「男脳」「女脳」のウソはなぜ、どのように拡散するのか
これは2月20日分の記事として掲載しておきます。表題の記事がナショナルジオグラフィックに掲載されました。正直なところ、表題を読んだ時には、男女には本質的な違いはないとか、性別を重視すること自体が社会的に構築されたものだとか、性別自体が生物学的に否定されているとかいった言説が展開されるのではないか、とかなり警戒したのですが、以前からの私の見解にひじょうに近いところがあり、かなり同意できる内容でした。もっとも、表題の記事で男女差の事例とされた課題実験も、社会的に構築された性差の構造に起因するものにすぎない、との反論もあるかもしれません。こうした問題に関しては、今後も検証が必要なのだと思います。認知能力と遺伝子との関連が今よりもはるかに解明されれば、もっとはっきりと分かってくることなのでしょう。
現時点では、「能力」の性差に関して確実に判明していることはあまりにも少ないのかもしれませんが、『私、別に男女の脳に差がないとは全然思ってなくて、絶対あると思ってるんです』との発言には強く同意します。ただ、それは、表題の記事の指摘にあるように、『統計的にはめちゃめちゃ有意なんです。確実に男女差がある。でも、有意だというのと、大きな差があるかというのは別で、男女のヒストグラムがこれだけ重なって、男女の平均の差よりも、個人差の方が大きいよねってくらいのものです』ということでもあると思います。
『すごく大事なのは、集団Aと集団Bの間に差があると分かった時、それが統計的に「有意」であったとしても、それだけで、集団Aの構成員はこうで、集団Bの構成員はこうだ、とは決めつけられないことだ。集団間にある分布の違いを明らかにすることと、構成員の個々の特性を明らかにすることは全く違うことなのに、しばしば混同される』との指摘は、本当に重要だと思います。これは、性別に限らず、たとえば民族・地域集団間の比較でも言えることでしょう。
民族・地域集団(一般には、「人種」という用語が広く使われていますが)間で能力に差はない、とするのが現在では「政治的に正しい」こととされているように思います。しかし私は以前から、確証はきわめて困難だとしても、民族・地域集団で「能力」に有意な差のある事例が多いだろう、と考えてきました。ここで問題となるのは、「能力」の定義というか、「能力」の測定条件です。ある能力に関しても、条件(環境)が違えば、結果は変わってくるかもしれません。たとえば、温度・湿度といった気候条件や、生命の危険性の度合いといった条件などです。
このように考えれば、「能力」は無数と言ってもよいくらいの種類があり、条件(環境)により「優劣」が変わってくる場合も少なくないだろう、と考えられます。生物の諸形質に関する「優秀・劣等」という二分論的な評価は多分に環境依存的であり、その環境とは自然的なものだけではなく人為的なものも含まれますから、環境が容易に変動することを考えると、特定の環境への過剰な適応を目的にしているとも言える優生学の危険性は明らかだと思います(関連記事)。また、表題の記事の指摘と関連しますが、多くの能力は、集団間の差よりも集団内の個人差の方がはるかに大きいものになるでしょう。その意味で、「**(たとえば黒人や女性や特定の民族集団)に(高等)教育は無駄だ」というような議論があるとすれば、それは根本的に間違っていると思います。
ただ、個人単位ではなく社会的な単位での比較となると、やはり「能力差」が重要なのだ、との見解もあるかもしれません。たとえば「経済発展」などの社会的な事象に関しては、ある特定の「能力」の集団間のごく僅かな差が決定的な要因になり得ることもあるのだ、との見解も提示されるかもしれません。特定の条件(環境)では、あるいはそうした事例もあり得るのかもしれず、たとえば、それがネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)との「交替劇」の要因になった可能性は、現時点では排除できないと思います。まあ、これは現生人類内部での比較と同列に扱うわけにはいきませんが。
現時点では、「能力」の性差に関して確実に判明していることはあまりにも少ないのかもしれませんが、『私、別に男女の脳に差がないとは全然思ってなくて、絶対あると思ってるんです』との発言には強く同意します。ただ、それは、表題の記事の指摘にあるように、『統計的にはめちゃめちゃ有意なんです。確実に男女差がある。でも、有意だというのと、大きな差があるかというのは別で、男女のヒストグラムがこれだけ重なって、男女の平均の差よりも、個人差の方が大きいよねってくらいのものです』ということでもあると思います。
『すごく大事なのは、集団Aと集団Bの間に差があると分かった時、それが統計的に「有意」であったとしても、それだけで、集団Aの構成員はこうで、集団Bの構成員はこうだ、とは決めつけられないことだ。集団間にある分布の違いを明らかにすることと、構成員の個々の特性を明らかにすることは全く違うことなのに、しばしば混同される』との指摘は、本当に重要だと思います。これは、性別に限らず、たとえば民族・地域集団間の比較でも言えることでしょう。
民族・地域集団(一般には、「人種」という用語が広く使われていますが)間で能力に差はない、とするのが現在では「政治的に正しい」こととされているように思います。しかし私は以前から、確証はきわめて困難だとしても、民族・地域集団で「能力」に有意な差のある事例が多いだろう、と考えてきました。ここで問題となるのは、「能力」の定義というか、「能力」の測定条件です。ある能力に関しても、条件(環境)が違えば、結果は変わってくるかもしれません。たとえば、温度・湿度といった気候条件や、生命の危険性の度合いといった条件などです。
このように考えれば、「能力」は無数と言ってもよいくらいの種類があり、条件(環境)により「優劣」が変わってくる場合も少なくないだろう、と考えられます。生物の諸形質に関する「優秀・劣等」という二分論的な評価は多分に環境依存的であり、その環境とは自然的なものだけではなく人為的なものも含まれますから、環境が容易に変動することを考えると、特定の環境への過剰な適応を目的にしているとも言える優生学の危険性は明らかだと思います(関連記事)。また、表題の記事の指摘と関連しますが、多くの能力は、集団間の差よりも集団内の個人差の方がはるかに大きいものになるでしょう。その意味で、「**(たとえば黒人や女性や特定の民族集団)に(高等)教育は無駄だ」というような議論があるとすれば、それは根本的に間違っていると思います。
ただ、個人単位ではなく社会的な単位での比較となると、やはり「能力差」が重要なのだ、との見解もあるかもしれません。たとえば「経済発展」などの社会的な事象に関しては、ある特定の「能力」の集団間のごく僅かな差が決定的な要因になり得ることもあるのだ、との見解も提示されるかもしれません。特定の条件(環境)では、あるいはそうした事例もあり得るのかもしれず、たとえば、それがネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)との「交替劇」の要因になった可能性は、現時点では排除できないと思います。まあ、これは現生人類内部での比較と同列に扱うわけにはいきませんが。
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