森公章『人物叢書(新装版) 天智天皇』

 人物叢書の一冊として、吉川弘文館より2016年9月に刊行されました。巻末で認められているように、天智天皇(中大兄皇子)の人物像を探る手がかりは乏しいので、7世紀政治史のなかで天智天皇を位置づける、という構成になっています。これは仕方のないところでしょうし、「国内」の支配構造や「国際関係」も含めて7世紀政治史が詳しく解説されているので、もちろん、天智天皇の事績と後世(おもに奈良時代)の天智天皇にたいする評価(律令国家創始者としての顕彰は、天智天皇の娘である持統天皇・元明天皇によるところが大きかった、と指摘されています)を知るうえで有益なのですが、飛鳥時代の概説としても優れていると思います。

 「過激な」見解は提示されておらず、全体的に穏当な解説になっていると思いますが、通説というか、一般層に浸透しているだろう歴史観とは異なる見解も提示されています。たとえば、乙巳の変後の政治的主導権を把握した人物は中大兄皇子と中臣(藤原)鎌足だとするのが一般的でしょうが、本書は近年の研究動向も踏まえて、孝徳天皇の主体性を認め、中大兄皇子はむしろ、儒教志向の孝徳天皇による「急進的な改革」にたいする「抵抗勢力」だった可能性を提示しています。

 中大兄皇子が、母親である斉明天皇の死後、7年(もしくは6年)近く即位しなかったことは、本書でも異例だと指摘されています。その理由についてはさまざまな見解が提示されており、本書もそうした諸見解を検証しています。そのうえで、本書の提示した新鮮な見解は、中大兄皇子の同父同母妹である間人皇女が斉明天皇の死後天皇(大王)位を代行するような役割を果たし、斉明朝に続き、女帝-有力王族(中大兄皇子)による安定的な権力構造が必要とされたためではないか、というものです。

 中大兄皇子の即位が遅れた(称制・空位期間が長い)理由として、倭姫王が成長して中大兄皇子との結婚が可能となるまで、大后(皇后)に相応しい人物がいなかったからではないか、と指摘されていることも新鮮な見解と言えるでしょう。本書が指摘するように、倭姫王は天智天皇の殯宮儀礼でも中心的役割を果たしたと考えられ、その前には大海人皇子(天武天皇)が病床の天智天皇に倭姫王の即位を勧めています。しかし、本書が指摘するように、天智天皇の殯宮儀礼後の倭姫王の動向は不明で、父(古人大兄皇子)の仇とも言える天智天皇への情愛の感じられる歌が伝わっていることも含めて、倭姫王には謎が多く、興味深い人物だと思います。

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