松戸清裕『ソ連史』

 これは12月18日分の記事として掲載しておきます。ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2011年12月に刊行されました。ソ連史の復習になると思い読みましたが、門外漢にとっては、分量・分かりやすさともに適切で、一般向けのソ連通史としてなかなか優れていると思います。ソ連というと、民意を無視した抑圧主義的な体制だった、との印象が一般には強いかもしれませんが、本書を読むと、ソ連の支配体制は社会の隅々まで浸透していたわけではなく、案外脆弱だったのだな、と思います。また、ソ連の支配層が民意にかなり敏感だったこともよく分かり、これは、ソ連と同じく抑圧主義的な体制とされる中華人民共和国においても同様なのでしょう。

 建前と実態との乖離が大きかった体制だけに、ソ連の経済統計については、やはりどこまで信用性があるのか、という問題が残るようです。そうした限界はありますが、1930年代と1950年代後半~1960年代前半の2回、高度経済成長があったと指摘する研究があるようです。しかし、この2回の高度経済成長によっても、軍事・重工業が重視されたこともあり、生活水準が大きく向上しなかったことが、西側との競争での敗退・ソ連の崩壊につながっていったようです。

 大規模な飢餓・粛清や第二次世界大戦による甚大な被害もありましたが、社会主義体制が資本主義体制よりも優れているという確信は、ソ連の指導部と民衆の多くとの間で、1960年代までは共有されていました。この確信がブレジネフ政権下の1970年代には揺らいでいき、それが労働規律のさらなる弛緩をもたらした、という側面もあるのかもしれません。ただ、「停滞」の時代とされるブレジネフ政権下では、民意の確保のための社会福祉の充実などもあり、生活水準が向上していったことも否定できません。「停滞」の時代であるとともに、「安定」の時代でもあったようです。しかし、それが民衆の新たな欲求を生んだことも否定できず、これもソ連崩壊の一因と言えるかもしれません。

 かつて日本でも大問題となった公害は、「資本主義の病」と言われたこともあったようですが、もちろんソ連にも公害は存在し、かなり深刻でした。公害の重要性はソ連指導層にも認識されており、1940年代から対策がとられていたのですが、遵守されずに深刻化したようです。その一因として無理な生産計画があり、技術革新が進まなかったこともあったようです。技術革新が進まなかったことはソ連が西側に経済的に敗北する要因となったのですが、その理由としては、抑圧的な社会主義体制で社会・経済が非効率的だったことと、天然資源大国だったことが考えられます。天然資源小国の日本で技術革新が進んだことと対照的と言えるかもしれません。天然資源頼みで技術革新が進んでいないという問題は、現在のロシアでも未解決のようです。

 ソ連の支配体制は意外と脆弱だった、と上述しましたが、それは治安面によく現れていたようです。民衆の「体感治安」は1950年代後半~1960年代半ばに悪化していき、まだ社会主義の輝かしい未来を多くの指導層・民衆が確信しているなかで、深刻な社会問題となりました。ソ連の抑圧的な体制は、民衆からの要請に応えた、という側面もあるようです。こうした治安状況は、ソ連が広範な支配領域を抱えていたためでもあるのでしょう。

 本書を読むと、ソ連が非効率な体制だったことが強く印象に残りますが、建前・宣伝と実態との乖離が大きかったとはいえ、社会主義やソ連の体制が、ある時期まで西側の少なからぬ人々を惹きつけたことも間違いないでしょう。本書は、ソ連が西側にとっての「対抗文明」的役割を果たしたために、西側も福祉政策などを充実させていったことと、ソ連崩壊後に資本主義が大きな壁にぶつかったように見えることを指摘しています。ただ、だからといって、「対抗文明」が出現することがよいことなのか、ソ連史を研究すると疑問・不安も残る、とも述べられています。

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