『天智と天武~新説・日本書紀~』第93話(最終回)「愛情」
これは7月26日分の記事として掲載しておきます。『ビッグコミック』2016年8月10日号掲載分の感想です。いよいよ今回で完結となります。前回は、現代、法隆寺夢殿を観光客が訪れているところで終了しました。最終回となる今回は、過去に戻り、686年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)、天武天皇(大海人皇子)が遠出をして、大木の下で佇んでいる場面から始まります。
飛鳥浄御原宮(だと思います)の御所でその報せを聞いた天武天皇の皇后である鸕野讚良皇女(持統天皇)は、具合もよくないのに遠出をする夫を案じます。天武天皇の行先は法隆寺(斑鳩寺)でもなく、鸕野讚良皇女も知りません。天武天皇は、皇后と皇太子(草壁皇子)に任せれば大丈夫だ、と臣下に言って出かけていました。新たな都(藤原京、当時は新益京と呼ばれていたようです)の建設もあるのに、と不安な様子の鸕野讚良皇女は、今後陛下が出かける場合には必ず自分に報せよ、と臣下に厳命します。
大木の下で佇む天武天皇は、昔を懐かしむとは自分も年を取ったものだ、と呟きます。その直後、天武天皇は倒れ、御所へと運ばれます。鸕野讚良皇女は、孫となる軽皇子(文武天皇)を連れて夫を見舞います。天武天皇は目を覚まし、夢を見ていた、と語ります。その夢とは、孝徳帝(軽皇子)の治世のある夜、海岸で笛を吹いている大海人皇子を中大兄皇子(天智帝)が訪れるところから始まります。
中大兄皇子は酔っぱらっており、酒の相手をしろ、と大海人皇子に命じます。酒が過ぎる、と大海人皇子に諫められた中大兄皇子は怒り、大海人皇子を殴ろうとしますが、態勢を崩して転び、砂まみれになります。大海人皇子に笑われていると思った中大兄皇子は、笑うな、と言います。中大兄皇子の若くて子供っぽいところが最終回になってまた見られたのは、何とも嬉しいものです。大海人皇子は中大兄皇子に、戻ろうと進言しますが、部屋に戻っても眠れない自分にイラつくだけだ、と中大兄皇子は答えます。自分の行く手を邪魔する奴ばかりいる、言うことを聞かない大君(孝徳帝)や殺したはずの男たちが、と中大兄皇子は言い、大海人皇子を指さします。大海人皇子が、自分が殺害した蘇我入鹿に酷似していることを言っているのでしょう。
中大兄皇子の捻挫に気づいた大海人皇子は、構うなとか、ここで夜を明かすのだとか言って抵抗する中大兄皇子を背負って部屋へと戻ります。大海人皇子が寝所で中大兄皇子の手当てをして退出しようとすると、中大兄皇子は大海人皇子を引きとめ、眠れないと言っただろう、自分が眠るまで側にいろ、と命じます。すると大海人皇子は、自分が側にいて眠れるのか、と中大兄皇子に尋ねます。大海人皇子の父である蘇我入鹿を殺した自分に復讐するのだとしたらそれでもよい、永遠に眠れて余計なことを考えずにすむ、と中大兄皇子はいいます。
余計な事とは邪魔者を消すことなのか、あらゆるものを犠牲にしてまで、なぜそれほど権力に執着するのか分からない、と大海人皇子に問われた中大兄皇子は、手に入るところにいるからというだけだ、そのうちそなたもそうなる、と答えます。自分はただの従者で・・・と大海人皇子が言うと、ならば主人の言うことを聞いて寝かせろ、と中大兄皇子は命じます。大海人皇子は中大兄皇子の手を取り、二人は眠りに落ちます。翌朝、大海人皇子が目覚めると、中大兄皇子はもう寝所にはいませんでした。
天武天皇から見た夢を聞かされた鸕野讚良皇女は、天武天皇がかつて父である中大兄皇子の従者をしており、ちょうどその頃、自分は軽皇子くらいの年齢だった、と語ります。天武天皇は異父兄である中大兄皇子の幻影に手を伸ばし、涙を流しながら亡くなります。686年9月のことでした。享年56となっているので、作中設定では天武天皇は631年生まれのようです。本作では、数え年と満年齢が混在しているようなので、生年設定に微妙に齟齬をきたしているようにも思うのですが、この点については、気力があれば、後日改めて検証する予定です。
