筒井清忠編『昭和史講義2─専門研究者が見る戦争への道』
これは9月4日分の記事として掲載しておきます。ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2016年7月に刊行されました。筒井清忠編『昭和史講義─最新研究で見る戦争への道』(関連記事)の続編となります。『昭和史講義─最新研究で見る戦争への道』は好評だったとのことで、続編が刊行されたのは喜ばしいことです。本書もたいへん有益だったので、好評を博すことでしょう。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。
●高杉洋平「軍縮と軍人の社会的地位」P13~28
第一次世界大戦後の世界的な軍縮の風潮と、「大正デモクラシー」期の軍人蔑視の風潮とが、軍部における被害者意識を醸成し、昭和になってからの軍部の「急進化」へとつながったことが指摘されています。「大正デモクラシー」期の軍人蔑視の風潮については一応知っていましたが、本論考を読んでより詳しく知ることができました。本論考は、こうした軍人蔑視の風潮が劇的に変わったのが満州事変だと指摘しており、国民の多くにとって、恐慌下の行き詰った雰囲気を一掃する「壮挙」だったということでしょうか。
●中澤俊輔「治安維持法」P29~44
1925年の治安維持法成立の背景にロシア革命などの世界情勢の変化があることと、制定にさいして欧米諸国の社会主義対策が参考にされたことが指摘されています。治安維持法成立の直接的契機として、ソ連との国交樹立が大きく影響していたようです。治安維持法が猛威を振るった理由として、1928年に目的遂行罪を新設して改正されたことにより、拡大適用を可能としたことが挙げられています。治安維持法は1941年にはさらに大幅に改正されましたが、太平洋戦争が始まって以降は、人々の生活水準が下がり、社会の平等化が進んだこともあり、検挙者数は減少しました。
●等松春夫「中ソ戦争と日本」P45~62
1929年7月~12月にかけての中ソ戦争の背景と日本への影響について解説されています。中ソ戦争は奉ソ戦争とも呼ばれており、当時の中国の中央政府と地方政権という二重構造を反映しています。ソ連とじっさいに戦ったのは、満州を実質的に支配していた奉天政権でした。中ソ戦争は、満州北部における中東鉄道の権益回収を企図した奉天政権のソ連への攻撃により始まりましたが、兵数では奉天政権よりも劣勢ながらも、装備で圧倒するソ連軍が完勝し、ソ連の要求がほぼ受け入れられる形で終結しました。この中ソ戦争により日本が得た教訓は、第一に、中央政府と地方政権という中国の二重構造が確固としており、南京国民政府の介入はないだろうから、奉天政権との戦争は全面的な日中戦争とはならない、ということです。第二は、兵数では劣勢でも、装備・訓練・作戦で圧倒していれば、奉天政権を短期間で撃破できる、ということです。第三は、ソ連の拡張的性格と優秀な軍備です。こうした教訓が、後に満州事変をもたらした、と言えそうです。
●小島庸平「世界恐慌下の日本」P63~78
世界恐慌は日本にも大きな影響を及ぼし、その中での金輸出解禁と緊縮財政により、日本経済の悪化は深刻なものとなりました。しかし、この過程で産業の「合理化」が進展したことも期待されています。この緊縮財政の後に蔵相に就任した高橋是清の一連の対策により、日本は当時の主要国でもいち早く恐慌から脱しました。世界恐慌は日本資本主義の構造的脆弱性ではなく、「強靭性」を示したのだ、と指摘されています。しかし、工業部門の回復は早かったものの、農業部門の回復は遅れ、また賃金の低下傾向にもなかなか歯止めがかかりませんでした。当時、主要国でも一次産業の割合が高かった日本では、それは深刻な問題でした。ただ、そうした農村の荒廃が戦争支持や「ファシズム」に直結したのではない、とも指摘されています。
●長谷川雄一「血盟団事件と五・一五事件」P79~98
