『最古の文字なのか? 氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く』

 これは3月26日分の記事として掲載しておきます。ジェネビーブ=ボン=ペッツィンガー(Genevieve von Petzinger)著、櫻井祐子訳で、文藝春秋社より2016年11月に刊行されました。原書の刊行は2016年です。著者の見解は地上波の番組でも取り上げられたことがあり、すでにある程度知られているのではないか、と思います。このブログでも、著者の見解を取り上げたことがあります(関連記事)。

 本書は、おもにヨーロッパを対象として、後期更新世のさまざまな記号を区分し、その意味・役割を解明しようとしています。本書は、こうした記号で同じように見えるものでも、時代・地域により意味が異なっていたのではないか、と慎重な姿勢を示しつつ、こうした記号が何らかの補助的な記憶装置の役割を果たしており、その中には地図として機能したものがある可能性も指摘しています。もっとも、本書も認めるように、後期更新世の記号の意味を明らかにすることは永久に無理だと思われます。それでも、著者が取り組んでいるように、対象地域を拡大してさまざまな記号をデータベース化し、神経心理学・言語学の知見やその当時の環境を考慮することにより、可能性のより高い仮説を絞り込むことはできるでしょうし、本書を読んで、この分野の研究は今後大いに進展するのではないか、と期待されます。

 本書は、記号として分類されているものだけではなく、動物を描いたものや彫像など、さまざまな更新世の人為的作品を取り上げています。ヨーロッパの上部旧石器時代以降の、現生人類(Homo sapiens)が残したと思われる作品については、完全に現代人と同等の抽象的・象徴的思考能力を有した人々の所産だ、と本書は強調しています。本書はさらに、150万年以上前から用いられた握斧(Handaxe)のなかに、一度も使用された痕跡のないものがあることや、ジャワ島の54万~43万年前頃の線刻のある貝殻(関連記事)や、43万年前頃のスペイン北部の「骨の穴(Sima de los Huesos)洞窟」遺跡の未使用の赤い握斧などから、現代人と同じではないにしても、抽象的・象徴的思考能力の萌芽が50万年以上前までさかのぼる可能性を指摘しています。

 表題の「最古の文字なのか」という問題について本書は、後期更新世のさまざまな記号は文字ではない、との見解を提示しています。文字体系とは「耐久性のある面に書かれた、視覚的で慣習化された記号を利用する、相互コミュニケーションのシステム」であり、後期更新世のさまざまな記号は「耐久性のある面」と「視覚的な記号」という条件は満たしているものの、「慣習化」という条件は満たしていなかった、というわけです。しかし本書は、後期更新世のさまざまな記号が、その場限りの意思伝達手段である音声言語や身振り手振りとは異なり、時空を超えて意味を伝える手段として、後の文字体系の前駆として考えられることの意義を強調しています。本書は、学術的な議論だけではなく、各遺跡の風景や人間模様なども紹介しており、一般向け書籍として良書と言えるでしょう。一般向け書籍ながら、参考文献が明示されているのもよいと思います。


参考文献:
Petzinger G.著(2016)、野中香方子訳、更科功解説『最古の文字なのか? 氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く』(文藝春秋社、原書の刊行は2016年)

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