古川隆久『昭和天皇 「理性の君主」の孤独』第5版第2刷
これは11月18日分の記事として掲載しておきます。中公新書の一冊として、中央公論新社から2012年2月に刊行されました。初版の刊行は2011年4月です。本書は新書としてはかなりの大部となり、即位前と第二次世界大戦の敗戦後にも1章ずつ割きつつ、5章構成で昭和天皇の生涯を叙述します。副題にもあるように、本書は昭和天皇を孤独な理性の君主として描きます。儒教的徳治主義と生物学や大正デモクラシーの思潮といった西欧的普遍主義的傾向の諸思想を基盤として、政党政治と協調外交を国是とする民主的な立憲君主国を理想としつつも、大日本帝国憲法の近代国家の憲法としての欠陥と1930年代以降の民意との乖離により挫折した、というのが本書の昭和天皇についての評価です。
本書を読むと、協調外交を国是とした昭和天皇にとって対英米戦が不本意だったことが了解されますが、一方で本書は、昭和天皇の選択が軍部の拡大・過激化と戦争を避けるうえで、最善とは言えなかったことも指摘しています。もちろん本書は、政治指導者が最善の選択を続けることの不可能を踏まえたうえで、政治上の対立が最終的に天皇の決断によらなければ収拾できない仕組みとなっていた大日本帝国憲法体制に、近代日本の凄惨な挫折の要因を見出しています。前近代の国家と比較して、指導者の業務が飛躍的に多くなり、問題も解決方法も複雑になった近代国家においては、君主は象徴的存在にとどまり、実質的な指導者は公正な選挙により常にその能力を監視され、必要に応じて交代すべきである、というわけです。
吉田裕『昭和天皇の終戦史』(関連記事)との対比という観点からも本書を読んでみました。『昭和天皇の終戦史』と比較すると、全体的に本書の方が昭和天皇に同情的だと思います。『昭和天皇の終戦史』では、昭和天皇も含めて敗戦前後の日本の支配層の多くが国体護持を至上命題としていた、とされています。本書を読むと、昭和天皇にとってこの場合の国体とは、狭義の国体というよりは広義の国体で、具体的には皇統維持のことだと言えそうです。
また、『昭和天皇の終戦史』を読むと、敗戦前後の昭和天皇は国体護持(皇統維持)を至上命題とし、国民の生命を軽視しているというか、そもそもあまり意識していなかったのではないかとさえ思えるのですが、本書を読むと、この時期の昭和天皇が国民の安否・動向を気遣っていたことが窺えます。もちろんそれは、皇統維持のためでもあるのでしょうが。
もう一つ挙げると、『昭和天皇の終戦史』を読むと、昭和天皇の戦争責任感には中国がほとんど入っておらず、昭和天皇は中国への侵略をほとんど問題視していないかのような印象を受けたのですが、本書では、昭和天皇の協調外交の対象には中国も含まれており、日本の帝国主義路線・既得権維持方針という限界はあったものの、そのなかで中国との協調外交にも積極的だったことが了解されます。
本書を読むと、協調外交を国是とした昭和天皇にとって対英米戦が不本意だったことが了解されますが、一方で本書は、昭和天皇の選択が軍部の拡大・過激化と戦争を避けるうえで、最善とは言えなかったことも指摘しています。もちろん本書は、政治指導者が最善の選択を続けることの不可能を踏まえたうえで、政治上の対立が最終的に天皇の決断によらなければ収拾できない仕組みとなっていた大日本帝国憲法体制に、近代日本の凄惨な挫折の要因を見出しています。前近代の国家と比較して、指導者の業務が飛躍的に多くなり、問題も解決方法も複雑になった近代国家においては、君主は象徴的存在にとどまり、実質的な指導者は公正な選挙により常にその能力を監視され、必要に応じて交代すべきである、というわけです。
吉田裕『昭和天皇の終戦史』(関連記事)との対比という観点からも本書を読んでみました。『昭和天皇の終戦史』と比較すると、全体的に本書の方が昭和天皇に同情的だと思います。『昭和天皇の終戦史』では、昭和天皇も含めて敗戦前後の日本の支配層の多くが国体護持を至上命題としていた、とされています。本書を読むと、昭和天皇にとってこの場合の国体とは、狭義の国体というよりは広義の国体で、具体的には皇統維持のことだと言えそうです。
また、『昭和天皇の終戦史』を読むと、敗戦前後の昭和天皇は国体護持(皇統維持)を至上命題とし、国民の生命を軽視しているというか、そもそもあまり意識していなかったのではないかとさえ思えるのですが、本書を読むと、この時期の昭和天皇が国民の安否・動向を気遣っていたことが窺えます。もちろんそれは、皇統維持のためでもあるのでしょうが。
もう一つ挙げると、『昭和天皇の終戦史』を読むと、昭和天皇の戦争責任感には中国がほとんど入っておらず、昭和天皇は中国への侵略をほとんど問題視していないかのような印象を受けたのですが、本書では、昭和天皇の協調外交の対象には中国も含まれており、日本の帝国主義路線・既得権維持方針という限界はあったものの、そのなかで中国との協調外交にも積極的だったことが了解されます。
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