血盟団事件と五・一五事件の背景について検証されています。どちらも昭和初期の恐慌を背景とした起きた事件でしたが、その前提として第一次世界大戦後に日本社会で盛んとなった国家改造・革新運動がありました。これは国内外の平等主義的革新を目指した運動で、恐慌と格差の拡大のなか、五・一五事件の首謀者たちに広範な同情が寄せられる要因となり、また二・二六事件へとつながっていきました。もっとも、平等主義的革新とはいっても、天皇の存在は大前提で(共産主義者はさてとおくとして)、天皇と国民の間の政党・財閥・官僚が排撃の対象とされました。
●小山俊樹「満州事変後の政局と政党政治の終焉」P99~114
五・一五事件で犬養首相が殺害され、戦前の政党政治は終焉します。犬養内閣で戦前の政党政治が終焉した理由を、満州事変後の政治状況の推移をやや詳しく見ていくことで、本論考は検証しています。満州事変後、軍部を抑えるという目的からも、二大政党による連立が協議されました。しかし結局、ポスト・政策などをめぐる対立から、二大政党ともに迷走し、連立は実現せず、単独内閣が続きます。こうした状況から昭和天皇やその側近が政党政治に失望したことが、五・一五事件での政党政治の中断につながり、けっきょく戦後になるまで政党政治は復活しませんでした。
●菅谷幸浩「帝人事件から国体明徴声明まで」P115~130
五・一五事件の後に成立した斎藤内閣と、その後に成立し、二・二六事件で退陣することになった岡田内閣について検証されています。この二つの内閣は「中間内閣」と呼ばれており、政党政治の中断後に成立しましたが、この時点ではまだ政党政治への復帰が模索されており、現実的な政治目標だったことが指摘されています。岡田内閣での天皇機関説事件とそれを受けての二度の国体明徴声明にしても、憲政に大きな転換の生じた「合法無血のクーデタ」ではなく、既存の法解釈への影響は最小限度にとどまった、と指摘されています。
●牧野邦昭「厚生省設置と人口政策」P131~146
厚生省の設置にさいしては複数の勢力からの要求があり、単一の目的に帰することはできない、と指摘されています。陸軍は、総力戦の時代における兵士の質の維持・向上のために、国民の健康状態に強い関心を寄せていました。一方、内務省は、以前より社会問題に取り組む中央行政機関の創設を目指しており、社会問題に強い関心を抱いていた近衛首相は内務省とともに、陸軍の要求を利用する形で厚生省を設置しました。厚生省設置当初は、国民の「質(健康状態)」の方が重視されていましたが、工業化・都市化の進展にともない、農村人口の縮小・出生率の低下傾向が明らかになると、国民の「量(人口数)」の方にも重要な関心が向けられるようになります。
●戸部良一「日中戦争における和平工作─日本側から見た」P147~164
日中戦争では絶えず和平工作が試みられました。その特徴として、外交官だけではなくジャーナリストなどの民間人や軍人が関わったことと、複数の工作が同時に行なわれていたことが指摘されています。これは、和平工作と同時に謀略工作が行なわれていたことと併せて、中国側の不信感を高めました。このように絶えず和平工作が続けられた理由として、利害の共通性(日本と蒋介石との間で共有されていると考えられていた、反共・反ソ)・運命共同体意識(欧米列強の圧力に抵抗する東アジア)・長年の人的交流が挙げられています。一方、そうした和平工作が失敗に終わった理由として、戦争に伴う犠牲の増大と、ほとんどの戦闘で日本が勝利していたことにより、日本国内の世論を納得させられるような和平条件が、中国側にとって呑めないような厳しいものになっていったことが挙げられています。
●岩谷將「日中戦争における和平工作─中国側から見た」P165~182
日中戦争における和平工作が中国側の視点から解説されています。この和平工作の特徴として、基本的な主導権を日本側が握っていたことが指摘されています。和平工作における両国の基本姿勢の違いとして、中国側は盧溝橋事件以前の状況への回復と満州は暫時不問に付すことを基本的な条件とし、状況に応じて関与の度合いを変えたのにたいして、日本側は状況に応じて条件を変えたことが指摘されています。それとともに、複数の交渉者がいたことが、日中戦争における和平工作失敗の要因となったことが指摘されています。
