています。信長は「名物狩り」により名物茶道具を天下人に集中させ、「御茶湯御政道」により主従関係の構築・強化に茶の湯を利用しました。こうした信長による茶の湯の活用は、豊臣政権・徳川政権にも継承されました。
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