竹下節子『キリスト教の真実―西洋近代をもたらした宗教思想』
これは6月24日分の記事として掲載しておきます。ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2012年4月に刊行されました。現代のグローバル化された「国際社会」における暗黙の「利用規約」にはキリスト教があるので、それを理解しなければならないのに、近代世界の成立にさいして、キリスト教というかカトリックの果たした役割が不当に評価され貶められている、というのが本書の基調となっています。現代日本人向けのカトリック復権・擁護の書だと言ってしまうと、本書を過小評価しているというか、誤読していることになりそうですが、そのように思えてしまうのは、私が子供の頃からキリスト教に否定的な印象を抱いてきており、今でも偏見が強いためなのかもしれません。
確かに、カトリックは近代化を妨害する側にあった、とでもいうような歴史認識は、現代日本社会の一般層においてそれなりに浸透しているかもしれません。本書がイスラーム勢力の「蛮行」例を具体的に挙げる一方で、カトリック側の「蛮行」や問題点について、一応否定しないとはいえ、結局はほとんど具体的に言及していないのは、「カトリック保守反動史観」とでも言うべき歴史認識への「対抗言論」だからだ、と考えると強く批判することはできないかな、とも思います。
こうした近代化においてカトリックの役割を否定的に見る歴史観が現代日本社会でそれなりに根づいている要因として、本書は次のように指摘しています。それは、現代日本社会においてクリスチャンの割合が低く、多くの日本人にとってキリスト教は馴染みの薄い宗教だからではなく、ヨーロッパ近代の形成にさいして、前近代においてキリスト教、とくにカトリックが果たした役割を、プロテスタントや近代主義者を中心としてヨーロッパ人自らが意識的に無視・糊塗・隠蔽し、近代以降の日本社会がそうした歴史観を受容してきたからだ、というわけです。
この「カトリック保守反動史観」としてよく言われているのが、ヨーロッパはギリシア・ローマの偉大な古典文明をルネサンス期にイスラーム勢力経由で「再発見」することで近代化を進めていったのであり、カトリックはそれまで古典文明を抑圧していたのだ、とする見解です。本書は、初期キリスト教がギリシア語圏の知識人の支持をしだいに受けていき、古代から中世にかけて、カトリック教会が古典文明の成果を保存・研究していたことを指摘しています。それと関連して、本書は中世ヨーロッパにおける古典文明研究にイスラーム勢力の果たした役割が過大評価されているのではないか、との見解を提示しています。イスラーム圏のいくつかの都市におけるごく短い期間を除けば、ヨーロッパ近代科学の基盤となった古典文明は、中世においてキリスト教修道士たちがゲルマン人やアラブ人やサラセン人やフン族らの侵入者による破壊活動から必死に守ることで命脈を保ってきた、というわけです。この問題は私の見識ではとても判断ができないので、今後の課題となります。
「カトリック保守反動史観」を批判する本書は、近代化にキリスト教、とくにカトリックの果たした役割を強調します。その前提となっているのが、「普遍的犠牲愛」と、「利他に基づく自立」を果たすところから始まる「自由」という教義です。本書は、キリスト教成立以前の古代ギリシア・ローマ世界とヘレニズム世界における思想状況を概観し、キリスト教の成立が古代(ユーラシア西方)世界における画期であったことを強調します。「普遍的犠牲愛」が教義となったことにより、禁止行為を指定する戒律主義と決別し、一歩進んだ倫理観が形成されていき、その「普遍性」への志向がヨーロッパ近代を準備した、というわけです。カトリックは、名称の由来からしても「普遍性」を強く志向していたということで、本書はカトリックの「名誉回復」を図ろうとしているのでしょうか(邪推かもしれませんが)。
また、ギリシア世界でアリストテレス以前に見られたような、「真理」は人間から分断されているという決定論的な考えから抜け出したアリストテレス的科学観をカトリックが神学の基礎にして、さらに各都市国家内部の「共通善」だけが道徳規範の合意や言論の方法を規定するアリストテレス的科学観の限界をカトリックが乗り越えていったことも、近代化における前提としてキリスト教の「功績」とされています。カトリックがアリストテレス以前のギリシア世界に見られたこうした決定論的世界を脱却できた前提として、この世のすべては神の被造物であるから、それを人間が理解できないわけはない、とする「人間中心的」なカトリックの思考を本書は指摘しています。本書は、「ユマニスム」は「人間中心主義」の一神教から始まったキリスト教のそうした世界観からの延長に形成されたのであり、ルネサンス期における古代ギリシアの再発見により形成されたのではない、と主張しています。
キリスト教の「普遍性」志向は、「進歩主義」・「基本的人権」・「ユマニスム」という精神態度をもつヨーロッパ近代を少しずつ形成していったとする本書は、ヨーロッパの近代化にさいして基準となったキリスト教の設計思想は、カトリックとプロテスタントのどちらに由来するのかにより違いがある、と指摘します。本書は前者をフランス共和国に、後者をアメリカ合衆国に代表させるような形で議論を進めていますが、とくに2001年の同時多発テロ以降の米国の迷走を強調し、フランス的な近代の在り様に今後の希望を託す、という論調が強いように思います。正直なところ、ここは私の見識では判断できないので、今後も考えていかねばなりません。
本書は全体的に、カトリックとフランスにかなり甘く、プロテスタントやイスラームや米国に厳しい論調になっているように思うのですが、これは私の偏見かもしれません。現代日本社会にたいしても、プロテスタントや近代主義者の「創り上げた物語」をそのまま受容するのではなく、キリスト教が近代社会の形成に果たした役割を根本から考えなければならない、と厳しい視線が向けられています。それなりに面白く読めましたが、本書の少なからぬ見解については、判断を保留するというか今後も考えていく必要があるな、と強く感じたものです。なお、明らかな誤りとしては、1220年に即位したフリードリヒ2世が、神聖ローマ皇帝ではなく東ローマ皇帝とされている記述があります(P108)。第2刷以降があれば、訂正されているかもしれませんが。
