呉座勇一編『南朝研究の最前線 ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』
これは7月24日分の記事として掲載しておきます。日本史史料研究会監修で、 歴史新書の一冊として洋泉社より2016年7月に刊行されました。本書は4部構成で、各部は複数の論考から構成されています。本書で提示された見解のなかには、すでに他の一般向け書籍で知ったものもありましたが、南北朝時代、とくに南朝については知識が乏しかったので、得るところが多々ありました。本書は、近年の研究動向を手軽に知ることができ、たいへん有益な一冊になっていると思います。戦国時代ではなく南北朝時代でもこのような本が刊行されたということは、一般層での南北朝時代への関心が高まっているのでしょうか。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。
●呉座勇一「はじめに─建武政権・南朝の実像を見極める」P3~14
南北朝時代のごく簡潔な概説であるとともに、研究史の動向にも簡略に言及し、各論点と関連する所収論考を紹介しています。本書のように複数の論考から構成されている一般向け書籍の冒頭解説として適切だと思います。戦後は、後醍醐天皇や建武政権の「異常性」・「非現実性」が強調される傾向にありましたが、それには行き過ぎたところがあり、見直しが進んでいる、ということが指摘されています。もちろん、だからといって、いわゆる皇国史観に回帰するわけではありませんが。
第1部 建武政権とは何だったのか
●中井裕子「鎌倉時代後期の朝幕関係 朝廷は、後醍醐以前から改革に積極的だった!」P24~42
鎌倉時代の朝廷が、幕府の制度も取り入れつつ、訴訟制度などの改革に積極的だったことが指摘されています。鎌倉時代の朝廷の存在感が一般層には薄いのは、研究の本格化が1980年代になってからと、遅れていたことも背景にあるようです。このように改革に積極的だった鎌倉時代の朝廷を背景として後醍醐天皇は登場したのであり、当時としては特異な存在だったわけではない、ということが強調されています。また宗教面でも、文観の重用など後醍醐天皇の異端性が強調されたこともありましたが、この点でも、父である後宇多天皇の宗教政策との人脈的つながりが指摘されています。
●亀田俊和「建武政権の評価 「建武の新政」は、反動的なのか、進歩的なのか?」P43~63
建武政権にたいする各時代の評価・研究史を概観しています。建武政権が失敗だったとの評価は南北朝時代から定着しており、1911年になって公的に南朝が正統と認められても、南朝の「忠臣」たちは賛美され続けましたが、建武政権は失敗だった、との評価は変わりませんでした。この状況に強く異を唱えたのが平泉澄で、建武政権における諸改革を称賛しました。しかし一方で、建武政権と室町幕府の断絶性を極度に強調する弱点も有していました。戦後になって皇国史観から解放されると、建武政権は復古を目指す反動的なものだった、との評価が主流になりました。その後、建武政権の進歩的・急進的側面に注目する見解も提示されたものの、建武政権の復古・反動的側面と進歩・急進的側面のどちらを重視する立場でも、建武政権が時代に合わない非現実的な政策を遂行しようとしたことにより崩壊した、との見解は根強く存在し続けました。しかし近年では、鎌倉時代の朝廷・幕府との、さらには後の室町幕府との連続性が建武政権について指摘されるようになり、短命に終わったから非現実的な政権だった、との評価も見直されるようになってきているそうです。門外漢にも分かりやすい解説になっており、よいと思います。
●森幸夫「建武政権の官僚 建武政権を支えた旧幕府の武家官僚たち」P64~83
建武政権の官僚には鎌倉幕府の武家官僚も少なからずいた、ということが解説されています。建武政権と鎌倉幕府との連続性がここでも確認される、というわけです。もっとも、鎌倉幕府の武家官僚といっても、全員が建武政権で登用されたわけではなく、後醍醐天皇との関係が登用の基準になりました。鎌倉幕府滅亡まで幕府方として行動した人々は、建武政権では冷遇されたようです。また、鎌倉幕府でも六波羅探題の武家官僚は、家格よりも実務能力が優先されていたこともあり、建武政権で登用されることが多かったようです。建武政権は短期間で崩壊しましたが、建武政権で登用された武家官僚が室町幕府でも登用されることも多く、建武政権と室町幕府との連続性が窺えます。
