神田千里『戦国と宗教』
これは10月30日分の記事として掲載しておきます。岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2016年9月に刊行されました。本書では、戦国時代における宗教の大きな役割が強調されています。戦国大名間の合戦においても宗教は重要な役割を担っており、「信仰心が薄れて合理的になった」現代日本社会との違いは大きいように見えます。しかし本書は、戦国時代の人々も信仰を絶対視していたわけではなく、現代日本社会とも通ずるような「合理性」が見られたことを指摘しています。さらに本書は、「信仰心が薄れて合理的になった」ように見える現代日本社会でも、絵馬や地鎮祭のような慣行は続いており、信仰の点で戦国時代とかけ離れているわけではないだろう、との見解を提示しています。
戦国時代の宗教というか信仰の特徴として本書が挙げるのが、信仰は個人の内面のものであって強制されてはならず、自分の宗派以外を攻撃することは禁止されており、諸宗共存が原則とされていた、ということです。こうした信仰の在り様の背景として天道思想という共通の基盤があり、諸宗派は本質的に同じ信仰である、という観念があったようです。また、天道は内面の倫理を重視しており、天道の摂理を人間は完全には理解できないという観念があったことからも、信仰の強制が忌避されていたようです。
このような天道思想を共通基盤とする戦国時代の日本社会の信仰の在り様はキリスト教と似たところがあり、日本社会ではキリスト教は新たな仏教の一派として把握され、ヨーロッパから来日した宣教師の側でも、キリスト教と日本仏教の類似性が強く意識されていたようです。しかし、キリスト教の宣教師の側の煽動によって日本の寺社が破壊されることもあり、こうした諸宗共存を否定する点が、後に徳川政権により弾圧される根本的な要因になったようです。
諸宗共存の否定にたいする日本社会の反発は根強かったようで、キリシタン大名として有名な大友宗麟も、家臣団の反発を恐れていたこともあり、洗礼を受けたのは、他の在来宗教に期待されていた役割と同じく、現世での利益(妻の病からの回復)を「実感」した晩年になってからでした。また、大友宗麟の「暴走・狂気」として語られることもある「キリスト教王国」の建設に関しても、じゅうらいからの領国である豊後に関しては断念し、新たな領国と構想していた日向に限定していたようです。もっとも、大友宗麟のこの計画は耳川の戦いで敗北したことにより挫折し、大友領国内でのキリスト教の権威は低下したようです。
一向一揆に関しても、諸宗共存の原則の例外ではなかったことが指摘されています。一向一揆と織田信長との戦いは和平期間を挟んで10年にも及びましたが、真宗本願寺教団と信長との間に本質的な対立があったわけではなく、当時の政治情勢が対立の要因だった、と本書では解説されています。信長の側に真宗本願寺教団の信仰を禁止したり本願寺教団を壊滅させたりするような意図はなく、講和により大坂が織田方に明け渡された後は、信長と本願寺教団との間で友好関係が築かれた、と指摘されています。
また本書では、天道思想に基づく諸宗共存の原則は、戦国時代というか、中世~近世の日本社会に特有の「寛容さ」というわけではなく、激しい宗教抗争の見られたヨーロッパの宗教改革期の後半にも同様の思想と共存の実践が見られた、とも指摘されています。排他的な一神教世界と寛容な多神教世界の日本という、現代日本社会で広範かつ根強く定着しているように思われる通俗的見解には、かなり疑問が残ります。
著者の他の著書を複数読んできたこともあり、本書の見解には違和感はありませんでした。これまでこのブログで取り上げてきた著者の他の著書は以下の通りです。
『宗教で読む戦国時代』
https://sicambre.seesaa.net/article/201003article_30.html
『戦争の日本史14 一向一揆と石山合戦』
https://sicambre.seesaa.net/article/201407article_2.html
『織田信長』
https://sicambre.seesaa.net/article/201410article_17.html
戦国時代の宗教というか信仰の特徴として本書が挙げるのが、信仰は個人の内面のものであって強制されてはならず、自分の宗派以外を攻撃することは禁止されており、諸宗共存が原則とされていた、ということです。こうした信仰の在り様の背景として天道思想という共通の基盤があり、諸宗派は本質的に同じ信仰である、という観念があったようです。また、天道は内面の倫理を重視しており、天道の摂理を人間は完全には理解できないという観念があったことからも、信仰の強制が忌避されていたようです。
このような天道思想を共通基盤とする戦国時代の日本社会の信仰の在り様はキリスト教と似たところがあり、日本社会ではキリスト教は新たな仏教の一派として把握され、ヨーロッパから来日した宣教師の側でも、キリスト教と日本仏教の類似性が強く意識されていたようです。しかし、キリスト教の宣教師の側の煽動によって日本の寺社が破壊されることもあり、こうした諸宗共存を否定する点が、後に徳川政権により弾圧される根本的な要因になったようです。
諸宗共存の否定にたいする日本社会の反発は根強かったようで、キリシタン大名として有名な大友宗麟も、家臣団の反発を恐れていたこともあり、洗礼を受けたのは、他の在来宗教に期待されていた役割と同じく、現世での利益(妻の病からの回復)を「実感」した晩年になってからでした。また、大友宗麟の「暴走・狂気」として語られることもある「キリスト教王国」の建設に関しても、じゅうらいからの領国である豊後に関しては断念し、新たな領国と構想していた日向に限定していたようです。もっとも、大友宗麟のこの計画は耳川の戦いで敗北したことにより挫折し、大友領国内でのキリスト教の権威は低下したようです。
一向一揆に関しても、諸宗共存の原則の例外ではなかったことが指摘されています。一向一揆と織田信長との戦いは和平期間を挟んで10年にも及びましたが、真宗本願寺教団と信長との間に本質的な対立があったわけではなく、当時の政治情勢が対立の要因だった、と本書では解説されています。信長の側に真宗本願寺教団の信仰を禁止したり本願寺教団を壊滅させたりするような意図はなく、講和により大坂が織田方に明け渡された後は、信長と本願寺教団との間で友好関係が築かれた、と指摘されています。
また本書では、天道思想に基づく諸宗共存の原則は、戦国時代というか、中世~近世の日本社会に特有の「寛容さ」というわけではなく、激しい宗教抗争の見られたヨーロッパの宗教改革期の後半にも同様の思想と共存の実践が見られた、とも指摘されています。排他的な一神教世界と寛容な多神教世界の日本という、現代日本社会で広範かつ根強く定着しているように思われる通俗的見解には、かなり疑問が残ります。
著者の他の著書を複数読んできたこともあり、本書の見解には違和感はありませんでした。これまでこのブログで取り上げてきた著者の他の著書は以下の通りです。
『宗教で読む戦国時代』
https://sicambre.seesaa.net/article/201003article_30.html
『戦争の日本史14 一向一揆と石山合戦』
https://sicambre.seesaa.net/article/201407article_2.html
『織田信長』
https://sicambre.seesaa.net/article/201410article_17.html
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