『天智と天武~新説・日本書紀~』第91話「厭魅の罪」
これは6月26日分の記事として掲載しておきます。『ビッグコミック』2016年7月10日号掲載分の感想です。前回は、蘇我入鹿を象った仏像を法隆寺夢殿に封印した行信が、仏像を永遠に見張らなければならない、と力強く誓うところで終了しました。今回は、行信が渡来人に造らせておいた自身の像を鬼が出入りする艮(北東・鬼門)の方角に置き、蘇我入鹿を象った仏像を塞ごうとする場面から始まります。未来永劫、蘇我入鹿の怨霊が出て来ないよう、自分の代わりに見張ってくれるだろう、と行信は甥の淡海三船に言います。行信と三船が夢殿を閉じようとしたところ、光明皇后(安宿媛)が現れます。終わったのか、と光明皇后に尋ねられた行信は、あとは夢殿に鍵をかけてしまうだけだ、と答えます。何をしたのか、あえて聞かない、災いは二度と起きない、とそなたを信じるだけだ、と光明皇后は行信に言います。行信と三船は夢殿を閉じ、これで入鹿の怨霊の封じ込めはひとまず完了します。
その翌日かそれから間もないある日、平城京では光明皇后が夫である聖武天皇(首皇子)を見舞っていました。聖武天皇は気分がよいと言い、今後はそのような日が続く気がする、と光明皇后は言います。光明皇后は聖武天皇に、共に出家するよう進言します。大僧正の行基が戒師となってくれるので、これからは御仏に仕え、皇位は二人の娘である安倍(阿倍)内親王に譲り、政治から離れれば病も癒えるに違いない、と光明皇后は言います。
こうして出家した聖武天皇は顔色もよくなり、光明皇后の言う通りだった、と満足そうです。そんな聖武天皇の気がかりは、早く大仏の姿を拝みたいものの、大仏を装飾する金が不足している、ということでした。すると、749年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)、陸奥国から金が献上された、との報告が届きます。説明文により、行信が蘇我入鹿を象った仏像を封じ込めたのがこの前年の748年だと判明します。749年には瑞祥が多く、4月には天平感宝と改元されます。749年7月に聖武天皇が譲位して安倍内親王が即位し(孝謙天皇)、さらに天平勝宝と改元されます。孝謙天皇は母である光明皇后に似た感じです。光明皇后は皇太后となり、皇后宮職を紫微中台と改称し、甥である藤原仲麻呂(恵美押勝)を長官として、実質的権限を光明皇太后と仲麻呂が握ります。仲麻呂は父の武智麻呂に似た感じです。
その後しばらく経過し、光明皇太后が法隆寺夢殿を訪れます。光明皇太后は上機嫌で、行信に感謝します。行信が蘇我入鹿を象った仏像を法隆寺夢殿に封印して以降、災いが起きないどころかよいことづくめだ、というわけです。光明皇太后は行信の功績に報いるべく、さまざまな品を用意します。このようなことをされては困る、と行信は光明皇太后に言いますが、出家も紫微中台も行信の助言で上手くいっている、と光明皇太后は改めて行信に感謝します。しかし、光明皇太后の話によると、聖武太上天皇は光明皇太后から行信の功績を聞かされてはいるものの、大仏の完成にしか目が向いていないようです。
大仏の工事現場では鍍金を始めてから人足たちの間で疫病が蔓延している(金メッキに含まれる水銀による中毒のため)と聞きますが、と行信に尋ねられた光明皇太后は、それは祟りではない、人足たちに怪我や病気はつきもので些細なことだ、と答えます。光明皇太后はさらに、行信ほど実力のある僧侶を知らない、行基が亡くなった今、そなたが僧官の最高位たる大僧正となる日も近い、と高揚した様子で行信に言います。三船は、それぐらい当然だ、と得意気です。行信は、そのようなお褒めの言葉を頂いただけで充分です、と返答します。聖武上皇が一日でも長く生きられるよう頼む、この国の安寧はそなたにかかっている、と光明皇太后は行信に言い、立ち去ります。しかし行信は光明皇太后に冷ややかで、この国というより光明皇太后自身と藤原家の安寧のためではないのか、疫病で苦しむ人足の命は虫けら同然か、と呟きます。慈悲深いと伝わり、作中でも一応はそのように描かれていた光明皇太后の、視野の狭さというか底の浅さが露呈したやり取りだったように思われます。行信は早くから光明皇太后の人間性を見抜いていた、ということなのでしょう。
