『天智と天武~新説・日本書紀~』第92話「祟りの歴史」
これは7月10日分の記事として掲載しておきます。『ビッグコミック』2016年7月25日号掲載分の感想です。前回は、淡海三船が見送るなか、行信が下野の薬師寺へと旅立つところで終了しました。今回は、それからおよそ100年後の859年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)、道詮が法隆寺(斑鳩寺)の僧侶たちに、夢殿の扉を開けさせようとしている場面から始まります。道詮は法隆寺夢殿の再興に尽力したと伝わっています。
法隆寺の僧侶たちは祟りを恐れ、決して開けてはならないという言い伝えがあると弁明して、扉を開けようとはしません。しかし、道詮の従者の僧侶は、お祓いをしているし、開けねば修理ができない、その方がご本尊(蘇我入鹿を象った仏像)も怒るだろう、と言って強引に開けさせます。法隆寺の僧侶たちは怯え、夢殿から離れますが、災いは何も起きず、夢殿の修理が行なわれました。しかし、入鹿を模した仏像を収めた厨子を開けようとする者はいませんでした。説明文にて、この10年後に東北地方を巨大地震が襲った(貞観地震)、と語られています。時は流れ、平安時代中期、栄華を極めた藤原道長は、病気がちの晩年を送っていました。悪夢を見た道長は陰陽師を呼び、その陰陽師は夢を占い、蘇我入鹿の祟りだと道長に告げます。道長は1023年に法隆寺に参詣し、その4年後に没します。ここで説明文にて、入鹿を模した仏像は、平安時代に広まった法華経信仰と聖徳太子の伝説とともに、救世観世音菩薩と呼ばれるようになった、と語られます。
さらに時は流れ、安土桃山時代、二人の兵士が法隆寺夢殿で入鹿を模した仏像を盗もうとしていました。その二人は、仏像が金と宝石で作られている、という噂を聞いたのでした。そこへ酔っぱらった法隆寺の僧侶(僧兵と言うべきでしょうか)が現れ、仏像に触れたら祟りにより必ず死ぬぞ、と警告します。この僧侶はやや行信に似ています。しかし、二人の兵士はその警告を無視し、鉄炮で僧侶を殺害します。僧侶から鍵を奪った二人の兵士は夢殿の中に入り、封印された厨子を開けて布を剥ぎ取って、入鹿を模した仏像が姿を現します。金箔の仏像に歓喜する二人でしたが、その直後に大地震が発生し、二人は建物と大木の下敷きとなって死にます。これを契機に、人々は入鹿を模した仏像(救世観音像)の祟りの強烈さを再認識し、言い伝えは真実として受容されていきました。怨霊封じ込めは強化され、仏像は白布で再度念入りにまかれ、新しい頑丈な厨子に入れ替えられ、四方の壁は抜き身の刀で固められました。
時は流れて1884年、岡倉天心とフェノロサが法隆寺の古書画を調査します。これで、第1回冒頭の場面とつながったことになります。法隆寺の僧侶たちが恐れるなか、救世観音像が姿を現しますが、とくに天変地異は起きませんでした。フェノロサは、秘仏にして迷信を定着させることにより、盗まれないようにしたのではないか、と推測します。フェノロサと天心は救世観音像の調査を進めます。
時は流れて現代、法隆寺夢殿を多くの観光客が訪れています。団体旅行のガイドと思われる女性が、夢殿は聖徳太子ゆかりの八角円堂で、聖徳太子が昼寝をしたり本を読んだりし、聖徳太子を象った救世観音像は1400年もの間、ずっと秘仏とされてきた、と説明します。説明文にて、天武天皇(大海人皇子)の系統は光明皇后(安宿媛)と聖武天皇(首皇子)の娘である称徳天皇(孝謙天皇、阿倍内親王)までで途絶えたものの、天智天皇(中大兄皇子)の系統は今にまで続き、昭和天皇の后である香淳皇后は藤原氏の末裔であり(香淳皇后は、藤原氏の血を濃厚に継承していることは間違いないものの、宮家出身なので、違和感のある表現です)、藤原氏は奈良時代から綿々と天皇家に子女を嫁がせ、最近まで外戚の地位を保ち続けた、と語られるところで今回は終了です。
今回は、蘇我入鹿を象った仏像をめぐる祟りの歴史が駆け足で語られました。初回冒頭の明治時代の法隆寺調査は最終回かその直前で描かれると予想していたので、今回描かれたのは予想の範囲内でしたが、貞観年間や藤原道長の時代、さらには安土桃山時代まで、救世観音像と祟りの歴史が駆け足気味とはいえ描かれたのは意外でした。平安時代の陰陽師が蘇我入鹿の祟りだと判断しているわけですから、(作中世界での)真実は一部の人に密かに語り継がれていた、という設定なのでしょうか。
予告は、「次号、最終回!!」となっており、ついに最終回を迎えることになりました。何とも寂しいものです。行信が左遷された後、行信か誰かの回想という形で天武朝や持統朝の人間模様が描かれるのではないか、と微かな希望を抱いていたのですが、残念ながらそれは打ち砕かれてしまいました。私は諦めの悪い人間なので、この後、続編として『天武と持統』の連載が始まらないかな、と願っているのですが、実現することはないでしょう。せめて、天智天皇の最期と遺体の安置場所について明かしてもらいたいものですが、どうなるでしょうか。