●渡邉公太「天津租界事件から日米通商航海条約廃棄通告へ」P183~198
二度にわたる天津租界封鎖事件の背景として、日中戦争後、中国における日本占領地域の拡大にともない、列強、とくにイギリスの権益が脅かされ、日本とイギリスとの経済的利害の対立が強まったことと、列強の租界が抗日テロの根拠地となっていたことが挙げられます。天津租界封鎖事件後、日本とイギリスとの交渉は、東アジアでの影響力を低下させていたイギリスに不利に進みました。アメリカ合衆国はこの状況に衝撃を受け、また日本の中国での行動に批判的な国内世論の突き上げもあり、日米通商航海条約の廃棄を日本に通告します。アメリカ合衆国における対日世論硬化の要因として、天津租界封鎖事件の前のいわゆる東亜新秩序声明があり、これにより日本は英米との協調路線を放棄したとみなされた、と指摘されています。
●筒井清忠「天皇指名制陸相の登場」P199~218
独ソ不可侵条約により平沼内閣が退陣した後の陸相人事について解説されています。陸軍の三長官会議で後任に推された多田駿は、昭和天皇の強い反対により陸相に就任できず、昭和天皇の意向が強く反映されて畑俊六が陸相に就任します。このように陸相人事で昭和天皇の意向が強く反映された理由として、陸軍内の派閥対立が激しく、一枚岩ではなったことが指摘されています。また、畑陸相の就任にさいしては、新聞報道の役割が大きかったようです。さらに、昭和天皇が多田駿を嫌ったのは石原莞爾派だったからなのですが、当時の石原も多田も昭和天皇と同じく日中戦争不拡大派だった、という歴史の皮肉が指摘されています。
●森山優「南部仏印進駐と関東軍特種演習」P219~234
太平洋戦争へとつながる重要な分岐点となった南部仏印進駐の背景と決定過程について解説されています。当時の日本の政策決定には、陸軍・海軍・有力政治家など主要な諸勢力が関与し、複数の意思が併記されることが珍しくありませんでした。また、陸軍・海軍ともに内部で意見が分かれており、重要な政策決定にさいしても一枚岩ではありませんでした。南部仏印進駐は米・英・蘭による対日全面禁輸の契機となりましたが、アメリカ合衆国の対日全面禁輸決定の過程に関しては現代でも確定的な説がないので、当時の日本の支配層が対日全面禁輸を予測することは困難だっただろう、と指摘されています。
●畑野勇「日米開戦と海軍」P235~250
対米開戦へといたる海軍の役割・責任について検証されています。太平洋戦争前、海軍には「下剋上」的な雰囲気もあったものの、海相が指導力を発揮できるだけの状況にあったようです。その意味で、対米開戦時の海相だった嶋田繁太郎の役割が注目されるのですが、嶋田に対米開戦を決意させたうえで重要な役割を果たした人物として、太平洋戦争の前まで軍令部総長だった伏見宮博恭王が挙げられています。海軍での影響力の強かった伏見宮に引き立てられた嶋田は、伏見宮の意向に逆らえなかったというか、影響を強く受けてしまったのではないか、というわけです。伏見宮をはじめとして海軍での対米開戦派の根拠となったのが作戦優先思考で、それが有力になったのは、統帥権干犯問題でいわゆる艦隊派が台頭してからだ、と指摘されています。
●花田智之「ゾルゲ事件」P251~267
ゾルゲ事件は日本では有名ですが、ゾルゲ諜報団がソ連にもたらした情報はソ連の政策に直接的影響を与えたわけではない、との見解が近年では有力なようです。本論考は、ゾルゲの生涯とゾルゲ諜報団の形成過程を簡潔に紹介しつつ、ゾルゲ諜報団の能力・影響力について検証しています。本論考は、ゾルゲ諜報団が日本の支配層の中枢にまで食い込み、その分析力も優秀だった、と評価しています。しかし、ゾルゲ諜報団のもたらした情報がソ連の政策決定の重要な判断要因となったわけではなさそうです。その要因として、ゾルゲがかつてブハーリン指揮下の諜報員だったことと、ゾルゲの上官が赤軍大粛清のさいに銃殺されたことなどで、スターリンからの信頼が得られていなかったことがあるようです。また、当時のソ連が複数の対日情報網を有していたことも、ゾルゲ諜報団からの情報が軽視された一因のようです。