752年4月9日、仏教伝来以降では最大の法会となる、東大寺大仏開眼供養会が行なわれました。光明皇太后と聖武上皇は感激した様子で涙を流し、その両親の隣で孝謙(称徳)天皇も満足そうです。この時の僧侶たちの噂話で、唐から屈指の高僧を日本に招こうとしていることが分かります。その高僧とは盲目となった鑑真で、754年1月23日、大宰府に到着します。同年2月4日、鑑真は平城京に入り、同年4月5日に東大寺で光明皇太后・聖武上皇・孝謙天皇と対面します。ここで光明皇太后・聖武上皇・孝謙天皇は鑑真より菩薩戒を受けます。命も顧みず来日した鑑真に孝謙天皇が感謝すると、戒律を広めるためなら命は惜しくない、と鑑真は答えます。何と尊い言葉だ、と光明皇太后は感激します。
鑑真は聖武上皇に、巨大な廬舎那仏を造った理由を尋ねます。すると聖武上皇はにこやかに、天下太平のためであり、災厄をもたらす祟り神を仏様が鎮めてくださると願って造った、と答えます。鑑真は祟り神の意味がよく理解できない様子です。聖武上皇はさらに、おかげで怨霊も怖れをなしたのか祟りも治まりつつあると説明し、大仏の完成が近づくにつれて聖武上皇の体調もだんだんとよくなった、と光明皇太后が言うと、そんなことはあり得ない、と言って鑑真は笑います。鑑真は真剣な表情になり、怨霊の祟りで災いは起きない、ましてや怨霊が天下太平に関わるとは笑止千万だ、と言って光明皇太后と聖武上皇を一喝します。天下太平を左右するのは君主の徳の問題で病は不養生の現れである、と言った鑑真は、日本は唐から海で隔てられて文明が届かないとはいえ、なんとも・・・といって呆れた様子です。とにかく怨霊や祟りは人間が作り出した妄想であり、唐には怨霊はいない、そんなものに君主が惑わされるとは情けない、出家の身で仏の教えを忘れたのか、この大仏様にも失礼だ、と鑑真は光明皇太后と聖武上皇を叱責します。光明皇太后と聖武上皇は衝撃を受け、恥じ入った様子です。
その後、754年11月、大僧都の行信は下野の薬師寺に赴くことになります。法隆寺夢殿から下野へと向かおうとする行信に、左遷ではありませんか、光明皇太后はあれほど叔父上を称えておいて左遷するとはどういう神経なのだ、と三船は怒りを吐露します。すると行信は冷静に、自分の代わりができたにすぎない、と言います。しかし厭魅の罪を着せるとは恩知らずにも程がある、叔父上がいつ人を呪い殺そうとしたのだ、光明皇后の依頼により命がけで怨霊封じをしただけであり、その犠牲的行為をくだらない罪にすり替えるとはどういうことだ、今の平安は叔父上のおかげであり、そんなことも忘れた光明皇太后こそ鬼だ、と三船は怒り、嘆き悲しみます。そんな三船を行信は宥め、自分は鬼に従って仏像を傷つけた阿呆だから、怨霊よりも罪深い人間の一人として罪を償わねばならない、と言います。ここで、法隆寺に残されている大般若経など2700巻もの写経の跋は、767年9月5日に完成し、行信が発願したと伝えている、との説明文が挿入されています。下野に向かう行信を法隆寺夢殿で三船が見送るというところで、今回は終了です。
今回は、行信が左遷となるところまで描かれました。行信の左遷をどう説明するのか、前回までは予想しづらかったのですが、唐から来日した鑑真を絡めるとは、なかなか上手い歴史創作だと思います。正直なところ、「解決編」というか「行信編」はやや間延びした感もあったのですが、今回はなかなか密度が濃く、全体的にはなかなか面白い話になったように思います。ただ、次号予告は「怨霊との戦いはまだ終わらず・・・!?」となっており、もう少し「行信編」が続くのかもしれません。