確かに、カトリックは近代化を妨害する側にあった、とでもいうような歴史認識は、現代日本社会の一般層においてそれなりに浸透しているかもしれません。本書がイスラーム勢力の「蛮行」例を具体的に挙げる一方で、カトリック側の「蛮行」や問題点について、一応否定しないとはいえ、結局はほとんど具体的に言及していないのは、「カトリック保守反動史観」とでも言うべき歴史認識への「対抗言論」だからだ、と考えると強く批判することはできないかな、とも思います。
こうした近代化においてカトリックの役割を否定的に見る歴史観が現代日本社会でそれなりに根づいている要因として、本書は次のように指摘しています。それは、現代日本社会においてクリスチャンの割合が低く、多くの日本人にとってキリスト教は馴染みの薄い宗教だからではなく、ヨーロッパ近代の形成にさいして、前近代においてキリスト教、とくにカトリックが果たした役割を、プロテスタントや近代主義者を中心としてヨーロッパ人自らが意識的に無視・糊塗・隠蔽し、近代以降の日本社会がそうした歴史観を受容してきたからだ、というわけです。
この「カトリック保守反動史観」としてよく言われているのが、ヨーロッパはギリシア・ローマの偉大な古典文明をルネサンス期にイスラーム勢力経由で「再発見」することで近代化を進めていったのであり、カトリックはそれまで古典文明を抑圧していたのだ、とする見解です。本書は、初期キリスト教がギリシア語圏の知識人の支持をしだいに受けていき、古代から中世にかけて、カトリック教会が古典文明の成果を保存・研究していたことを指摘しています。それと関連して、本書は中世ヨーロッパにおける古典文明研究にイスラーム勢力の果たした役割が過大評価されているのではないか、との見解を提示しています。イスラーム圏のいくつかの都市におけるごく短い期間を除けば、ヨーロッパ近代科学の基盤となった古典文明は、中世においてキリスト教修道士たちがゲルマン人やアラブ人やサラセン人やフン族らの侵入者による破壊活動から必死に守ることで命脈を保ってきた、というわけです。この問題は私の見識ではとても判断ができないので、今後の課題となります。
「カトリック保守反動史観」を批判する本書は、近代化にキリスト教、とくにカトリックの果たした役割を強調します。その前提となっているのが、「普遍的犠牲愛」と、「利他に基づく自立」を果たすところから始まる「自由」という教義です。本書は、キリスト教成立以前の古代ギリシア・ローマ世界とヘレニズム世界における思想状況を概観し、キリスト教の成立が古代(ユーラシア西方)世界における画期であったことを強調します。「普遍的犠牲愛」が教義となったことにより、禁止行為を指定する戒律主義と決別し、一歩進んだ倫理観が形成されていき、その「普遍性」への志向がヨーロッパ近代を準備した、というわけです。カトリックは、名称の由来からしても「普遍性」を強く志向していたということで、本書はカトリックの「名誉回復」を図ろうとしているのでしょうか(邪推かもしれませんが)。
また、ギリシア世界でアリストテレス以前に見られたような、「真理」は人間から分断されているという決定論的な考えから抜け出したアリストテレス的科学観をカトリックが神学の基礎にして、さらに各都市国家内部の「共通善」だけが道徳規範の合意や言論の方法を規定するアリストテレス的科学観の限界をカトリックが乗り越えていったことも、近代化における前提としてキリスト教の「功績」とされています。カトリックがアリストテレス以前のギリシア世界に見られたこうした決定論的世界を脱却できた前提として、この世のすべては神の被造物であるから、それを人間が理解できないわけはない、とする「人間中心的」なカトリックの思考を本書は指摘しています。本書は、「ユマニスム」は「人間中心主義」の一神教から始まったキリスト教のそうした世界観からの延長に形成されたのであり、ルネサンス期における古代ギリシアの再発見により形成されたのではない、と主張しています。
キリスト教の「普遍性」志向は、「進歩主義」・「基本的人権」・「ユマニスム」という精神態度をもつヨーロッパ近代を少しずつ形成していったとする本書は、ヨーロッパの近代化にさいして基準となったキリスト教の設計思想は、カトリックとプロテスタントのどちらに由来するのかにより違いがある、と指摘します。本書は前者をフランス共和国に、後者をアメリカ合衆国に代表させるような形で議論を進めていますが、とくに2001年の同時多発テロ以降の米国の迷走を強調し、フランス的な近代の在り様に今後の希望を託す、という論調が強いように思います。正直なところ、ここは私の見識では判断できないので、今後も考えていかねばなりません。
本書は全体的に、カトリックとフランスにかなり甘く、プロテスタントやイスラームや米国に厳しい論調になっているように思うのですが、これは私の偏見かもしれません。現代日本社会にたいしても、プロテスタントや近代主義者の「創り上げた物語」をそのまま受容するのではなく、キリスト教が近代社会の形成に果たした役割を根本から考えなければならない、と厳しい視線が向けられています。それなりに面白く読めましたが、本書の少なからぬ見解については、判断を保留するというか今後も考えていく必要があるな、と強く感じたものです。なお、明らかな誤りとしては、1220年に即位したフリードリヒ2世が、神聖ローマ皇帝ではなく東ローマ皇帝とされている記述があります(P108)。第2刷以降があれば、訂正されているかもしれませんが。
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