688年、鸕野讚良皇女は、天武天皇がたびたび訪れ、その下で倒れた大木を初めて訪れます。鸕野讚良皇女は、そこが天智天皇の沓が見つかった山科から近いことに気づきます。臣下の一人が、この少し北には壬申の乱以降造営が中断している天智天皇の陵がある、と説明します。鸕野讚良皇女は、ここに天智天皇が葬られているのではないか、と考えているようです。孫の軽皇子は祖母の鸕野讚良皇女に、天智天皇と天武天皇は仲が悪かったのか、と尋ねます。天智天皇は天武天皇に殺された、という噂を軽皇子は聞いていたのでした。
すると鸕野讚良皇女は、子供の頃の思い出を軽皇子に語ります。もう何の用だったか忘れたものの、ある朝、父である中大兄皇子の寝所を訪ねた鸕野讚良皇女は、中大兄皇子が大海人皇子と手を握り、大海人皇子を見つめている光景を見て、それがたいへん美しかったので、今も目に焼き付いている、と言います。その話をぜひ『日本紀(日本書紀)』に載せてください、と軽皇子が願い出ると、真実は伏せておくに限る、と鸕野讚良皇女は言います。
ここで説明文にて、京都府宇治市小倉町に「天王」という地名があり、そこには1979年に伐採されたものの、かつてエノキの大木があって、その根元に「天智天皇」と刻んだ墓石と小さな社があった、と語られます。さらに、奈良県橿原市には、日本で唯一蘇我入鹿を祭神としている入鹿神社があり、明治時代に政府は入鹿逆臣説を理由として社名・祭神の変更を求めたが地元民はこれを拒否し、今でも入鹿は地元の人々から崇敬されている、と説明文にて語られて、完結となります。
ついに最終回を迎えました。連載初期の頃からこのブログで取り上げてきただけに、何とも寂しいものです。最終回には、本作の主役である天智天皇と天武天皇が、ともに久々に本格的に登場し(天智天皇は第75話以来、天武天皇は第82話以来)、この点では満足しています。孝徳帝の治世でのある夜の出来事は、天智天皇と天武天皇の愛憎の入り混じった関係をよく描いたものでした。この描写が時系列に沿ったものであれば、天武天皇から天智天皇への愛情を、私も早くから確信したのでしょうが、私がそれを確信したのは、大きな話題を呼んだらしい第71話を読んでからでした。このある夜の出来事を、鸕野讚良皇女の思い出と絡めたのは、なかなか上手い創作だったと思います。
その鸕野讚良皇女は、夫である天武天皇と不仲だった、と作中世界の奈良時代初期には伝わっているのに(第82話)、今回は、夫を本気で心配していたように思います。あるいは、鸕野讚良皇女が藤原史(不比等)と組んで天武天皇を毒殺したのではないか、という展開も予想していただけに、やや意外でした。まあ鸕野讚良皇女は、夫が額田王と仲良くしている様子に嫉妬していた(第62話)くらいですから、少なくとも夫が父を殺害したと認めた(第77話)前までは、夫を愛していたのだろうな、と思っていましたが。子供の頃の鸕野讚良皇女の様子からは、鸕野讚良皇女が父を慕っていたように思われます。
天智天皇の最期と遺体の安置場所については、明示こそされなかったものの、やはり天智天皇は天武天皇に殺され、山科の近くの大木の下に埋葬されたことが強く示唆されました。天武天皇はそれを誰にも明かさず、天智天皇を「自分のもの」としたのでしょう。鸕野讚良皇女は真相に気づいたというか、かなり近づいたようですが、政治的配慮もあったにしても、二人の想いを大切にして、史書には書き残さない、と決めたのでしょう。
自らが天智天皇だけではなく天武天皇および蘇我入鹿の子孫であることを知っていた行信の真意が詳しく語られなかったことや、成人後の草壁皇子や大津皇子が描かれなかったことなど、不満点もないわけではありませんが、わりときれいにまとまった最終回だったのではないか、と思います。できれば、天武朝や持統朝の人間模様を詳しく描いてもらいたかった、とも思うのですが、全体的にはたいへん満足しており、掲載誌を読み始めてからのこの3年半ほどは、本当に楽しませてもらったので、作者には感謝しています。この後は、全体的な考察記事を少しずつ掲載していく予定です。ただ、未読の論文・本がたまっていることもあり、なかなか進みそうにありませんが。
