大石泰史編『今川氏研究の最前線 ここまでわかった「東海の大大名」の実像』
これは8月13日分の記事として掲載しておきます。日本史史料研究会監修で、歴史新書の一冊として洋泉社より2017年6月に刊行されました。本書は4部構成で、各部は複数の論考から構成されています。本書で提示された見解のなかには、すでに他の一般向け書籍で知ったものもありましたが、今川氏についてはよく知らなかったので、多くの知見を得られました思います。今川氏についての近年の研究動向を手軽に知ることができ、たいへん有益だと思います。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です
●大石泰史「はじめに 具体的な〝今川氏像〟を目指して」P3~17
鎌倉時代から南北朝時代・室町時代を経て戦国時代へといたる今川氏の歴史を簡潔に解説するとともに、今川氏研究を概観し、本書の各論考を簡潔に紹介しています。本論考によると、今川氏研究は検地など一部の分野で進展したものの、城郭研究などまだあまり解明されていない分野も少なからずある、とのことです。簡潔かつ的確な導入部になっていてよいと思います。
第1部 今川領国の領主たち
●清水敏之「今川本家と今川一門 駿河今川氏の「天下一名字」は史実か」P26~49
多数いた今川氏の一門について、鎌倉時代から戦国時代まで概観されています。これら多数の今川一門のなかには、戦国時代まで存続した家系もあれば、その前に史料から見えなくなり、没落したと思われる家系もあります。永享の乱での功績により、駿河今川氏の当主のみが今川と称すことを室町幕府第6代将軍の足利義教から許された、との記録もありますが、その後も今川一門のなかには今川と称した家系もあったことが指摘されています。しかし、それらの今川一門も戦国時代には今川を称さなくなったようで、それは駿河今川氏の圧力のためではないか、と本論考は推測しています。
●遠藤英弥「今川氏の主従関係 今川氏の被官と「駿遠三」の国衆」P50~67
今川氏の主従関係が検証されています。今川氏は武田氏と徳川氏から攻撃を受けて没落しましたが、そのさいに多くの国衆が今川氏から離反しており、大名の動向が国衆に規定されていることを示している、と指摘されています。寄親寄子制成立については、検地の実子・知行制の実施・不入権の否定が画期として挙げられています。また、寄親寄子制には、従属度の高いものと低いものがあったことも指摘されています。主従関係にはない他大名の家臣に知行を与える事例も紹介されています。
●糟谷幸裕「外様国衆・井伊氏と今川氏 今川氏の「徳」が問われた「井伊谷徳政」とは?」P68~90
今年(2017年)放送中の大河ドラマ『おんな城主 直虎』でも大きく取り上げられた「井伊谷徳政」について解説されています。「井伊谷徳政」は、1566年の今川氏の徳政令が銭主方の反発により反故にされたことに起因しますが、この時、徳政令を望んだ百姓は今川氏に失望し、それが翌年から翌々年にかけての「井伊谷徳政」のさいの百姓の消極的な態度につながった、とされています。百姓は、徳政令を実施できない今川氏に失望し、その直後の徳川氏の侵攻にも強く抵抗しなかったのではないか、というわけです。なお、昨年公表されて話題になった、井伊直虎は男性(関口氏経の息子)だったとの説について本論考は、確証はないものの、その蓋然性は高い、と評価しています。
第2部 今川氏の外交
●大石泰史「今川氏と京都 公家・将軍家との「外交関係」を支えた今川家の側近たち」P92~116
今川氏と京都の幕府・朝廷との関係について検証されています。戦国大名には京都駐在の家臣(在京雑掌)がおり、今川氏でも確認されていますが、詳しくは解明されていないようです。上杉氏の事例からは、幕府・朝廷との交渉や援助、政治工作、情報収集などを任務としていたことが窺えるようです。今川氏の場合、在京雑掌は基本的に法体の人物だったようです。また、今川氏では義元の代になって、京都との交渉に重臣が関わってくるようになることも指摘されています。