法隆寺の僧侶たちは祟りを恐れ、決して開けてはならないという言い伝えがあると弁明して、扉を開けようとはしません。しかし、道詮の従者の僧侶は、お祓いをしているし、開けねば修理ができない、その方がご本尊(蘇我入鹿を象った仏像)も怒るだろう、と言って強引に開けさせます。法隆寺の僧侶たちは怯え、夢殿から離れますが、災いは何も起きず、夢殿の修理が行なわれました。しかし、入鹿を模した仏像を収めた厨子を開けようとする者はいませんでした。説明文にて、この10年後に東北地方を巨大地震が襲った(貞観地震)、と語られています。時は流れ、平安時代中期、栄華を極めた藤原道長は、病気がちの晩年を送っていました。悪夢を見た道長は陰陽師を呼び、その陰陽師は夢を占い、蘇我入鹿の祟りだと道長に告げます。道長は1023年に法隆寺に参詣し、その4年後に没します。ここで説明文にて、入鹿を模した仏像は、平安時代に広まった法華経信仰と聖徳太子の伝説とともに、救世観世音菩薩と呼ばれるようになった、と語られます。
さらに時は流れ、安土桃山時代、二人の兵士が法隆寺夢殿で入鹿を模した仏像を盗もうとしていました。その二人は、仏像が金と宝石で作られている、という噂を聞いたのでした。そこへ酔っぱらった法隆寺の僧侶(僧兵と言うべきでしょうか)が現れ、仏像に触れたら祟りにより必ず死ぬぞ、と警告します。この僧侶はやや行信に似ています。しかし、二人の兵士はその警告を無視し、鉄炮で僧侶を殺害します。僧侶から鍵を奪った二人の兵士は夢殿の中に入り、封印された厨子を開けて布を剥ぎ取って、入鹿を模した仏像が姿を現します。金箔の仏像に歓喜する二人でしたが、その直後に大地震が発生し、二人は建物と大木の下敷きとなって死にます。これを契機に、人々は入鹿を模した仏像(救世観音像)の祟りの強烈さを再認識し、言い伝えは真実として受容されていきました。怨霊封じ込めは強化され、仏像は白布で再度念入りにまかれ、新しい頑丈な厨子に入れ替えられ、四方の壁は抜き身の刀で固められました。
時は流れて1884年、岡倉天心とフェノロサが法隆寺の古書画を調査します。これで、第1回冒頭の場面とつながったことになります。法隆寺の僧侶たちが恐れるなか、救世観音像が姿を現しますが、とくに天変地異は起きませんでした。フェノロサは、秘仏にして迷信を定着させることにより、盗まれないようにしたのではないか、と推測します。フェノロサと天心は救世観音像の調査を進めます。
時は流れて現代、法隆寺夢殿を多くの観光客が訪れています。団体旅行のガイドと思われる女性が、夢殿は聖徳太子ゆかりの八角円堂で、聖徳太子が昼寝をしたり本を読んだりし、聖徳太子を象った救世観音像は1400年もの間、ずっと秘仏とされてきた、と説明します。説明文にて、天武天皇(大海人皇子)の系統は光明皇后(安宿媛)と聖武天皇(首皇子)の娘である称徳天皇(孝謙天皇、阿倍内親王)までで途絶えたものの、天智天皇(中大兄皇子)の系統は今にまで続き、昭和天皇の后である香淳皇后は藤原氏の末裔であり(香淳皇后は、藤原氏の血を濃厚に継承していることは間違いないものの、宮家出身なので、違和感のある表現です)、藤原氏は奈良時代から綿々と天皇家に子女を嫁がせ、最近まで外戚の地位を保ち続けた、と語られるところで今回は終了です。
今回は、蘇我入鹿を象った仏像をめぐる祟りの歴史が駆け足で語られました。初回冒頭の明治時代の法隆寺調査は最終回かその直前で描かれると予想していたので、今回描かれたのは予想の範囲内でしたが、貞観年間や藤原道長の時代、さらには安土桃山時代まで、救世観音像と祟りの歴史が駆け足気味とはいえ描かれたのは意外でした。平安時代の陰陽師が蘇我入鹿の祟りだと判断しているわけですから、(作中世界での)真実は一部の人に密かに語り継がれていた、という設定なのでしょうか。
予告は、「次号、最終回!!」となっており、ついに最終回を迎えることになりました。何とも寂しいものです。行信が左遷された後、行信か誰かの回想という形で天武朝や持統朝の人間模様が描かれるのではないか、と微かな希望を抱いていたのですが、残念ながらそれは打ち砕かれてしまいました。私は諦めの悪い人間なので、この後、続編として『天武と持統』の連載が始まらないかな、と願っているのですが、実現することはないでしょう。せめて、天智天皇の最期と遺体の安置場所について明かしてもらいたいものですが、どうなるでしょうか。
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