呉座勇一『応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱』

 これは11月23日分の記事として掲載しておきます。中公新書の一冊として、中央公論新社から2016年10月に刊行されました。本書の特徴としてまず挙げられるのが、応仁の乱そのものだけではなく、その前史と応仁の乱後の情勢の解説にもかなりの分量が割かれていることです。応仁の乱の前提条件と応仁の乱の影響が解説され、戦国時代への展望が提示されており、射程が長いと言えるでしょう。大和国からの視点となっていることも本書の特徴です。本書は、興福寺の僧である経覚と尋尊の日記を用いて、同時代の人々の思惑・反応を復元していきます。

 階級闘争・革命史観への批判的視点も本書の特徴です。その観点から本書は、新たな情勢を嘆くだけの懐古的で無力な旧勢力の一人として扱われがちだった尋尊を再評価し、現実的で精力的だったところも多分にある、と指摘しています。本書のもう一つの特徴は、応仁の乱と第一次世界大戦とに共通点を見出していることです。主要人物は短期決戦を想定していたにも関わらず、防御施設の発達など戦法の変化により長期化したことと、戦乱が長期化したことが社会・政治体制を変容させていった、ということが共通点として指摘されています。

 戦乱が長期化した要因として、細川勝元と山名宗全が相手より優位に立つために諸大名を引き込もうとしたことも指摘されています。勝元と宗全の間には姻戚関係があったように、不俱戴天の仇というわけではなく、応仁の乱直前の文正の政変までは、ともかく協調関係を維持できていました。応仁の乱勃発後も、おそらく当事者の誰にとっても予想外の長期戦となったことから、負担が大きくなり、勝元と宗全の間で和睦交渉が行なわれました。しかし、それがなかなか成立しなかったのは、東西両軍に多くの有力者たちが参加したため、誰もが納得のいく条件が成立しなかったからでした。けっきょく、勝元と宗全が相次いで病没し、細川と山名の単独和睦が成立した後も、戦乱がだらだらと続きました。

 本書は、応仁の乱が大きな影響を及ぼした、と指摘しています。各国の守護の統治が、室町幕府将軍の権威ではなく、自らの実力により保証されるような時代に移行し、守護大名や守護代たちが在京して成立していた幕府体制は崩壊していき(最終的には明応の政変でほぼ完全に崩壊)、守護大名は在国して実力で領地を維持していかねばならなくなりました。これは、守護大名にとって、在地の武力の動員が必要になったことで、在京して守護代などの代官に在地を支配させ、京都で在地からの収入を消費する体制が維持できなくなったことを反映しており、大名が在地と向き合い、統治を深化させる契機となりました。これらは戦国大名が進めたことであり、応仁の乱は戦国時代の幕開けになった、というわけです。本書を読むと、戦国大名の先駆的存在としての畠山義就が強く印象に残ります。また、応仁の乱以前、京都において文化の庇護者だった有力武士たちが領国に帰還したことで、文化が地方に伝播していったことも指摘されています。

 応仁の乱は、めまぐるしい離合集散の末に何ともすっきりとしない結末を迎え、本書も指摘するように、明確な勝者のいない戦いとなりました。この時代が現代日本社会において不人気なのも、ある程度仕方ないのかな、とも思います。この時代を扱った司馬遼太郎氏の作品に『妖怪』がありますが、率直に言って、私が読んだ司馬作品の中編・長編では最も面白くありませんでした。もちろん、この時代を扱った面白い小説もあり得るとは思いますが、司馬遼太郎氏でさえ失敗したと言えるわけで、この時代が戦国時代に匹敵するような人気を有することは今後もないのでしょう。一般向け書籍とはいえ、小説ではなく学術的な本書が、どれだけこの時代の人気を高められるのかというと、厳しいものがありそうですが、この時代に多少なりとも関心のある人にとっては、射程の長さと文化面の解説もある視野の広さにより、たいへん興味深い一冊になっているのではないか、と思います。

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