飛鳥浄御原宮(だと思います)の御所でその報せを聞いた天武天皇の皇后である鸕野讚良皇女(持統天皇)は、具合もよくないのに遠出をする夫を案じます。天武天皇の行先は法隆寺(斑鳩寺)でもなく、鸕野讚良皇女も知りません。天武天皇は、皇后と皇太子(草壁皇子)に任せれば大丈夫だ、と臣下に言って出かけていました。新たな都(藤原京、当時は新益京と呼ばれていたようです)の建設もあるのに、と不安な様子の鸕野讚良皇女は、今後陛下が出かける場合には必ず自分に報せよ、と臣下に厳命します。
大木の下で佇む天武天皇は、昔を懐かしむとは自分も年を取ったものだ、と呟きます。その直後、天武天皇は倒れ、御所へと運ばれます。鸕野讚良皇女は、孫となる軽皇子(文武天皇)を連れて夫を見舞います。天武天皇は目を覚まし、夢を見ていた、と語ります。その夢とは、孝徳帝(軽皇子)の治世のある夜、海岸で笛を吹いている大海人皇子を中大兄皇子(天智帝)が訪れるところから始まります。
中大兄皇子は酔っぱらっており、酒の相手をしろ、と大海人皇子に命じます。酒が過ぎる、と大海人皇子に諫められた中大兄皇子は怒り、大海人皇子を殴ろうとしますが、態勢を崩して転び、砂まみれになります。大海人皇子に笑われていると思った中大兄皇子は、笑うな、と言います。中大兄皇子の若くて子供っぽいところが最終回になってまた見られたのは、何とも嬉しいものです。大海人皇子は中大兄皇子に、戻ろうと進言しますが、部屋に戻っても眠れない自分にイラつくだけだ、と中大兄皇子は答えます。自分の行く手を邪魔する奴ばかりいる、言うことを聞かない大君(孝徳帝)や殺したはずの男たちが、と中大兄皇子は言い、大海人皇子を指さします。大海人皇子が、自分が殺害した蘇我入鹿に酷似していることを言っているのでしょう。
中大兄皇子の捻挫に気づいた大海人皇子は、構うなとか、ここで夜を明かすのだとか言って抵抗する中大兄皇子を背負って部屋へと戻ります。大海人皇子が寝所で中大兄皇子の手当てをして退出しようとすると、中大兄皇子は大海人皇子を引きとめ、眠れないと言っただろう、自分が眠るまで側にいろ、と命じます。すると大海人皇子は、自分が側にいて眠れるのか、と中大兄皇子に尋ねます。大海人皇子の父である蘇我入鹿を殺した自分に復讐するのだとしたらそれでもよい、永遠に眠れて余計なことを考えずにすむ、と中大兄皇子はいいます。
余計な事とは邪魔者を消すことなのか、あらゆるものを犠牲にしてまで、なぜそれほど権力に執着するのか分からない、と大海人皇子に問われた中大兄皇子は、手に入るところにいるからというだけだ、そのうちそなたもそうなる、と答えます。自分はただの従者で・・・と大海人皇子が言うと、ならば主人の言うことを聞いて寝かせろ、と中大兄皇子は命じます。大海人皇子は中大兄皇子の手を取り、二人は眠りに落ちます。翌朝、大海人皇子が目覚めると、中大兄皇子はもう寝所にはいませんでした。
天武天皇から見た夢を聞かされた鸕野讚良皇女は、天武天皇がかつて父である中大兄皇子の従者をしており、ちょうどその頃、自分は軽皇子くらいの年齢だった、と語ります。天武天皇は異父兄である中大兄皇子の幻影に手を伸ばし、涙を流しながら亡くなります。686年9月のことでした。享年56となっているので、作中設定では天武天皇は631年生まれのようです。本作では、数え年と満年齢が混在しているようなので、生年設定に微妙に齟齬をきたしているようにも思うのですが、この点については、気力があれば、後日改めて検証する予定です。
688年、鸕野讚良皇女は、天武天皇がたびたび訪れ、その下で倒れた大木を初めて訪れます。鸕野讚良皇女は、そこが天智天皇の沓が見つかった山科から近いことに気づきます。臣下の一人が、この少し北には壬申の乱以降造営が中断している天智天皇の陵がある、と説明します。鸕野讚良皇女は、ここに天智天皇が葬られているのではないか、と考えているようです。孫の軽皇子は祖母の鸕野讚良皇女に、天智天皇と天武天皇は仲が悪かったのか、と尋ねます。天智天皇は天武天皇に殺された、という噂を軽皇子は聞いていたのでした。