●細川重男「後醍醐と尊氏の関係 足利尊氏は「建武政権」に不満だったのか?」P84~108
足利尊氏が建武政権を崩壊に追い込み、幕府を開設した背景として重要な、鎌倉時代の足利氏の位置づけを考察しています。源実朝の暗殺後、足利氏は源氏の嫡流とみなされており、その高い地位故に鎌倉幕府滅亡後に武家の棟梁として推戴された、という俗説は否定されています。鎌倉時代の足利氏は確かに高い家格を誇ったものの、それは源頼朝との姻戚関係およびその後の北条氏との代々の婚姻関係によるものでした。鎌倉時代の足利氏は源氏の嫡流とみなされていたわけではなく、尊氏が幕府を開設したのは、その実力・実績によるものでした。尊氏が建武政権から離反した理由については、当初から幕府再興を考えていたからではなく、弟である直義を救うためだったのではないか、と推測されています。
第2部 南朝に仕えた武将たち
●鈴木由美「北条氏と南朝 鎌倉幕府滅亡後も、戦いつづけた北条一族」P110~128
鎌倉幕府滅亡後、北条一族は滅亡したわけではなく、建武政権期~南北朝時代にかけての戦乱でしばしば重要な役割を果たしました。建武政権期以降には北条与党の蜂起が頻発しましたが、これについては、単に北条一族の残党が蜂起したというだけではなく、建武政権や足利氏に不満を抱く勢力が北条一族を旗頭とした、という側面もあるようです。また、北条一族が後醍醐天皇と結んで足利氏に対抗した理由として、足利氏を優遇していたにも関わらず裏切られた、という恨みがあったことも指摘されています。
●谷口雄太「新田氏と南朝 新田義貞は、足利尊氏と並ぶ「源家嫡流」だったのか?」P129~148
新田義貞に関する各時代の評価の変遷と、新田氏と足利氏の位置づけについて考察されています。新田義貞が名将なのか愚将なのか、という評価は、すでに『太平記』に両方の要素が盛り込まれて義貞の人物像が造形されているため、『太平記』に依拠したものになっている、と指摘されています。新田氏と足利氏の位置づけについて、同時代史料はほぼ新田氏を足利氏の一門としているのにたいして、『太平記』では両氏が同格だったとされていることに囚われて、今でも新田氏が足利氏の一門ではないことが自明視される傾向にあるとして、『太平記』史観が批判されています。
●大薮海「北畠氏と南朝 北畠親房は、保守的な人物だったのか?」P149~166
「時代の趨勢を見極められず、古い体制にこだわり続けた頑固な人物」とか「武士を軽んじていた」とか言われ、頑迷固陋な人物とされてきた北畠親房を再評価しています。親房は幕府や武士を全否定して見下していたのではなく、冷静に評価できるだけの見識の持ち主で、南朝の維持・発展のためには幕府の制度を取り入れたり、天皇を批判したりできる人物だった、と評価されています。
●生駒孝臣「楠木氏と南朝 楠木正成は、本当に“異端の武士”だったのか?」P167~183
戦前は大忠臣とされ、戦後は「悪党」であり異端的な武士との評価も提示された楠木正成の出自と楠木氏の位置づけについて、近年の研究成果を紹介しています。楠木氏は鎌倉幕府の御家人・得宗被官だった可能性が高く、「悪党」と呼ばれて、交通・流通や商業にも関与する異端的な武士だった、との見解も提示されるようになりました。しかし、「悪党」にはレッテル貼りとしての性格が強く、鎌倉時代の武士は西国でも東国でも交通・流通や商業にも関与する存在だったことが明らかになってきました。その意味で、正成は異端的な武士との評価には誇張があるようです。
第3部 南朝の実像
●花田卓司「建武政権・南朝の恩賞政策 建武政権と南朝は、武士に冷淡だったのか?」P186~204
建武政権は公家優先で武士を軽視し、冷遇したために短期間で崩壊した、との見解は今でも一般では根強いかもしれません。しかし、官位昇進や所領などの点で武士たちが冷遇されたわけではなく、建武政権は武士の権益を保護しようとしていた、と今では考えられています。建武政権が短期間で崩壊したのは、恩賞給付が進まなかったためなのですが、それは、公家が優先され武士が冷遇されていたからではなく、鎌倉幕府滅亡直前もしくは直後に幕府側から後醍醐天皇側に鞍替えした武士が多いこともあり、勲功認定が難航したからでした。また、恩賞としての官位授与など、建武政権の施策が後に室町幕府に継承されることもあり、建武政権が時代を先取りしていたところもあることが窺えます。