●武田知己「大東亜会議の意味」P269~286
すでに戦局が日本に不利に傾いていた1943年11月、日本で大東亜会議が開催されました。この大東亜会議については、単なる政治プロパガンダとの見解が長年有力でしたが、限定的とはいえ、画期性も認められつつあるそうです。それは、アジア人の「サミット」であることや、自由主義的・普遍主義的思想および「戦後構想」的性格が見られることです。本論考は、この大東亜会議における重光葵の役割が近年では注目されている、と指摘しています。しかし、重光が大東亜会議および宣言に託した理想はほとんど実現しなかった、とも指摘されています。
●楠綾子「大西洋憲章からポツダム宣言まで」P287~304
大西洋憲章からポツダム宣言にいたるまでの連合国側の構想の変遷とその背景が解説されています。これらの戦後構想の前提としてあるのは、第一次世界大戦の戦後処理は失敗だった、との認識です。第一次世界大戦後の国際的平和・安定の維持が短期間で失敗に終わったことを踏まえて、普遍的国際機構による平和が模索され、国際連合として実現しました。また、国際的平和・安定の前提条件と考えられた通貨の安定と自由貿易への志向は、ブレトンウッズ体制へとつながりました。このような普遍的理念が第二次世界大戦後を規定したものの、一方で現実の政治・経済が、主要な国々の利害・力関係に左右されるところが多分にあったことも指摘されています。
●石井修「原爆投下とソ連参戦」P305~318
原爆投下とソ連参戦が日本の降伏決断に及ぼした影響について解説されています。原爆投下については、日米で「正統派」と「修正派」が逆である、と指摘されています。米国では、原爆投下が日本に降伏を決断させたのであり、米軍の被害を抑えるために原爆投下は必要だった、との見解が「正統派」で、原爆投下以前に日本は事実上降伏していたのであり、原爆投下はソ連の牽制という戦後を見据えたもので日本の降伏には不要だった、との見解が「修正派」となります。一方、日本ではこれが逆転した構図となります。本論考では、日本の「本土」に近づくにつれて米軍の犠牲者数が増加していったことを米国の指導層が懸念しており、日本の指導層が降伏するには衝撃的な「外圧」が必要だっただろうということや、原爆投下が日本の指導層に与えた衝撃が大きかったことから、米国の「修正派」(日本の「正統派」)の見解に問題があることが指摘されています。ただ、ソ連参戦が日本の指導層に大きな衝撃を与え、最終的に降伏を決断させた、との見解も取り上げられています。
●福永文夫「終戦から占領改革へ」P319~332
占領期の日本の諸改革について検証されています。これらは、米国・GHQからの一方的押し付けとは限らず、戦前から日本政府内で準備されつつあったものも少なくありませんでした。そうした改革に戦前から携わっていた官僚にとって、敗戦は「好機」だった、というわけです。具体的には、戦前から構想されていた労働改革は、日本側の改革案がほぼそのまま承認されました。一方、農地改革のように、戦前から構想されており、日本側の提示した案が、GHQの指示によりさらに急進的に改められたこともありました。財閥解体については、日本側にその発想がなかった、と指摘されています。このように、占領期の諸改革は、間接統治ということもあって、日本側の自主的改革という側面も認められ、日米合作により改革が徹底されていった、と評価されています。
●沼尻正之「昭和期における平準化の進展」P333~345
