自然信仰

 これは10月9日分の記事として掲載しておきます。現代日本社会において根強く定着している信仰の一つに、自然信仰があると思います。これは、天然信仰とも言い換えられるでしょうし、生得的なものは尊重されねばならない、といった観念とも大いに通ずるところがある、と言えるでしょう。身近な事例では、食品をはじめとして生物由来の商品について、天然ものだから安心だとか美味いだとかいった評価はたいへん根強いものがあると思います。私の見識不足により、他の社会については自信をもって発言することはできませんが、おそらく、そうした傾向は現代の他の多くの地域でも見られることではないか、と思います。こうした自然信仰は、もちろん前近代における世界観も前提としつつ、近代以降に大きく展開したのでしょうが、この問題について述べるにはあまりにも勉強不足なので、今回は取り上げません。

 自然信仰の一形態とも言える、生得的なものは尊重されねばならない、といった観念は、さまざまな議論で重要な役割を担っているように思います。たとえば、性的少数者について、生得的なのだから認めねばならない、といった論理は珍しくないように見えます。もちろん、そのような論理を用いない人も多いでしょうし、むしろその方が多数派かもしれませんが、無視し得ない割合で、生得的だということを根拠にする人もいるのではないか、と思います。しかし、これは自然主義的誤謬であり、危険な論理でもあります。たとえば、同性愛は自然の法則(節理)に反する、というような低水準な同性愛否定論への批判として、同性愛は生得的なものであり、人間以外の動物でも珍しくない、と指摘するのは確かに一定以上有効かもしれません。しかし、生得的であることを尊重の理由とするならば、たとえば、おそらくはかなりの割合で生得的であろう快楽殺人についても尊重するのか、といった問題が生じます。性的少数者のうちどれだけの割合が生得的と言えるのか、私の見識ではまったく分かりませんが、たとえそうだとしても、生得的だということを性的少数者尊重の理由とするのは、悪手だと思います。

 生得的なものは尊重されねばならない、といった観念と関連してくる別の問題として、戦争の起源をめぐる議論があるように思います。戦争の起源をめぐる議論について通俗的には、生得的なのか否かといった枠組みで認識されているように思います。戦争は人間の本能なのか否か、というわけです。しかし、「本能派」について言えば、戦争は農耕開始もしくは国家の成立以降に始まった、という見解を好むように思われる「リベラル」派(の一部?)が想定するような、「戦争は人間の本能である」といった単純化をしているわけではないでしょうし、そもそも「本能」といった曖昧な用語で説明されているわけではないとも思います。人間も含めて多くの動物は、状況次第で容易に暴力を発動するような認知メカニズムを進化の過程で獲得してきた、ということなのでしょう。私も以前は、「リベラル」派(の一部?)が想定しているであろうように、戦争は農耕開始以降に始まった、と考えていたのですが、近年では、更新世の狩猟採集民社会において、集団内でも集団間でも争いが高頻度で起きていたのではないか、と見解が変わりました。しかし、「戦争は人間の本能ではない」との見解には根強いものがあるように思います。これは、戦争が人間の生得的要因だとすると、戦争を認めねばならないので、否定しなければならない、という論理が大きく影響しているからなのでしょう(もちろん、そのような論理を採用しない「後天派」も少なくないでしょうが)。戦争の起源をめぐる問題でも、食品の評価と同様に、自然信仰が認識を歪めているように思います。

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