●杉山巖「南朝に仕えた廷臣たち 文書行政からみた<南朝の忠臣>は誰か?」P205~224
南朝の文書行政を支えた貴族たちについて分析されています。南朝の「忠臣」というと、楠木正成のような武士がおもに取り上げられ、貴族でも、北畠親房・顕家のように軍事面で貢献した人々が顕彰対象になる傾向があります。本書は、派手な武功があるわけではないものの、文書行政で南朝を支えた貴族たちが、おもに後宇多上皇と後醍醐天皇を支えた人々の子孫であることを明らかにし、北朝にたいして劣勢だった南朝の文書行政は、そうした貴族たちの縮小再生産により支えられていた、と指摘しています。また、人事などで不満を抱いていた北朝貴族の南朝への鞍替えの事例も紹介されています。
●大塚紀弘「中世の宗教と王権 後醍醐は、本当に<異形>の天皇だったのか?」P225~246
後醍醐天皇については、天皇在位中に自ら密教修法を執行した点など、特異な個性が強調され、「異形の王権」との評価も提示されています。しかし、密教の重視・禅僧や律僧の重用・中国仏教への関心などは中世の天皇に見られることであり、後醍醐天皇の宗教政策もおおむねこの枠内に止まり、特異的な個性も見られるものの、前後の政権と隔絶するほどの革新性はない、と指摘されています。また、後醍醐天皇はその特異性により一時的な求心力を得たものの、新たな皇統・政権を宗教的に支える権威の源泉を掘り当てることはできなかった、とも指摘されています。
第4部 南朝のその後
●石橋一展「関東・奥羽情勢と南北朝内乱 鎌倉府と「南朝方」の対立関係は、本当にあったのか?」P248~2666
鎌倉幕府滅亡直前~南北朝時代最初期にかけて、東国は畿内・西国・北陸と比較すると穏やかでした。しかし、北畠親房の常陸上陸以降、東国では戦乱が激化・長期化します。当初は、反幕府・北朝勢力にとって求心力のあった南朝ですが、北朝の優位が確立していくと、求心力が失われます。それでも、鎌倉府は小山氏などの敵対勢力を南朝方として攻撃することがしばしばありました。これは、そうした勢力が南朝と提携して鎌倉府と対立したというよりも、鎌倉府が攻撃したい敵対勢力を南朝方と喧伝することにより、自らの軍事行動の正当化に利用した、という側面が大きかったようです。しかし、15世紀後半になると、南朝方とのレッテル貼りは行なわれなくなり、東国では南朝勢力が完全に没落した、と言えるようです。
●三浦龍昭「南朝と九州 「征西将軍府」は、独立王国を目指していたのか?」P267~286
後醍醐天皇は自分の息子たちを各地に派遣し、南朝の拠点を築こうとしましたが、おおむね失敗に終わりました。唯一成功したと言えそうなのは、九州に派遣された懐良親王で、その統治機関は「征西将軍府」と称されています。征西将軍府と建国されたばかりの明との通交も含めて、征西将軍府が自立を意図していたのか否か、まつ実質的に独立王国だったのか、という問題も提起されていますが、独立志向の根強い九州の諸勢力も、征西将軍府を飛び越して南朝と直接つながろうとする動きが後々まで見られるので、まだ確定的なことが言える状況ではないようです。
●久保木圭一「南北朝合一と、その後 「後南朝」の再興運動を利用した勢力とは?」P287~305
南北朝の合一以降も、和議の条件が履行されなかったことに不満を抱く南朝の皇族や旧南朝勢力による南朝再興運動(後南朝)は、15世紀末までたびたび見られました。ただ、そうした南朝再興運動の多くは、幕府・北朝に不満を抱く勢力が、自己正当化のために南朝皇族を利用した、という側面が強かったようで、散発的で微弱なものでした。じゅうらいの後南朝の研究は、個別の事象に関する解明が主題となる傾向にあったので、今後は室町時代の政治社会史の中での位置づけが課題となる、との指摘も注目されます。
●生駒哲郎「平泉澄と史学研究 戦前の南北朝時代研究と皇国史観」P306~327