行信は光明皇后と藤原氏に冷ややかな視線を向けており、藤原(中臣)鎌足(豊璋)とともに蘇我入鹿を殺害した、曾祖父である天智天皇(中大兄皇子)の名誉を守るために、蘇我入鹿の分身を創作して聖人たる聖徳太子として、国家の安寧を真剣に願っていた、と単純に考えることはできないように思います。ましてや、行信は作中設定では天智天皇の子孫であるだけではなく、蘇我入鹿の子孫でもあるわけですから、三船にもまだ明かしていない意図があるように思います。次回は、その点も含めて行信の真意が明かされるのではないか、と期待しています。
行信の真意については、まず、もはや国家の立場では入鹿を聖人として称揚することはできないものの、せめて法隆寺の再興と入鹿の分身の創作という形で入鹿の名誉を回復し、天智天皇と入鹿の出会いから始まる、自分の祖先たちの長きにわたる因縁を終結させたい、ということがあるように思います。次に、蘇我入鹿を象った仏像を法隆寺夢殿に安置しても、時の権力者たちに災いが続いたので、これを「大怨霊」たる蘇我入鹿の強力な力の故だと改めて強調し、蘇我入鹿を象った仏像を、蘇我入鹿を敵視する藤原氏から守り続けるために大怨霊として封印した、ということではないかと思います。まあ、私の推測は的外れで、単純に、行信は自分が祟り殺されることを覚悟のうえで、国家安寧のために強力な怨霊を本気で鎮めようとした、という話になるのかもしれませんが。
予告からは、次号で最終回というわけではないようです。気になるのは、単行本第10集と第11集が再来月(2016年8月)30日に発売と公表されたことです。これまで、単行本が2冊同時に刊行されることはなかったのですが、これで一気に完結ということでしょうか。そうすると、2016年8月25日発売号分まで収録される可能性があるわけで、残りは最大で4話でしょうか。そうすると、単行本第10集は78話から始まりますから、単行本第10・11集で計16話収録となり、それぞれ8話ずつ収録となりそうです。もしそうならば、残り4話で何とか天智帝(中大兄皇子)の最期と遺体の安置場所について明かしてもらいたいものです。できれば、単行本で第12集以降も続き、過去に戻るという形で天武朝・持統朝・文武朝の人間模様も描いてもらいたかったのですが、残念ながらそれは無理なようです。
その翌日かそれから間もないある日、平城京では光明皇后が夫である聖武天皇(首皇子)を見舞っていました。聖武天皇は気分がよいと言い、今後はそのような日が続く気がする、と光明皇后は言います。光明皇后は聖武天皇に、共に出家するよう進言します。大僧正の行基が戒師となってくれるので、これからは御仏に仕え、皇位は二人の娘である安倍(阿倍)内親王に譲り、政治から離れれば病も癒えるに違いない、と光明皇后は言います。
こうして出家した聖武天皇は顔色もよくなり、光明皇后の言う通りだった、と満足そうです。そんな聖武天皇の気がかりは、早く大仏の姿を拝みたいものの、大仏を装飾する金が不足している、ということでした。すると、749年(西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)、陸奥国から金が献上された、との報告が届きます。説明文により、行信が蘇我入鹿を象った仏像を封じ込めたのがこの前年の748年だと判明します。749年には瑞祥が多く、4月には天平感宝と改元されます。749年7月に聖武天皇が譲位して安倍内親王が即位し(孝謙天皇)、さらに天平勝宝と改元されます。孝謙天皇は母である光明皇后に似た感じです。光明皇后は皇太后となり、皇后宮職を紫微中台と改称し、甥である藤原仲麻呂(恵美押勝)を長官として、実質的権限を光明皇太后と仲麻呂が握ります。仲麻呂は父の武智麻呂に似た感じです。