●丸島和洋「武田・北条氏と今川氏 今川氏の栄枯盛衰と連動した「甲駿相三国同盟」」P117~142
15世紀末から氏真の代での没落までの今川氏の外交について、北条氏・武田氏との関係を中心に解説されています。この間、当初は今川氏・北条氏と武田氏・上杉氏(扇谷・山内)との対立という構造だったのが、義元の代になって、今川氏は武田氏と結び、北条氏と対立するようになります。武田氏は北条氏とも結び、武田氏の仲介もあって今川氏は北条氏と和解し、時期は異なるものの、三氏は婚姻関係を重ねていき、今川・北条・武田の「三国同盟」が成立します。しかし、桶狭間の戦いで義元が戦死した後、武田氏が織田氏との関係を深めていくなかで、武田氏と今川氏との関係が悪化していきます。苦境に立った氏真が上杉氏(長尾氏)と結ぶと、これを大義名分として武田氏は今川氏との盟約を破棄し、今川氏は武田氏と徳川氏に攻められて没落するにいたります。
●柴裕之「三河・尾張方面の情勢 織田氏との対立、松平氏の離叛はなぜ起きたか」P143~164
おもに三河における今川氏の動向と、織田氏・松平(徳川)氏との関係が解説されています。今川氏と織田氏との対立は、三河における勢力圏争いに起因し、三河の国衆がどちらに従属するかで優勢が決まります。今川氏の三河への勢力浸透は順調には進まず、国衆を従属させるのに時間を要し、敵対する国衆は尾張の織田氏を頼みとします。松平氏も、今川氏と織田氏との間で揺れ動いた一族で、竹千代(徳川家康)が織田氏の人質になったのは、今川氏の人質になるところを誘拐されたからではなく、松平氏が織田氏に服属したからだ、と指摘されています。その後、松平氏は今川氏へと服属しますが、桶狭間の戦いの後、今川氏は西三河の国衆を保護するだけの力を失い、松平氏は今川氏から離反することになります。
第3部 桶狭間合戦前後の今川氏と周辺状況
●木下聡「桶狭間合戦と義元上洛説 「三河守任官」と尾張乱入は関係があるのか」P166~183
桶狭間の戦い直前の義元の三河守任官が検証されています。桶狭間の戦いにおける義元の目的は上洛だったとの古典的な説は、現在では否定されており、尾張を領する意図や、そうだとしてどの範囲だったのか、という観点からおもに議論されているようです。義元の三河守任官については、事実ではあるものの、義元の側からの要請ではなく、今川氏の世話になった公家が自発的に手続きをしたのではないか、と推測されています。また武家社会において、三河守は今川氏当主がよく用いた上総介よりもかなり格下に位置づけられていた、とも指摘されています。
●小笠原春香「今川義元と太原崇孚 臨済宗寺院の興隆と今川氏の領国拡大」P184~203
義元を幼少期から支えた太原崇孚の動向を中心に、今川領国内における臨済宗寺院の興隆と今川氏の勢力圏の拡大が解説されています。太原崇孚は臨済宗でも妙心寺派に転じます。現在静岡県の寺院では臨済宗の割合が21%で、そのなかでも妙心寺派が圧倒的に多いのですが、これは太原崇孚の影響とされてます。義元は北条氏・武田氏と結んで三河から尾張へと西方に侵攻していきますが、武田氏が長尾(上杉)氏との対立の結果、東美濃の掌握が不充分になったため、三河平定が遅れるなど、武田氏の動向に今川氏が影響を受けたことも指摘されています。義元が武田氏と長尾氏の仲介を担ったのは、今川氏の三河平定を進めるためでもありました。
●小川雄「南信濃・東美濃と三河 桶狭間敗戦以降の三河情勢と「今川・武田同盟」」P204~222
桶狭間の戦い以降の三河情勢が解説されています。桶狭間の戦い以降、三河では今川氏と松平(徳川)氏との対立を中心に情勢が展開します。ただ、松平氏は桶狭間の戦い直後に今川氏から離反したのではなく、当初は織田氏勢力と戦っており、今川氏に従属する国衆として活動していたようです。しかし、今川氏が三河を安定化させられないことから、松平氏は今川氏を見限って、織田氏と結びます。桶狭間の戦い以降の三河情勢には武田氏も関わっており、これは、三河と隣接する自国領の安定化のためでもありました。しかし、武田氏はそのために織田氏と結び、それが今川氏との関係悪化を招来します。しかし、1568年までは、緊張関係を内包しつつ、今川氏と武田氏の盟約は継続しました。