昭和期における平準化をめぐる研究史が解説されています。戦前・戦中と戦後との断絶を強調する見解が戦後しばらくは有力でしたが、その後、戦前・戦中の連続性を指摘する見解が提示されます。戦前・戦中の動向が戦後の近代化・民主化へとつながっていった、というわけです。こうした研究動向において、平準化が戦前から進展していたことが明らかになっていきます。こうした平準化をもたらした要因として、総力戦体制への強い志向が挙げられており、戦争により近代化・民主化が進展した側面が指摘されています。
●高杉洋平「軍縮と軍人の社会的地位」P13~28
第一次世界大戦後の世界的な軍縮の風潮と、「大正デモクラシー」期の軍人蔑視の風潮とが、軍部における被害者意識を醸成し、昭和になってからの軍部の「急進化」へとつながったことが指摘されています。「大正デモクラシー」期の軍人蔑視の風潮については一応知っていましたが、本論考を読んでより詳しく知ることができました。本論考は、こうした軍人蔑視の風潮が劇的に変わったのが満州事変だと指摘しており、国民の多くにとって、恐慌下の行き詰った雰囲気を一掃する「壮挙」だったということでしょうか。
●中澤俊輔「治安維持法」P29~44
1925年の治安維持法成立の背景にロシア革命などの世界情勢の変化があることと、制定にさいして欧米諸国の社会主義対策が参考にされたことが指摘されています。治安維持法成立の直接的契機として、ソ連との国交樹立が大きく影響していたようです。治安維持法が猛威を振るった理由として、1928年に目的遂行罪を新設して改正されたことにより、拡大適用を可能としたことが挙げられています。治安維持法は1941年にはさらに大幅に改正されましたが、太平洋戦争が始まって以降は、人々の生活水準が下がり、社会の平等化が進んだこともあり、検挙者数は減少しました。
●等松春夫「中ソ戦争と日本」P45~62
1929年7月~12月にかけての中ソ戦争の背景と日本への影響について解説されています。中ソ戦争は奉ソ戦争とも呼ばれており、当時の中国の中央政府と地方政権という二重構造を反映しています。ソ連とじっさいに戦ったのは、満州を実質的に支配していた奉天政権でした。中ソ戦争は、満州北部における中東鉄道の権益回収を企図した奉天政権のソ連への攻撃により始まりましたが、兵数では奉天政権よりも劣勢ながらも、装備で圧倒するソ連軍が完勝し、ソ連の要求がほぼ受け入れられる形で終結しました。この中ソ戦争により日本が得た教訓は、第一に、中央政府と地方政権という中国の二重構造が確固としており、南京国民政府の介入はないだろうから、奉天政権との戦争は全面的な日中戦争とはならない、ということです。第二は、兵数では劣勢でも、装備・訓練・作戦で圧倒していれば、奉天政権を短期間で撃破できる、ということです。第三は、ソ連の拡張的性格と優秀な軍備です。こうした教訓が、後に満州事変をもたらした、と言えそうです。
●小島庸平「世界恐慌下の日本」P63~78
世界恐慌は日本にも大きな影響を及ぼし、その中での金輸出解禁と緊縮財政により、日本経済の悪化は深刻なものとなりました。しかし、この過程で産業の「合理化」が進展したことも期待されています。この緊縮財政の後に蔵相に就任した高橋是清の一連の対策により、日本は当時の主要国でもいち早く恐慌から脱しました。世界恐慌は日本資本主義の構造的脆弱性ではなく、「強靭性」を示したのだ、と指摘されています。しかし、工業部門の回復は早かったものの、農業部門の回復は遅れ、また賃金の低下傾向にもなかなか歯止めがかかりませんでした。当時、主要国でも一次産業の割合が高かった日本では、それは深刻な問題でした。ただ、そうした農村の荒廃が戦争支持や「ファシズム」に直結したのではない、とも指摘されています。
●長谷川雄一「血盟団事件と五・一五事件」P79~98
血盟団事件と五・一五事件の背景について検証されています。どちらも昭和初期の恐慌を背景とした起きた事件でしたが、その前提として第一次世界大戦後に日本社会で盛んとなった国家改造・革新運動がありました。これは国内外の平等主義的革新を目指した運動で、恐慌と格差の拡大のなか、五・一五事件の首謀者たちに広範な同情が寄せられる要因となり、また二・二六事件へとつながっていきました。もっとも、平等主義的革新とはいっても、天皇の存在は大前提で(共産主義者はさてとおくとして)、天皇と国民の間の政党・財閥・官僚が排撃の対象とされました。