戦前の南北朝時代の研究を概観し、文部省が設定した国定の歴史観である皇国史観を特定の研究者の見解と安易に同一視することのないよう、注意を喚起しています。また、皇国史観と一括りにされている研究者の間でも見解の相違がある、と指摘されています。たとえば、平泉澄とその弟子である平田俊春はともに皇国史観の代表的研究者とされていますが、天皇親政に絶対的価値を置き、院政も全否定する平田にたいして、明治維新に到達する過程として日本史を位置づける平泉は、皇室ではなく「国体護持」を主眼としていた、と指摘されています。
●呉座勇一「はじめに─建武政権・南朝の実像を見極める」P3~14
南北朝時代のごく簡潔な概説であるとともに、研究史の動向にも簡略に言及し、各論点と関連する所収論考を紹介しています。本書のように複数の論考から構成されている一般向け書籍の冒頭解説として適切だと思います。戦後は、後醍醐天皇や建武政権の「異常性」・「非現実性」が強調される傾向にありましたが、それには行き過ぎたところがあり、見直しが進んでいる、ということが指摘されています。もちろん、だからといって、いわゆる皇国史観に回帰するわけではありませんが。
第1部 建武政権とは何だったのか
●中井裕子「鎌倉時代後期の朝幕関係 朝廷は、後醍醐以前から改革に積極的だった!」P24~42
鎌倉時代の朝廷が、幕府の制度も取り入れつつ、訴訟制度などの改革に積極的だったことが指摘されています。鎌倉時代の朝廷の存在感が一般層には薄いのは、研究の本格化が1980年代になってからと、遅れていたことも背景にあるようです。このように改革に積極的だった鎌倉時代の朝廷を背景として後醍醐天皇は登場したのであり、当時としては特異な存在だったわけではない、ということが強調されています。また宗教面でも、文観の重用など後醍醐天皇の異端性が強調されたこともありましたが、この点でも、父である後宇多天皇の宗教政策との人脈的つながりが指摘されています。
●亀田俊和「建武政権の評価 「建武の新政」は、反動的なのか、進歩的なのか?」P43~63
建武政権にたいする各時代の評価・研究史を概観しています。建武政権が失敗だったとの評価は南北朝時代から定着しており、1911年になって公的に南朝が正統と認められても、南朝の「忠臣」たちは賛美され続けましたが、建武政権は失敗だった、との評価は変わりませんでした。この状況に強く異を唱えたのが平泉澄で、建武政権における諸改革を称賛しました。しかし一方で、建武政権と室町幕府の断絶性を極度に強調する弱点も有していました。戦後になって皇国史観から解放されると、建武政権は復古を目指す反動的なものだった、との評価が主流になりました。その後、建武政権の進歩的・急進的側面に注目する見解も提示されたものの、建武政権の復古・反動的側面と進歩・急進的側面のどちらを重視する立場でも、建武政権が時代に合わない非現実的な政策を遂行しようとしたことにより崩壊した、との見解は根強く存在し続けました。しかし近年では、鎌倉時代の朝廷・幕府との、さらには後の室町幕府との連続性が建武政権について指摘されるようになり、短命に終わったから非現実的な政権だった、との評価も見直されるようになってきているそうです。門外漢にも分かりやすい解説になっており、よいと思います。
●森幸夫「建武政権の官僚 建武政権を支えた旧幕府の武家官僚たち」P64~83
建武政権の官僚には鎌倉幕府の武家官僚も少なからずいた、ということが解説されています。建武政権と鎌倉幕府との連続性がここでも確認される、というわけです。もっとも、鎌倉幕府の武家官僚といっても、全員が建武政権で登用されたわけではなく、後醍醐天皇との関係が登用の基準になりました。鎌倉幕府滅亡まで幕府方として行動した人々は、建武政権では冷遇されたようです。また、鎌倉幕府でも六波羅探題の武家官僚は、家格よりも実務能力が優先されていたこともあり、建武政権で登用されることが多かったようです。建武政権は短期間で崩壊しましたが、建武政権で登用された武家官僚が室町幕府でも登用されることも多く、建武政権と室町幕府との連続性が窺えます。
●細川重男「後醍醐と尊氏の関係 足利尊氏は「建武政権」に不満だったのか?」P84~108