第4部 今後期待される研究テーマ
●望月保宏「考古学からみた今川氏 今川氏時代の城館跡の特徴を検証する」P224~242
考古学の研究成果から、今川氏領国のおもに戦国時代の城館の特徴が検証されています。平地城館については、一辺約100mの方形居館を基調とする館城ではないか、と推定されています。こうした特徴は、甲斐武田氏のような守護大名の系譜の戦国大名と同様で、「室町殿体制」を踏襲していたのではないか、と指摘されています。山上や丘陵上の城については、自然地形を利用した連郭式の縄張で、おもに堀切で遮断する構造が一般的だったのではないか、と推定されています。
●鈴木将典「今川氏と検地 「検地」の実像は、どこまでわかっているのか」P243~260
本論考は、戦国時代の検地の研究史にも触れつつ、戦国時代の今川氏の検地を検証しています。今川氏の検地に関する研究は、検地帳や検地書出が現存しないため、北条氏や武田氏ほどには進んでいないようです。そうした制約があるなか、本論考は現存する史料から今川氏の検地を検証していますが、今川氏は訴訟を受けて検地を実施し、「増分」を確定して直轄領とすることもありました。しかし、今川氏のこうした検地は武田氏では「改」とされており、今川氏が北条氏や武田氏や豊臣政権のような検地を実施したのか、まだ確証は得られていないようです。
●小川剛生「今川氏と和歌 文学活動に長い伝統と実績を持つ家柄」P261~283
戦国時代の今川氏を中心に、中世における和歌の在り様が解説されています。南北朝時代にはすでに、和歌は上級武家の教養として必須とされていましたが、今川氏もその頃には歌道をとくに重んじるようになっていきます。中世の地方の武家の和歌については、歌会や歌合が行なわれたことは諸史料によりに明らかですが、和歌そのものはあまり伝わっていないそうです。今川氏でも、義元の真作についてはほとんど知られていなかったのですが、研究の進展により、義元の和歌も確認されつつあるようです。氏真の和歌は多くが確認されており、題詠を巧みに処理する点では水準以上であるものの、素人臭は抜けず、真率な述懐が見られる点に特色がある、と本論考では評価されています。氏真が晩年に父である義元の戦死を想起した和歌を残していたことは、印象に残りました。
●大石泰史「はじめに 具体的な〝今川氏像〟を目指して」P3~17
鎌倉時代から南北朝時代・室町時代を経て戦国時代へといたる今川氏の歴史を簡潔に解説するとともに、今川氏研究を概観し、本書の各論考を簡潔に紹介しています。本論考によると、今川氏研究は検地など一部の分野で進展したものの、城郭研究などまだあまり解明されていない分野も少なからずある、とのことです。簡潔かつ的確な導入部になっていてよいと思います。
第1部 今川領国の領主たち
●清水敏之「今川本家と今川一門 駿河今川氏の「天下一名字」は史実か」P26~49
多数いた今川氏の一門について、鎌倉時代から戦国時代まで概観されています。これら多数の今川一門のなかには、戦国時代まで存続した家系もあれば、その前に史料から見えなくなり、没落したと思われる家系もあります。永享の乱での功績により、駿河今川氏の当主のみが今川と称すことを室町幕府第6代将軍の足利義教から許された、との記録もありますが、その後も今川一門のなかには今川と称した家系もあったことが指摘されています。しかし、それらの今川一門も戦国時代には今川を称さなくなったようで、それは駿河今川氏の圧力のためではないか、と本論考は推測しています。
●遠藤英弥「今川氏の主従関係 今川氏の被官と「駿遠三」の国衆」P50~67
今川氏の主従関係が検証されています。今川氏は武田氏と徳川氏から攻撃を受けて没落しましたが、そのさいに多くの国衆が今川氏から離反しており、大名の動向が国衆に規定されていることを示している、と指摘されています。寄親寄子制成立については、検地の実子・知行制の実施・不入権の否定が画期として挙げられています。また、寄親寄子制には、従属度の高いものと低いものがあったことも指摘されています。主従関係にはない他大名の家臣に知行を与える事例も紹介されています。