すると鸕野讚良皇女は、子供の頃の思い出を軽皇子に語ります。もう何の用だったか忘れたものの、ある朝、父である中大兄皇子の寝所を訪ねた鸕野讚良皇女は、中大兄皇子が大海人皇子と手を握り、大海人皇子を見つめている光景を見て、それがたいへん美しかったので、今も目に焼き付いている、と言います。その話をぜひ『日本紀(日本書紀)』に載せてください、と軽皇子が願い出ると、真実は伏せておくに限る、と鸕野讚良皇女は言います。
ここで説明文にて、京都府宇治市小倉町に「天王」という地名があり、そこには1979年に伐採されたものの、かつてエノキの大木があって、その根元に「天智天皇」と刻んだ墓石と小さな社があった、と語られます。さらに、奈良県橿原市には、日本で唯一蘇我入鹿を祭神としている入鹿神社があり、明治時代に政府は入鹿逆臣説を理由として社名・祭神の変更を求めたが地元民はこれを拒否し、今でも入鹿は地元の人々から崇敬されている、と説明文にて語られて、完結となります。
ついに最終回を迎えました。連載初期の頃からこのブログで取り上げてきただけに、何とも寂しいものです。最終回には、本作の主役である天智天皇と天武天皇が、ともに久々に本格的に登場し(天智天皇は第75話以来、天武天皇は第82話以来)、この点では満足しています。孝徳帝の治世でのある夜の出来事は、天智天皇と天武天皇の愛憎の入り混じった関係をよく描いたものでした。この描写が時系列に沿ったものであれば、天武天皇から天智天皇への愛情を、私も早くから確信したのでしょうが、私がそれを確信したのは、大きな話題を呼んだらしい第71話を読んでからでした。このある夜の出来事を、鸕野讚良皇女の思い出と絡めたのは、なかなか上手い創作だったと思います。
その鸕野讚良皇女は、夫である天武天皇と不仲だった、と作中世界の奈良時代初期には伝わっているのに(第82話)、今回は、夫を本気で心配していたように思います。あるいは、鸕野讚良皇女が藤原史(不比等)と組んで天武天皇を毒殺したのではないか、という展開も予想していただけに、やや意外でした。まあ鸕野讚良皇女は、夫が額田王と仲良くしている様子に嫉妬していた(第62話)くらいですから、少なくとも夫が父を殺害したと認めた(第77話)前までは、夫を愛していたのだろうな、と思っていましたが。子供の頃の鸕野讚良皇女の様子からは、鸕野讚良皇女が父を慕っていたように思われます。
天智天皇の最期と遺体の安置場所については、明示こそされなかったものの、やはり天智天皇は天武天皇に殺され、山科の近くの大木の下に埋葬されたことが強く示唆されました。天武天皇はそれを誰にも明かさず、天智天皇を「自分のもの」としたのでしょう。鸕野讚良皇女は真相に気づいたというか、かなり近づいたようですが、政治的配慮もあったにしても、二人の想いを大切にして、史書には書き残さない、と決めたのでしょう。
自らが天智天皇だけではなく天武天皇および蘇我入鹿の子孫であることを知っていた行信の真意が詳しく語られなかったことや、成人後の草壁皇子や大津皇子が描かれなかったことなど、不満点もないわけではありませんが、わりときれいにまとまった最終回だったのではないか、と思います。できれば、天武朝や持統朝の人間模様を詳しく描いてもらいたかった、とも思うのですが、全体的にはたいへん満足しており、掲載誌を読み始めてからのこの3年半ほどは、本当に楽しませてもらったので、作者には感謝しています。この後は、全体的な考察記事を少しずつ掲載していく予定です。ただ、未読の論文・本がたまっていることもあり、なかなか進みそうにありませんが。
この記事へのコメント
頭から読み直してみようと思ってます。
漫画を2度楽しめる記事でした。 本当にありがとうございました。