美川圭『日本史リブレット人021 後三条天皇 中世の基礎を築いた君主』

 これは11月27日分の記事として掲載しておきます。山川出版社から2016年9月に刊行されました。本書は、後三条天皇(尊仁親王)の出自についてやや詳しく解説しています。一般には、後三条天皇は宇多天皇以来久しぶりに藤原氏を外戚としない天皇でとされています。しかし、後三条天皇の母である禎子内親王(陽明門院)の母方祖父は藤原道長ですし、後三条天皇の父である後朱雀天皇の母方祖父も藤原道長です。そのため、摂関家はいぜんとして後三条天皇の外戚だった、との見解も提示されているようです。

 しかし本書は、醍醐天皇から後冷泉天皇までの約170年間、歴代の天皇の母が藤原氏(摂関の家系)だったなか、後三条天皇の母が皇女だったことは大きな変化であり、藤原頼通が後三条天皇の即位を執拗に阻止しようとしたこともその傍証になるとして、外戚とは母方祖父もしくはそれに準ずる母方オジまでに限定される、という通説が妥当だ、と指摘しています。また、三条天皇の娘である禎子内親王は、男子を望んでいた藤原道長にとって好ましくない存在であり、そのことを禎子内親王も早くから認識していただろう、ということも指摘されています。

 藤原頼通の妨害を受けながらも尊仁親王が即位できた理由として、道長の息子たちの間の対立が指摘されています。道長の息子たちでは、源倫子を母とする者と、源明子を母とする者がいますが、摂関に就任できた前者の頼通や教通と比較して、後者の頼宗・能信たちは冷遇されています(とはいえ、貴族社会においては高位にあるわけですが)。頼宗・能信たちが尊仁親王を強く支持したことで、尊仁親王は即位することができました。藤原氏恒例の兄弟争いが後三条天皇を生んだ、というわけです。しかし本書は、後三条天皇がもはや外戚となる可能性の低い教通を引き続き関白として、外戚となる可能性のある能長(頼宗の子で能信の養子)を関白としなかったことから、後三条天皇が摂関家との距離を置こうとしていた、と指摘しています。

 後三条天皇の治世で有名な荘園整理令と記録荘園券契所の設置(あくまで臨時的組織ですが)については、荘園存廃の最終的判断を下すのは天皇となり、天皇(王家)の求心力を高めるとともに、荘園制が公認され、中世社会の基盤になっていった、とその重要性が指摘されています。天皇の求心力が高まったことについては、天皇(王家)への所領集積の道を切り開いたことと、土地をめぐる裁判の増加にともない、裁判機構が充実していき、最終判断者たる天皇の権力が強化されていったことも指摘されています。天皇権力の強化は、荘園整理令・焼失した内裏の再興・全国共通の枡の制定・荘園と公領を問わず課される一国平均役などと関連しており、摂関家との距離を置こうとしたことと併せて、後三条天皇の諸政策が整合的なものだったことを窺わせます。

 後三条天皇の治世も含む前後の時代の東北地方の動向についても言及されており、河内源氏が大和源氏に東北地方での軍事貴族の座を脅かされそうになったものの、それを阻止することができ、やがて大和源氏の地位が大きく低下していったことが指摘されています。また、後三条天皇の御願寺についての解説から、摂関家の外戚政策が皇統の分裂を招くものであったので、摂関家を抑制した後三条天皇により、対立していた「冷泉皇統」と「円融皇統」を合流させたのだ、とする見解も提示されており、興味深いと思います。

 後三条天皇が院政開始の意図を持っていたのか、近代以降に議論されましたが、これには皇国史観も関わっていたようです(摂関政治や院政や武家政治を望ましくない変則的な政治制度とし、天皇親政を理想とします)。現在では、後三条天皇の早い(と思われる)息子の白河天皇への譲位は、白河天皇の弟である実仁親王の即位を早めることにあり、後三条天皇に院政開始の意図はなかった、との見解が通説となっているそうです。しかし本書は、院政において皇位継承権の掌握が重要であり、白河天皇も、譲位後にずっと実権を掌握できていたわけではない(関白の藤原師通と息子である堀河天皇により専権が阻止されました)として、白河天皇が譲位した1086年を白河院政成立、堀河天皇が崩御した1107年を白河院政確立とすると、譲位後の後三条上皇の時代も院政と言わねばならないだろう、とも指摘しています。

 本書は上述したような事績から、後三条天皇を、摂関政治の幕を引き、中世の基礎を築いた君主と位置づけています。後三条天皇以降、摂関が外戚となることは稀で、一時的に政治を主導することがあっても、それが長続きすることはほぼなくなりました。後三条天皇の荘園政策は王家への荘園集積をもたらし、王家の家長の政治力・経済力を飛躍的に向上させ、院政の前提条件となりました。後三条天皇の治世が画期的だったとの認識は前近代において珍しくなかったようで、もちろん、近現代の歴史学と視点が完全に一致するわけではないでしょうが、後三条天皇が歴史の転換において重要な役割を果たしたことは間違いないのでしょう。

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