歴史は妄想であってはならない(「聖徳太子」表記をめぐる議論)
これは3月20日分の記事として掲載しておきます。新学習指導要領案で、「聖徳太子」について、小学校では「聖徳太子(厩戸王)」、中学校では「厩戸王(聖徳太子)」と表記が変更になる件は、抗議する団体がいたり、国会でも取り上げられたりするなど、一部?で話題になったようです。このブログでも4年前(2013年)に、高校日本史教科書での「聖徳太子」表記の問題を取り上げたことがあります(関連記事)。表題の記事では、「後世、聖徳太子と呼ばれている人物は、生きていた当時はそんな名ではなく、厩戸王だった。だから、歴史教科書では、いわば両論併記で厩戸王(聖徳太子)と書くように変更しようとしたわけです」と指摘されています。
これが「リベラル派」やアンチ「ネトウヨ」派の一般的な認識かどうかは分かりませんが、「厩戸王」も不適切だということは、『聖徳太子 実像と伝説の間』(関連記事)の著者である石井公成氏がブログでも指摘しています。現時点の知見では、「厩戸王」は江戸時代後期まで見られない表記ですが、「聖徳太子」は8世紀半ば頃成立の『懐風藻』に見えます。さらに、『日本書紀』には「聖徳太子」という名称そのものはありませんが、「敏達紀(巻廿)」には「東宮聖徳」、「推古紀(巻廿二)」には「上宮太子」とあるので、『日本書紀』成立の頃には、「聖徳太子」という表記が用いられる要素は出そろっていた、と言えそうです。
確かに、『日本書紀』では、後世の作文ではないかと疑われている十七条憲法は聖徳太子の作と明示されているのにたいして、準同時代史料の『隋書』で確認のとれる冠位十二階や遣隋使については聖徳太子の関与が明示されていないことなど、通俗的に漠然と思い描かれてきた聖徳太子像を見直す必要はあるでしょう。しかし、だからといって、「厩戸王」が「正しい表記」で、「聖徳太子」は「後世の造語」だ、という見解は妥当ではないでしょう。
ただ、「聖徳太子」よりも「厩戸王」の方がまだしも妥当な表記だ、との見解にも一定以上の説得力があるかもしれません。通説とまでは言えないかもしれませんが、7世紀初頭のヤマト政権には後世の皇太子制のようなものはなかった、との見解が有力だと思われるからです。その意味で、太子という表記は適切とは言えないかもしれません。もっとも、これもすでに多くの人が指摘しているでしょうが、それならば、「欽明天皇」や「推古天皇」のような表記も問題視されるべきではあるでしょう(天皇号の成立については、天武朝説が有力ではあるものの、それよりも前との説も根強くあるようです)。
ただ、『隋書』によると、当時の倭国には太子が存在したことになっています。これが中華王朝の知識層の常識(皇帝や王などの君主がいるならば太子もいるだろう)による誤認なのか、当時すでに後の皇太子制に類似したものがあったのか、門外漢には判断の難しいところです。おそらく当時の王(大王)は、群臣・王族の有力者の力関係に基づく協議により、(多くの場合は)複数の有力候補者の中から選ばれたのではないか、と思います。
まとまりのない記事になってしまいましたが、元服・出家・還俗など人生の節目に新たな名を名乗ることの多かった前近代の日本の人物を、義務教育の水準において「当時の(正しい)名前」で表記することに拘るのにあまり意味があるとも思えないので、「聖徳太子」から「厩戸王」に表記を変更したり、両者を併記したりする必要はなく、「聖徳太子」のままでよいのではないか、と思います。その意味で、「北条政子」や「日野富子」もとくに表記を改める必要はない、と考えています。ついでに述べると、北条政子や日野富子を具体例に、日本における夫婦同姓は西洋の物真似にすぎず、100年ていどの歴史しかない「創られた伝統」だ、との見解にも問題が多いと思います(関連記事)。まあこんなことを言うと、「リベラル派」から嘲笑・罵倒されそうですが。
これが「リベラル派」やアンチ「ネトウヨ」派の一般的な認識かどうかは分かりませんが、「厩戸王」も不適切だということは、『聖徳太子 実像と伝説の間』(関連記事)の著者である石井公成氏がブログでも指摘しています。現時点の知見では、「厩戸王」は江戸時代後期まで見られない表記ですが、「聖徳太子」は8世紀半ば頃成立の『懐風藻』に見えます。さらに、『日本書紀』には「聖徳太子」という名称そのものはありませんが、「敏達紀(巻廿)」には「東宮聖徳」、「推古紀(巻廿二)」には「上宮太子」とあるので、『日本書紀』成立の頃には、「聖徳太子」という表記が用いられる要素は出そろっていた、と言えそうです。
確かに、『日本書紀』では、後世の作文ではないかと疑われている十七条憲法は聖徳太子の作と明示されているのにたいして、準同時代史料の『隋書』で確認のとれる冠位十二階や遣隋使については聖徳太子の関与が明示されていないことなど、通俗的に漠然と思い描かれてきた聖徳太子像を見直す必要はあるでしょう。しかし、だからといって、「厩戸王」が「正しい表記」で、「聖徳太子」は「後世の造語」だ、という見解は妥当ではないでしょう。
ただ、「聖徳太子」よりも「厩戸王」の方がまだしも妥当な表記だ、との見解にも一定以上の説得力があるかもしれません。通説とまでは言えないかもしれませんが、7世紀初頭のヤマト政権には後世の皇太子制のようなものはなかった、との見解が有力だと思われるからです。その意味で、太子という表記は適切とは言えないかもしれません。もっとも、これもすでに多くの人が指摘しているでしょうが、それならば、「欽明天皇」や「推古天皇」のような表記も問題視されるべきではあるでしょう(天皇号の成立については、天武朝説が有力ではあるものの、それよりも前との説も根強くあるようです)。
ただ、『隋書』によると、当時の倭国には太子が存在したことになっています。これが中華王朝の知識層の常識(皇帝や王などの君主がいるならば太子もいるだろう)による誤認なのか、当時すでに後の皇太子制に類似したものがあったのか、門外漢には判断の難しいところです。おそらく当時の王(大王)は、群臣・王族の有力者の力関係に基づく協議により、(多くの場合は)複数の有力候補者の中から選ばれたのではないか、と思います。
まとまりのない記事になってしまいましたが、元服・出家・還俗など人生の節目に新たな名を名乗ることの多かった前近代の日本の人物を、義務教育の水準において「当時の(正しい)名前」で表記することに拘るのにあまり意味があるとも思えないので、「聖徳太子」から「厩戸王」に表記を変更したり、両者を併記したりする必要はなく、「聖徳太子」のままでよいのではないか、と思います。その意味で、「北条政子」や「日野富子」もとくに表記を改める必要はない、と考えています。ついでに述べると、北条政子や日野富子を具体例に、日本における夫婦同姓は西洋の物真似にすぎず、100年ていどの歴史しかない「創られた伝統」だ、との見解にも問題が多いと思います(関連記事)。まあこんなことを言うと、「リベラル派」から嘲笑・罵倒されそうですが。
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