●小山俊樹「満州事変後の政局と政党政治の終焉」P99~114
五・一五事件で犬養首相が殺害され、戦前の政党政治は終焉します。犬養内閣で戦前の政党政治が終焉した理由を、満州事変後の政治状況の推移をやや詳しく見ていくことで、本論考は検証しています。満州事変後、軍部を抑えるという目的からも、二大政党による連立が協議されました。しかし結局、ポスト・政策などをめぐる対立から、二大政党ともに迷走し、連立は実現せず、単独内閣が続きます。こうした状況から昭和天皇やその側近が政党政治に失望したことが、五・一五事件での政党政治の中断につながり、けっきょく戦後になるまで政党政治は復活しませんでした。
●菅谷幸浩「帝人事件から国体明徴声明まで」P115~130
五・一五事件の後に成立した斎藤内閣と、その後に成立し、二・二六事件で退陣することになった岡田内閣について検証されています。この二つの内閣は「中間内閣」と呼ばれており、政党政治の中断後に成立しましたが、この時点ではまだ政党政治への復帰が模索されており、現実的な政治目標だったことが指摘されています。岡田内閣での天皇機関説事件とそれを受けての二度の国体明徴声明にしても、憲政に大きな転換の生じた「合法無血のクーデタ」ではなく、既存の法解釈への影響は最小限度にとどまった、と指摘されています。
●牧野邦昭「厚生省設置と人口政策」P131~146
厚生省の設置にさいしては複数の勢力からの要求があり、単一の目的に帰することはできない、と指摘されています。陸軍は、総力戦の時代における兵士の質の維持・向上のために、国民の健康状態に強い関心を寄せていました。一方、内務省は、以前より社会問題に取り組む中央行政機関の創設を目指しており、社会問題に強い関心を抱いていた近衛首相は内務省とともに、陸軍の要求を利用する形で厚生省を設置しました。厚生省設置当初は、国民の「質(健康状態)」の方が重視されていましたが、工業化・都市化の進展にともない、農村人口の縮小・出生率の低下傾向が明らかになると、国民の「量(人口数)」の方にも重要な関心が向けられるようになります。
●戸部良一「日中戦争における和平工作─日本側から見た」P147~164
日中戦争では絶えず和平工作が試みられました。その特徴として、外交官だけではなくジャーナリストなどの民間人や軍人が関わったことと、複数の工作が同時に行なわれていたことが指摘されています。これは、和平工作と同時に謀略工作が行なわれていたことと併せて、中国側の不信感を高めました。このように絶えず和平工作が続けられた理由として、利害の共通性(日本と蒋介石との間で共有されていると考えられていた、反共・反ソ)・運命共同体意識(欧米列強の圧力に抵抗する東アジア)・長年の人的交流が挙げられています。一方、そうした和平工作が失敗に終わった理由として、戦争に伴う犠牲の増大と、ほとんどの戦闘で日本が勝利していたことにより、日本国内の世論を納得させられるような和平条件が、中国側にとって呑めないような厳しいものになっていったことが挙げられています。
●岩谷將「日中戦争における和平工作─中国側から見た」P165~182
日中戦争における和平工作が中国側の視点から解説されています。この和平工作の特徴として、基本的な主導権を日本側が握っていたことが指摘されています。和平工作における両国の基本姿勢の違いとして、中国側は盧溝橋事件以前の状況への回復と満州は暫時不問に付すことを基本的な条件とし、状況に応じて関与の度合いを変えたのにたいして、日本側は状況に応じて条件を変えたことが指摘されています。それとともに、複数の交渉者がいたことが、日中戦争における和平工作失敗の要因となったことが指摘されています。
●渡邉公太「天津租界事件から日米通商航海条約廃棄通告へ」P183~198