●糟谷幸裕「外様国衆・井伊氏と今川氏 今川氏の「徳」が問われた「井伊谷徳政」とは?」P68~90
今年(2017年)放送中の大河ドラマ『おんな城主 直虎』でも大きく取り上げられた「井伊谷徳政」について解説されています。「井伊谷徳政」は、1566年の今川氏の徳政令が銭主方の反発により反故にされたことに起因しますが、この時、徳政令を望んだ百姓は今川氏に失望し、それが翌年から翌々年にかけての「井伊谷徳政」のさいの百姓の消極的な態度につながった、とされています。百姓は、徳政令を実施できない今川氏に失望し、その直後の徳川氏の侵攻にも強く抵抗しなかったのではないか、というわけです。なお、昨年公表されて話題になった、井伊直虎は男性(関口氏経の息子)だったとの説について本論考は、確証はないものの、その蓋然性は高い、と評価しています。
第2部 今川氏の外交
●大石泰史「今川氏と京都 公家・将軍家との「外交関係」を支えた今川家の側近たち」P92~116
今川氏と京都の幕府・朝廷との関係について検証されています。戦国大名には京都駐在の家臣(在京雑掌)がおり、今川氏でも確認されていますが、詳しくは解明されていないようです。上杉氏の事例からは、幕府・朝廷との交渉や援助、政治工作、情報収集などを任務としていたことが窺えるようです。今川氏の場合、在京雑掌は基本的に法体の人物だったようです。また、今川氏では義元の代になって、京都との交渉に重臣が関わってくるようになることも指摘されています。
●丸島和洋「武田・北条氏と今川氏 今川氏の栄枯盛衰と連動した「甲駿相三国同盟」」P117~142
15世紀末から氏真の代での没落までの今川氏の外交について、北条氏・武田氏との関係を中心に解説されています。この間、当初は今川氏・北条氏と武田氏・上杉氏(扇谷・山内)との対立という構造だったのが、義元の代になって、今川氏は武田氏と結び、北条氏と対立するようになります。武田氏は北条氏とも結び、武田氏の仲介もあって今川氏は北条氏と和解し、時期は異なるものの、三氏は婚姻関係を重ねていき、今川・北条・武田の「三国同盟」が成立します。しかし、桶狭間の戦いで義元が戦死した後、武田氏が織田氏との関係を深めていくなかで、武田氏と今川氏との関係が悪化していきます。苦境に立った氏真が上杉氏(長尾氏)と結ぶと、これを大義名分として武田氏は今川氏との盟約を破棄し、今川氏は武田氏と徳川氏に攻められて没落するにいたります。
●柴裕之「三河・尾張方面の情勢 織田氏との対立、松平氏の離叛はなぜ起きたか」P143~164
おもに三河における今川氏の動向と、織田氏・松平(徳川)氏との関係が解説されています。今川氏と織田氏との対立は、三河における勢力圏争いに起因し、三河の国衆がどちらに従属するかで優勢が決まります。今川氏の三河への勢力浸透は順調には進まず、国衆を従属させるのに時間を要し、敵対する国衆は尾張の織田氏を頼みとします。松平氏も、今川氏と織田氏との間で揺れ動いた一族で、竹千代(徳川家康)が織田氏の人質になったのは、今川氏の人質になるところを誘拐されたからではなく、松平氏が織田氏に服属したからだ、と指摘されています。その後、松平氏は今川氏へと服属しますが、桶狭間の戦いの後、今川氏は西三河の国衆を保護するだけの力を失い、松平氏は今川氏から離反することになります。
第3部 桶狭間合戦前後の今川氏と周辺状況
●木下聡「桶狭間合戦と義元上洛説 「三河守任官」と尾張乱入は関係があるのか」P166~183
桶狭間の戦い直前の義元の三河守任官が検証されています。桶狭間の戦いにおける義元の目的は上洛だったとの古典的な説は、現在では否定されており、尾張を領する意図や、そうだとしてどの範囲だったのか、という観点からおもに議論されているようです。義元の三河守任官については、事実ではあるものの、義元の側からの要請ではなく、今川氏の世話になった公家が自発的に手続きをしたのではないか、と推測されています。また武家社会において、三河守は今川氏当主がよく用いた上総介よりもかなり格下に位置づけられていた、とも指摘されています。