足利尊氏が建武政権を崩壊に追い込み、幕府を開設した背景として重要な、鎌倉時代の足利氏の位置づけを考察しています。源実朝の暗殺後、足利氏は源氏の嫡流とみなされており、その高い地位故に鎌倉幕府滅亡後に武家の棟梁として推戴された、という俗説は否定されています。鎌倉時代の足利氏は確かに高い家格を誇ったものの、それは源頼朝との姻戚関係およびその後の北条氏との代々の婚姻関係によるものでした。鎌倉時代の足利氏は源氏の嫡流とみなされていたわけではなく、尊氏が幕府を開設したのは、その実力・実績によるものでした。尊氏が建武政権から離反した理由については、当初から幕府再興を考えていたからではなく、弟である直義を救うためだったのではないか、と推測されています。
第2部 南朝に仕えた武将たち
●鈴木由美「北条氏と南朝 鎌倉幕府滅亡後も、戦いつづけた北条一族」P110~128
鎌倉幕府滅亡後、北条一族は滅亡したわけではなく、建武政権期~南北朝時代にかけての戦乱でしばしば重要な役割を果たしました。建武政権期以降には北条与党の蜂起が頻発しましたが、これについては、単に北条一族の残党が蜂起したというだけではなく、建武政権や足利氏に不満を抱く勢力が北条一族を旗頭とした、という側面もあるようです。また、北条一族が後醍醐天皇と結んで足利氏に対抗した理由として、足利氏を優遇していたにも関わらず裏切られた、という恨みがあったことも指摘されています。
●谷口雄太「新田氏と南朝 新田義貞は、足利尊氏と並ぶ「源家嫡流」だったのか?」P129~148
新田義貞に関する各時代の評価の変遷と、新田氏と足利氏の位置づけについて考察されています。新田義貞が名将なのか愚将なのか、という評価は、すでに『太平記』に両方の要素が盛り込まれて義貞の人物像が造形されているため、『太平記』に依拠したものになっている、と指摘されています。新田氏と足利氏の位置づけについて、同時代史料はほぼ新田氏を足利氏の一門としているのにたいして、『太平記』では両氏が同格だったとされていることに囚われて、今でも新田氏が足利氏の一門ではないことが自明視される傾向にあるとして、『太平記』史観が批判されています。
●大薮海「北畠氏と南朝 北畠親房は、保守的な人物だったのか?」P149~166
「時代の趨勢を見極められず、古い体制にこだわり続けた頑固な人物」とか「武士を軽んじていた」とか言われ、頑迷固陋な人物とされてきた北畠親房を再評価しています。親房は幕府や武士を全否定して見下していたのではなく、冷静に評価できるだけの見識の持ち主で、南朝の維持・発展のためには幕府の制度を取り入れたり、天皇を批判したりできる人物だった、と評価されています。
●生駒孝臣「楠木氏と南朝 楠木正成は、本当に“異端の武士”だったのか?」P167~183
戦前は大忠臣とされ、戦後は「悪党」であり異端的な武士との評価も提示された楠木正成の出自と楠木氏の位置づけについて、近年の研究成果を紹介しています。楠木氏は鎌倉幕府の御家人・得宗被官だった可能性が高く、「悪党」と呼ばれて、交通・流通や商業にも関与する異端的な武士だった、との見解も提示されるようになりました。しかし、「悪党」にはレッテル貼りとしての性格が強く、鎌倉時代の武士は西国でも東国でも交通・流通や商業にも関与する存在だったことが明らかになってきました。その意味で、正成は異端的な武士との評価には誇張があるようです。
第3部 南朝の実像
●花田卓司「建武政権・南朝の恩賞政策 建武政権と南朝は、武士に冷淡だったのか?」P186~204
建武政権は公家優先で武士を軽視し、冷遇したために短期間で崩壊した、との見解は今でも一般では根強いかもしれません。しかし、官位昇進や所領などの点で武士たちが冷遇されたわけではなく、建武政権は武士の権益を保護しようとしていた、と今では考えられています。建武政権が短期間で崩壊したのは、恩賞給付が進まなかったためなのですが、それは、公家が優先され武士が冷遇されていたからではなく、鎌倉幕府滅亡直前もしくは直後に幕府側から後醍醐天皇側に鞍替えした武士が多いこともあり、勲功認定が難航したからでした。また、恩賞としての官位授与など、建武政権の施策が後に室町幕府に継承されることもあり、建武政権が時代を先取りしていたところもあることが窺えます。
●杉山巖「南朝に仕えた廷臣たち 文書行政からみた<南朝の忠臣>は誰か?」P205~224
