赤澤威、西秋良宏「ネアンデルタール人との交替劇の深層」
これは7月6日分の記事として掲載しておきます。『現代思想』2016年5月号の特集「人類の起源と進化─プレ・ヒューマンへの想像力」に掲載された対談です。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)との「交替劇」は、ヨーロッパや西アジアが主要な舞台だったこともあり、大きな関心を集めてきました。この対談は、「交替劇」の要因が何だったのか、論じられていますが、率直に言って、歯切れが悪いというか、単純明快な説明になっていないことは否めません。しかしそれは、現時点では不明な点が多いことを率直に認めているからであり、知的誠実さと言えるでしょう。
最初に、日本人研究者によるネアンデルタール人研究が簡潔に解説されていますが、重要な指摘のあるものも少なくなかったにも関わらず、かつては情報発信力に欠けていたことが指摘されています。日本ではネアンデルタール人の化石が発見されていないので、「本場」の研究者ではない日本人の研究にたいする軽視があったのではないか、とも推測されています。こうした感情は立証の難しい問題ですが、あったとしても不思議ではないでしょう。
上述したように、この対談は歯切れの悪いところがあるのですが、それは、ネアンデルタール人と現生人類との違いを見出しにくいか、違いを見出せたとしても、その解釈が難しいためです。たとえば考古学的には、同時代のネアンデルタール人と現生人類とで大きな違いを見出すのが難しいのが現状です。しかし、ネアンデルタール人と現生人類に同じような「複雑な行動」が見られるとしても、その頻度は現生人類の方が高いことも明らかになっています。しかし、この対談で指摘されているように、現生人類のなかでもそうした「複雑な行動」の頻度には大きな違いがあり、そもそも環境の違いもあるので、それがネアンデルタール人と現生人類との「交替劇」の要因としてよく言われるような生得的な認知能力の違いか否か、まだ結論づけることはできない、というわけです。
形態学的には、ネアンデルタール人と現生人類とで脳構造が異なっていたことが指摘されています。頭頂葉と小脳に対応する部位は、現生人類の方がネアンデルタール人より相対的に大きい傾向がある、というわけです。ここから、両者の情報処理能力に違いがあったのでないか、との見解も提示されています。この対談では、両者は認知能力の点で何らかの違いが存在した可能性が高そうではあるものの、それが優劣と言えるのか否か、まだ確定したわけではない、との慎重な見解が西秋氏から提示されています。
けっきょくのところ、ネアンデルタール人と現生人類との「交替劇」の要因はまだよく分からないわけですが、西秋氏の提示する「総合力」としての学習能力を考える必要があるとの指摘は、基本的には妥当なのではないか、と思います。それは、生物学的な認知能力の他に、身体構造や社会構造も影響していたのではないか、との指摘です。この対談では、技術革新能力の要因として人口が重視されていますが、確かに、人口の違いは両者の命運を分けた要因の一つだった可能性が高いだろう、と思います。
参考文献:
赤澤威、西秋良宏(2016)「ネアンデルタール人との交替劇の深層」『現代思想』第44巻10号P83-105(青土社)
最初に、日本人研究者によるネアンデルタール人研究が簡潔に解説されていますが、重要な指摘のあるものも少なくなかったにも関わらず、かつては情報発信力に欠けていたことが指摘されています。日本ではネアンデルタール人の化石が発見されていないので、「本場」の研究者ではない日本人の研究にたいする軽視があったのではないか、とも推測されています。こうした感情は立証の難しい問題ですが、あったとしても不思議ではないでしょう。
上述したように、この対談は歯切れの悪いところがあるのですが、それは、ネアンデルタール人と現生人類との違いを見出しにくいか、違いを見出せたとしても、その解釈が難しいためです。たとえば考古学的には、同時代のネアンデルタール人と現生人類とで大きな違いを見出すのが難しいのが現状です。しかし、ネアンデルタール人と現生人類に同じような「複雑な行動」が見られるとしても、その頻度は現生人類の方が高いことも明らかになっています。しかし、この対談で指摘されているように、現生人類のなかでもそうした「複雑な行動」の頻度には大きな違いがあり、そもそも環境の違いもあるので、それがネアンデルタール人と現生人類との「交替劇」の要因としてよく言われるような生得的な認知能力の違いか否か、まだ結論づけることはできない、というわけです。
形態学的には、ネアンデルタール人と現生人類とで脳構造が異なっていたことが指摘されています。頭頂葉と小脳に対応する部位は、現生人類の方がネアンデルタール人より相対的に大きい傾向がある、というわけです。ここから、両者の情報処理能力に違いがあったのでないか、との見解も提示されています。この対談では、両者は認知能力の点で何らかの違いが存在した可能性が高そうではあるものの、それが優劣と言えるのか否か、まだ確定したわけではない、との慎重な見解が西秋氏から提示されています。
けっきょくのところ、ネアンデルタール人と現生人類との「交替劇」の要因はまだよく分からないわけですが、西秋氏の提示する「総合力」としての学習能力を考える必要があるとの指摘は、基本的には妥当なのではないか、と思います。それは、生物学的な認知能力の他に、身体構造や社会構造も影響していたのではないか、との指摘です。この対談では、技術革新能力の要因として人口が重視されていますが、確かに、人口の違いは両者の命運を分けた要因の一つだった可能性が高いだろう、と思います。
参考文献:
赤澤威、西秋良宏(2016)「ネアンデルタール人との交替劇の深層」『現代思想』第44巻10号P83-105(青土社)
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