●小笠原春香「今川義元と太原崇孚 臨済宗寺院の興隆と今川氏の領国拡大」P184~203
義元を幼少期から支えた太原崇孚の動向を中心に、今川領国内における臨済宗寺院の興隆と今川氏の勢力圏の拡大が解説されています。太原崇孚は臨済宗でも妙心寺派に転じます。現在静岡県の寺院では臨済宗の割合が21%で、そのなかでも妙心寺派が圧倒的に多いのですが、これは太原崇孚の影響とされてます。義元は北条氏・武田氏と結んで三河から尾張へと西方に侵攻していきますが、武田氏が長尾(上杉)氏との対立の結果、東美濃の掌握が不充分になったため、三河平定が遅れるなど、武田氏の動向に今川氏が影響を受けたことも指摘されています。義元が武田氏と長尾氏の仲介を担ったのは、今川氏の三河平定を進めるためでもありました。
●小川雄「南信濃・東美濃と三河 桶狭間敗戦以降の三河情勢と「今川・武田同盟」」P204~222
桶狭間の戦い以降の三河情勢が解説されています。桶狭間の戦い以降、三河では今川氏と松平(徳川)氏との対立を中心に情勢が展開します。ただ、松平氏は桶狭間の戦い直後に今川氏から離反したのではなく、当初は織田氏勢力と戦っており、今川氏に従属する国衆として活動していたようです。しかし、今川氏が三河を安定化させられないことから、松平氏は今川氏を見限って、織田氏と結びます。桶狭間の戦い以降の三河情勢には武田氏も関わっており、これは、三河と隣接する自国領の安定化のためでもありました。しかし、武田氏はそのために織田氏と結び、それが今川氏との関係悪化を招来します。しかし、1568年までは、緊張関係を内包しつつ、今川氏と武田氏の盟約は継続しました。
第4部 今後期待される研究テーマ
●望月保宏「考古学からみた今川氏 今川氏時代の城館跡の特徴を検証する」P224~242
考古学の研究成果から、今川氏領国のおもに戦国時代の城館の特徴が検証されています。平地城館については、一辺約100mの方形居館を基調とする館城ではないか、と推定されています。こうした特徴は、甲斐武田氏のような守護大名の系譜の戦国大名と同様で、「室町殿体制」を踏襲していたのではないか、と指摘されています。山上や丘陵上の城については、自然地形を利用した連郭式の縄張で、おもに堀切で遮断する構造が一般的だったのではないか、と推定されています。
●鈴木将典「今川氏と検地 「検地」の実像は、どこまでわかっているのか」P243~260
本論考は、戦国時代の検地の研究史にも触れつつ、戦国時代の今川氏の検地を検証しています。今川氏の検地に関する研究は、検地帳や検地書出が現存しないため、北条氏や武田氏ほどには進んでいないようです。そうした制約があるなか、本論考は現存する史料から今川氏の検地を検証していますが、今川氏は訴訟を受けて検地を実施し、「増分」を確定して直轄領とすることもありました。しかし、今川氏のこうした検地は武田氏では「改」とされており、今川氏が北条氏や武田氏や豊臣政権のような検地を実施したのか、まだ確証は得られていないようです。
●小川剛生「今川氏と和歌 文学活動に長い伝統と実績を持つ家柄」P261~283
戦国時代の今川氏を中心に、中世における和歌の在り様が解説されています。南北朝時代にはすでに、和歌は上級武家の教養として必須とされていましたが、今川氏もその頃には歌道をとくに重んじるようになっていきます。中世の地方の武家の和歌については、歌会や歌合が行なわれたことは諸史料によりに明らかですが、和歌そのものはあまり伝わっていないそうです。今川氏でも、義元の真作についてはほとんど知られていなかったのですが、研究の進展により、義元の和歌も確認されつつあるようです。氏真の和歌は多くが確認されており、題詠を巧みに処理する点では水準以上であるものの、素人臭は抜けず、真率な述懐が見られる点に特色がある、と本論考では評価されています。氏真が晩年に父である義元の戦死を想起した和歌を残していたことは、印象に残りました。
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