南朝の文書行政を支えた貴族たちについて分析されています。南朝の「忠臣」というと、楠木正成のような武士がおもに取り上げられ、貴族でも、北畠親房・顕家のように軍事面で貢献した人々が顕彰対象になる傾向があります。本書は、派手な武功があるわけではないものの、文書行政で南朝を支えた貴族たちが、おもに後宇多上皇と後醍醐天皇を支えた人々の子孫であることを明らかにし、北朝にたいして劣勢だった南朝の文書行政は、そうした貴族たちの縮小再生産により支えられていた、と指摘しています。また、人事などで不満を抱いていた北朝貴族の南朝への鞍替えの事例も紹介されています。
●大塚紀弘「中世の宗教と王権 後醍醐は、本当に<異形>の天皇だったのか?」P225~246
後醍醐天皇については、天皇在位中に自ら密教修法を執行した点など、特異な個性が強調され、「異形の王権」との評価も提示されています。しかし、密教の重視・禅僧や律僧の重用・中国仏教への関心などは中世の天皇に見られることであり、後醍醐天皇の宗教政策もおおむねこの枠内に止まり、特異的な個性も見られるものの、前後の政権と隔絶するほどの革新性はない、と指摘されています。また、後醍醐天皇はその特異性により一時的な求心力を得たものの、新たな皇統・政権を宗教的に支える権威の源泉を掘り当てることはできなかった、とも指摘されています。
第4部 南朝のその後
●石橋一展「関東・奥羽情勢と南北朝内乱 鎌倉府と「南朝方」の対立関係は、本当にあったのか?」P248~2666
鎌倉幕府滅亡直前~南北朝時代最初期にかけて、東国は畿内・西国・北陸と比較すると穏やかでした。しかし、北畠親房の常陸上陸以降、東国では戦乱が激化・長期化します。当初は、反幕府・北朝勢力にとって求心力のあった南朝ですが、北朝の優位が確立していくと、求心力が失われます。それでも、鎌倉府は小山氏などの敵対勢力を南朝方として攻撃することがしばしばありました。これは、そうした勢力が南朝と提携して鎌倉府と対立したというよりも、鎌倉府が攻撃したい敵対勢力を南朝方と喧伝することにより、自らの軍事行動の正当化に利用した、という側面が大きかったようです。しかし、15世紀後半になると、南朝方とのレッテル貼りは行なわれなくなり、東国では南朝勢力が完全に没落した、と言えるようです。
●三浦龍昭「南朝と九州 「征西将軍府」は、独立王国を目指していたのか?」P267~286
後醍醐天皇は自分の息子たちを各地に派遣し、南朝の拠点を築こうとしましたが、おおむね失敗に終わりました。唯一成功したと言えそうなのは、九州に派遣された懐良親王で、その統治機関は「征西将軍府」と称されています。征西将軍府と建国されたばかりの明との通交も含めて、征西将軍府が自立を意図していたのか否か、まつ実質的に独立王国だったのか、という問題も提起されていますが、独立志向の根強い九州の諸勢力も、征西将軍府を飛び越して南朝と直接つながろうとする動きが後々まで見られるので、まだ確定的なことが言える状況ではないようです。
●久保木圭一「南北朝合一と、その後 「後南朝」の再興運動を利用した勢力とは?」P287~305
南北朝の合一以降も、和議の条件が履行されなかったことに不満を抱く南朝の皇族や旧南朝勢力による南朝再興運動(後南朝)は、15世紀末までたびたび見られました。ただ、そうした南朝再興運動の多くは、幕府・北朝に不満を抱く勢力が、自己正当化のために南朝皇族を利用した、という側面が強かったようで、散発的で微弱なものでした。じゅうらいの後南朝の研究は、個別の事象に関する解明が主題となる傾向にあったので、今後は室町時代の政治社会史の中での位置づけが課題となる、との指摘も注目されます。
●生駒哲郎「平泉澄と史学研究 戦前の南北朝時代研究と皇国史観」P306~327
戦前の南北朝時代の研究を概観し、文部省が設定した国定の歴史観である皇国史観を特定の研究者の見解と安易に同一視することのないよう、注意を喚起しています。また、皇国史観と一括りにされている研究者の間でも見解の相違がある、と指摘されています。たとえば、平泉澄とその弟子である平田俊春はともに皇国史観の代表的研究者とされていますが、天皇親政に絶対的価値を置き、院政も全否定する平田にたいして、明治維新に到達する過程として日本史を位置づける平泉は、皇室ではなく「国体護持」を主眼としていた、と指摘されています。
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