その後しばらく経過し、光明皇太后が法隆寺夢殿を訪れます。光明皇太后は上機嫌で、行信に感謝します。行信が蘇我入鹿を象った仏像を法隆寺夢殿に封印して以降、災いが起きないどころかよいことづくめだ、というわけです。光明皇太后は行信の功績に報いるべく、さまざまな品を用意します。このようなことをされては困る、と行信は光明皇太后に言いますが、出家も紫微中台も行信の助言で上手くいっている、と光明皇太后は改めて行信に感謝します。しかし、光明皇太后の話によると、聖武太上天皇は光明皇太后から行信の功績を聞かされてはいるものの、大仏の完成にしか目が向いていないようです。
大仏の工事現場では鍍金を始めてから人足たちの間で疫病が蔓延している(金メッキに含まれる水銀による中毒のため)と聞きますが、と行信に尋ねられた光明皇太后は、それは祟りではない、人足たちに怪我や病気はつきもので些細なことだ、と答えます。光明皇太后はさらに、行信ほど実力のある僧侶を知らない、行基が亡くなった今、そなたが僧官の最高位たる大僧正となる日も近い、と高揚した様子で行信に言います。三船は、それぐらい当然だ、と得意気です。行信は、そのようなお褒めの言葉を頂いただけで充分です、と返答します。聖武上皇が一日でも長く生きられるよう頼む、この国の安寧はそなたにかかっている、と光明皇太后は行信に言い、立ち去ります。しかし行信は光明皇太后に冷ややかで、この国というより光明皇太后自身と藤原家の安寧のためではないのか、疫病で苦しむ人足の命は虫けら同然か、と呟きます。慈悲深いと伝わり、作中でも一応はそのように描かれていた光明皇太后の、視野の狭さというか底の浅さが露呈したやり取りだったように思われます。行信は早くから光明皇太后の人間性を見抜いていた、ということなのでしょう。
752年4月9日、仏教伝来以降では最大の法会となる、東大寺大仏開眼供養会が行なわれました。光明皇太后と聖武上皇は感激した様子で涙を流し、その両親の隣で孝謙(称徳)天皇も満足そうです。この時の僧侶たちの噂話で、唐から屈指の高僧を日本に招こうとしていることが分かります。その高僧とは盲目となった鑑真で、754年1月23日、大宰府に到着します。同年2月4日、鑑真は平城京に入り、同年4月5日に東大寺で光明皇太后・聖武上皇・孝謙天皇と対面します。ここで光明皇太后・聖武上皇・孝謙天皇は鑑真より菩薩戒を受けます。命も顧みず来日した鑑真に孝謙天皇が感謝すると、戒律を広めるためなら命は惜しくない、と鑑真は答えます。何と尊い言葉だ、と光明皇太后は感激します。
鑑真は聖武上皇に、巨大な廬舎那仏を造った理由を尋ねます。すると聖武上皇はにこやかに、天下太平のためであり、災厄をもたらす祟り神を仏様が鎮めてくださると願って造った、と答えます。鑑真は祟り神の意味がよく理解できない様子です。聖武上皇はさらに、おかげで怨霊も怖れをなしたのか祟りも治まりつつあると説明し、大仏の完成が近づくにつれて聖武上皇の体調もだんだんとよくなった、と光明皇太后が言うと、そんなことはあり得ない、と言って鑑真は笑います。鑑真は真剣な表情になり、怨霊の祟りで災いは起きない、ましてや怨霊が天下太平に関わるとは笑止千万だ、と言って光明皇太后と聖武上皇を一喝します。天下太平を左右するのは君主の徳の問題で病は不養生の現れである、と言った鑑真は、日本は唐から海で隔てられて文明が届かないとはいえ、なんとも・・・といって呆れた様子です。とにかく怨霊や祟りは人間が作り出した妄想であり、唐には怨霊はいない、そんなものに君主が惑わされるとは情けない、出家の身で仏の教えを忘れたのか、この大仏様にも失礼だ、と鑑真は光明皇太后と聖武上皇を叱責します。光明皇太后と聖武上皇は衝撃を受け、恥じ入った様子です。
