三浦佑之『風土記の世界』
これは6月3日分の記事として掲載しておきます。岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2016年4月に刊行されました。本書は風土記の入門書になっていますが、たんに風土記の成立事情や内容を取り上げるだけではなく、おもに『日本書紀』を対象として、風土記が8世紀前半の日本列島社会においてどのように位置づけられるのか、という点も重視しているのが特徴となっています。
本書は、風土記は朝廷が各国に提出を命じた公文書(解)であり、本来、『日本書』の地理志を構成するはずだった、と把握しています。本書は、8世紀前半頃までの朝廷は、中華地域の史書と同様の体裁の『日本書』を編纂しようとした、との見解を提示しています。『日本書紀』は、『続日本紀』では『日本紀』とされており、『日本書紀』か『日本紀』かという問題は古くから議論されてきました。本書は、720年に成立したのは『日本書』の「紀(帝紀)」であり、『日本書』の志や列伝の編纂も当初は意図されていたものの、何らかの理由で中断してしまった、と推測しています。
『日本書』の志とされるはずだった風土記は、当時の「中央政府」たる朝廷の意向が強く反映されているものの、「ひとつの日本」に括られる途中の日本列島を反映して、「中央」に包摂されていく様相と、「中央」に抵抗し続ける固有の姿が反映されている、と本書は指摘します。また、朝廷が各国に地名の由来や特産品や土地の肥沃状態を報告するよう命じたのは『日本書紀』の編纂前だったため、現存風土記には『日本書紀』に見られる「公的認識」とは異なる話も見られる、と本書は指摘します。
その代表例が、有名な事例でしょうが、常陸国風土記の「倭武天皇」です。7世紀以降の「中央」権力による史書編纂の試みのなかで、皇位継承の順序やその顔ぶれは何度も変転し揺れ動いていたのではないか、と本書は推測しています。常陸国風土記の「倭武天皇」と『古事記』の倭建命と『日本書紀』の日本武尊はその揺れの中にいた、というわけです。なお本書は、『古事記』について、『日本書紀(日本紀伝)』や風土記とは異なり、8世紀の朝廷の「史」の本流から逸脱している、との見解を提示しています。著者の『古事記』についての詳細な見解も、いつか読む必要がありそうです。
本書は、風土記は朝廷が各国に提出を命じた公文書(解)であり、本来、『日本書』の地理志を構成するはずだった、と把握しています。本書は、8世紀前半頃までの朝廷は、中華地域の史書と同様の体裁の『日本書』を編纂しようとした、との見解を提示しています。『日本書紀』は、『続日本紀』では『日本紀』とされており、『日本書紀』か『日本紀』かという問題は古くから議論されてきました。本書は、720年に成立したのは『日本書』の「紀(帝紀)」であり、『日本書』の志や列伝の編纂も当初は意図されていたものの、何らかの理由で中断してしまった、と推測しています。
『日本書』の志とされるはずだった風土記は、当時の「中央政府」たる朝廷の意向が強く反映されているものの、「ひとつの日本」に括られる途中の日本列島を反映して、「中央」に包摂されていく様相と、「中央」に抵抗し続ける固有の姿が反映されている、と本書は指摘します。また、朝廷が各国に地名の由来や特産品や土地の肥沃状態を報告するよう命じたのは『日本書紀』の編纂前だったため、現存風土記には『日本書紀』に見られる「公的認識」とは異なる話も見られる、と本書は指摘します。
その代表例が、有名な事例でしょうが、常陸国風土記の「倭武天皇」です。7世紀以降の「中央」権力による史書編纂の試みのなかで、皇位継承の順序やその顔ぶれは何度も変転し揺れ動いていたのではないか、と本書は推測しています。常陸国風土記の「倭武天皇」と『古事記』の倭建命と『日本書紀』の日本武尊はその揺れの中にいた、というわけです。なお本書は、『古事記』について、『日本書紀(日本紀伝)』や風土記とは異なり、8世紀の朝廷の「史」の本流から逸脱している、との見解を提示しています。著者の『古事記』についての詳細な見解も、いつか読む必要がありそうです。
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