二度にわたる天津租界封鎖事件の背景として、日中戦争後、中国における日本占領地域の拡大にともない、列強、とくにイギリスの権益が脅かされ、日本とイギリスとの経済的利害の対立が強まったことと、列強の租界が抗日テロの根拠地となっていたことが挙げられます。天津租界封鎖事件後、日本とイギリスとの交渉は、東アジアでの影響力を低下させていたイギリスに不利に進みました。アメリカ合衆国はこの状況に衝撃を受け、また日本の中国での行動に批判的な国内世論の突き上げもあり、日米通商航海条約の廃棄を日本に通告します。アメリカ合衆国における対日世論硬化の要因として、天津租界封鎖事件の前のいわゆる東亜新秩序声明があり、これにより日本は英米との協調路線を放棄したとみなされた、と指摘されています。
●筒井清忠「天皇指名制陸相の登場」P199~218
独ソ不可侵条約により平沼内閣が退陣した後の陸相人事について解説されています。陸軍の三長官会議で後任に推された多田駿は、昭和天皇の強い反対により陸相に就任できず、昭和天皇の意向が強く反映されて畑俊六が陸相に就任します。このように陸相人事で昭和天皇の意向が強く反映された理由として、陸軍内の派閥対立が激しく、一枚岩ではなったことが指摘されています。また、畑陸相の就任にさいしては、新聞報道の役割が大きかったようです。さらに、昭和天皇が多田駿を嫌ったのは石原莞爾派だったからなのですが、当時の石原も多田も昭和天皇と同じく日中戦争不拡大派だった、という歴史の皮肉が指摘されています。
●森山優「南部仏印進駐と関東軍特種演習」P219~234
太平洋戦争へとつながる重要な分岐点となった南部仏印進駐の背景と決定過程について解説されています。当時の日本の政策決定には、陸軍・海軍・有力政治家など主要な諸勢力が関与し、複数の意思が併記されることが珍しくありませんでした。また、陸軍・海軍ともに内部で意見が分かれており、重要な政策決定にさいしても一枚岩ではありませんでした。南部仏印進駐は米・英・蘭による対日全面禁輸の契機となりましたが、アメリカ合衆国の対日全面禁輸決定の過程に関しては現代でも確定的な説がないので、当時の日本の支配層が対日全面禁輸を予測することは困難だっただろう、と指摘されています。
●畑野勇「日米開戦と海軍」P235~250
対米開戦へといたる海軍の役割・責任について検証されています。太平洋戦争前、海軍には「下剋上」的な雰囲気もあったものの、海相が指導力を発揮できるだけの状況にあったようです。その意味で、対米開戦時の海相だった嶋田繁太郎の役割が注目されるのですが、嶋田に対米開戦を決意させたうえで重要な役割を果たした人物として、太平洋戦争の前まで軍令部総長だった伏見宮博恭王が挙げられています。海軍での影響力の強かった伏見宮に引き立てられた嶋田は、伏見宮の意向に逆らえなかったというか、影響を強く受けてしまったのではないか、というわけです。伏見宮をはじめとして海軍での対米開戦派の根拠となったのが作戦優先思考で、それが有力になったのは、統帥権干犯問題でいわゆる艦隊派が台頭してからだ、と指摘されています。
●花田智之「ゾルゲ事件」P251~267
ゾルゲ事件は日本では有名ですが、ゾルゲ諜報団がソ連にもたらした情報はソ連の政策に直接的影響を与えたわけではない、との見解が近年では有力なようです。本論考は、ゾルゲの生涯とゾルゲ諜報団の形成過程を簡潔に紹介しつつ、ゾルゲ諜報団の能力・影響力について検証しています。本論考は、ゾルゲ諜報団が日本の支配層の中枢にまで食い込み、その分析力も優秀だった、と評価しています。しかし、ゾルゲ諜報団のもたらした情報がソ連の政策決定の重要な判断要因となったわけではなさそうです。その要因として、ゾルゲがかつてブハーリン指揮下の諜報員だったことと、ゾルゲの上官が赤軍大粛清のさいに銃殺されたことなどで、スターリンからの信頼が得られていなかったことがあるようです。また、当時のソ連が複数の対日情報網を有していたことも、ゾルゲ諜報団からの情報が軽視された一因のようです。
●武田知己「大東亜会議の意味」P269~286
