蔦谷匠「ヒトの授乳・離乳から見据える生物と文化の齟齬」

 これは6月21日分の記事として掲載しておきます。『現代思想』2017年6月号の特集「変貌する人類史」に掲載された論文です。本論文は、現代人の授乳と離乳に見られるミスマッチ(関連記事)について解説しています。大半は狩猟採集社会における進化を通じて獲得されてきたヒトの行動や性質が、近現代の急激な生活環境の変化にあって齟齬をきたす事例が多数見られ、授乳と離乳もその一例になる、というわけです。

 狩猟採集社会では、母親が子供の誕生から数年は子供を連れ歩くため、頻繁に授乳が行なわれます。頻繁に授乳しないと、乳汁生産を促進するプロラクチンというホルモンの濃度が低下するため、現代の産業社会においては、授乳での育児が困難になっています。また、現代社会においては女性の乳房が性的欲望の対象とされることが多いため、その点も授乳での育児を困難としています。そのため、現代社会では、粉ミルクなどの人工乳による育児も普及しています。

 しかし、現代社会において、母乳バンクやインターネットの母乳の取引が行なわれています。これは、「母性神話」とも関わる根拠のない観念・思い込みにのみ起因するというわけではなく、母乳育児には人口母子双方に利点がある、と明らかになっています。母乳には、幼児の脆弱な免疫機能を補ったり、母乳に含まれる多様なオリゴ糖が幼児の腸内細菌叢の発達に重要な役割を果たしたりしており、人工乳はまだ母乳に及ばないところが多々あるようです。

 また、授乳で育ったヒトは成人後も感染症の罹患率やII型糖尿病の発症リスクが低下し、母親の方も、授乳により乳癌や卵巣癌の発症リスクが低下する、と指摘されています。また、衛生環境の悪い地域では人工乳での育児により乳幼児の死亡率が数倍にまで上昇すると報告されており、そうした地域では生後2年以上は母乳で乳幼児を育てるよう、世界保健機関が強く推奨しています。ただ、母乳にはビタミンDが欠乏しているので、乳幼児をほとんど日光に当てないような「大事な」育て方をすると、ビタミンD欠乏に陥る、と指摘されています。

 授乳は排卵を抑制するので、富裕な階層で母親が授乳せず、乳母を雇っていたのは、母親に男児を多数産ませるためではなかったか、との見解も提示されているそうです。本論文では、中世~近世のヨーロッパの事例が取り上げられていますが、当時、授乳が出産を抑制する、と経験的に理解されていた可能性もあるでしょう。前近代の日本でも社会上層では乳母を雇うことが一般的だったようですが、これも同様の理由なのかもしれません。

 本論文は、現代人の授乳と離乳においてミスマッチが起きやすいものの、母乳と人工乳は育児においてトレードオフの関係にあることを指摘しています。確かに、母乳育児の利点は母子ともに大きいのですが、だからといって、現代社会において母乳育児に拘れば、経済的な損失が大きくなることも珍しくありません。母乳育児に拘って(貧窮化していき)母親の健康が損なわれるようなことがあれば、母子共倒れになりかねず、授乳と離乳に関しても、生物学的・文化的背景を把握することで、双方の利点を抜き出せるのではないか、と本論文は指摘しています。


参考文献:
蔦谷匠(2017)「ヒトの授乳・離乳から見据える生物と文化の齟齬」『現代思想』第45巻12号P115-127(青土社)

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