その後、754年11月、大僧都の行信は下野の薬師寺に赴くことになります。法隆寺夢殿から下野へと向かおうとする行信に、左遷ではありませんか、光明皇太后はあれほど叔父上を称えておいて左遷するとはどういう神経なのだ、と三船は怒りを吐露します。すると行信は冷静に、自分の代わりができたにすぎない、と言います。しかし厭魅の罪を着せるとは恩知らずにも程がある、叔父上がいつ人を呪い殺そうとしたのだ、光明皇后の依頼により命がけで怨霊封じをしただけであり、その犠牲的行為をくだらない罪にすり替えるとはどういうことだ、今の平安は叔父上のおかげであり、そんなことも忘れた光明皇太后こそ鬼だ、と三船は怒り、嘆き悲しみます。そんな三船を行信は宥め、自分は鬼に従って仏像を傷つけた阿呆だから、怨霊よりも罪深い人間の一人として罪を償わねばならない、と言います。ここで、法隆寺に残されている大般若経など2700巻もの写経の跋は、767年9月5日に完成し、行信が発願したと伝えている、との説明文が挿入されています。下野に向かう行信を法隆寺夢殿で三船が見送るというところで、今回は終了です。
今回は、行信が左遷となるところまで描かれました。行信の左遷をどう説明するのか、前回までは予想しづらかったのですが、唐から来日した鑑真を絡めるとは、なかなか上手い歴史創作だと思います。正直なところ、「解決編」というか「行信編」はやや間延びした感もあったのですが、今回はなかなか密度が濃く、全体的にはなかなか面白い話になったように思います。ただ、次号予告は「怨霊との戦いはまだ終わらず・・・!?」となっており、もう少し「行信編」が続くのかもしれません。
行信は光明皇后と藤原氏に冷ややかな視線を向けており、藤原(中臣)鎌足(豊璋)とともに蘇我入鹿を殺害した、曾祖父である天智天皇(中大兄皇子)の名誉を守るために、蘇我入鹿の分身を創作して聖人たる聖徳太子として、国家の安寧を真剣に願っていた、と単純に考えることはできないように思います。ましてや、行信は作中設定では天智天皇の子孫であるだけではなく、蘇我入鹿の子孫でもあるわけですから、三船にもまだ明かしていない意図があるように思います。次回は、その点も含めて行信の真意が明かされるのではないか、と期待しています。
行信の真意については、まず、もはや国家の立場では入鹿を聖人として称揚することはできないものの、せめて法隆寺の再興と入鹿の分身の創作という形で入鹿の名誉を回復し、天智天皇と入鹿の出会いから始まる、自分の祖先たちの長きにわたる因縁を終結させたい、ということがあるように思います。次に、蘇我入鹿を象った仏像を法隆寺夢殿に安置しても、時の権力者たちに災いが続いたので、これを「大怨霊」たる蘇我入鹿の強力な力の故だと改めて強調し、蘇我入鹿を象った仏像を、蘇我入鹿を敵視する藤原氏から守り続けるために大怨霊として封印した、ということではないかと思います。まあ、私の推測は的外れで、単純に、行信は自分が祟り殺されることを覚悟のうえで、国家安寧のために強力な怨霊を本気で鎮めようとした、という話になるのかもしれませんが。
予告からは、次号で最終回というわけではないようです。気になるのは、単行本第10集と第11集が再来月(2016年8月)30日に発売と公表されたことです。これまで、単行本が2冊同時に刊行されることはなかったのですが、これで一気に完結ということでしょうか。そうすると、2016年8月25日発売号分まで収録される可能性があるわけで、残りは最大で4話でしょうか。そうすると、単行本第10集は78話から始まりますから、単行本第10・11集で計16話収録となり、それぞれ8話ずつ収録となりそうです。もしそうならば、残り4話で何とか天智帝(中大兄皇子)の最期と遺体の安置場所について明かしてもらいたいものです。できれば、単行本で第12集以降も続き、過去に戻るという形で天武朝・持統朝・文武朝の人間模様も描いてもらいたかったのですが、残念ながらそれは無理なようです。
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