すでに戦局が日本に不利に傾いていた1943年11月、日本で大東亜会議が開催されました。この大東亜会議については、単なる政治プロパガンダとの見解が長年有力でしたが、限定的とはいえ、画期性も認められつつあるそうです。それは、アジア人の「サミット」であることや、自由主義的・普遍主義的思想および「戦後構想」的性格が見られることです。本論考は、この大東亜会議における重光葵の役割が近年では注目されている、と指摘しています。しかし、重光が大東亜会議および宣言に託した理想はほとんど実現しなかった、とも指摘されています。
●楠綾子「大西洋憲章からポツダム宣言まで」P287~304
大西洋憲章からポツダム宣言にいたるまでの連合国側の構想の変遷とその背景が解説されています。これらの戦後構想の前提としてあるのは、第一次世界大戦の戦後処理は失敗だった、との認識です。第一次世界大戦後の国際的平和・安定の維持が短期間で失敗に終わったことを踏まえて、普遍的国際機構による平和が模索され、国際連合として実現しました。また、国際的平和・安定の前提条件と考えられた通貨の安定と自由貿易への志向は、ブレトンウッズ体制へとつながりました。このような普遍的理念が第二次世界大戦後を規定したものの、一方で現実の政治・経済が、主要な国々の利害・力関係に左右されるところが多分にあったことも指摘されています。
●石井修「原爆投下とソ連参戦」P305~318
原爆投下とソ連参戦が日本の降伏決断に及ぼした影響について解説されています。原爆投下については、日米で「正統派」と「修正派」が逆である、と指摘されています。米国では、原爆投下が日本に降伏を決断させたのであり、米軍の被害を抑えるために原爆投下は必要だった、との見解が「正統派」で、原爆投下以前に日本は事実上降伏していたのであり、原爆投下はソ連の牽制という戦後を見据えたもので日本の降伏には不要だった、との見解が「修正派」となります。一方、日本ではこれが逆転した構図となります。本論考では、日本の「本土」に近づくにつれて米軍の犠牲者数が増加していったことを米国の指導層が懸念しており、日本の指導層が降伏するには衝撃的な「外圧」が必要だっただろうということや、原爆投下が日本の指導層に与えた衝撃が大きかったことから、米国の「修正派」(日本の「正統派」)の見解に問題があることが指摘されています。ただ、ソ連参戦が日本の指導層に大きな衝撃を与え、最終的に降伏を決断させた、との見解も取り上げられています。
●福永文夫「終戦から占領改革へ」P319~332
占領期の日本の諸改革について検証されています。これらは、米国・GHQからの一方的押し付けとは限らず、戦前から日本政府内で準備されつつあったものも少なくありませんでした。そうした改革に戦前から携わっていた官僚にとって、敗戦は「好機」だった、というわけです。具体的には、戦前から構想されていた労働改革は、日本側の改革案がほぼそのまま承認されました。一方、農地改革のように、戦前から構想されており、日本側の提示した案が、GHQの指示によりさらに急進的に改められたこともありました。財閥解体については、日本側にその発想がなかった、と指摘されています。このように、占領期の諸改革は、間接統治ということもあって、日本側の自主的改革という側面も認められ、日米合作により改革が徹底されていった、と評価されています。
●沼尻正之「昭和期における平準化の進展」P333~345
昭和期における平準化をめぐる研究史が解説されています。戦前・戦中と戦後との断絶を強調する見解が戦後しばらくは有力でしたが、その後、戦前・戦中の連続性を指摘する見解が提示されます。戦前・戦中の動向が戦後の近代化・民主化へとつながっていった、というわけです。こうした研究動向において、平準化が戦前から進展していたことが明らかになっていきます。こうした平準化をもたらした要因として、総力戦体制への強い志向が挙げられており、戦争により近代化・民主化が進展した側面が指摘されています。
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