村井良介『戦国大名論 暴力と法と権力』

 これは2月24日分の記事として掲載しておきます。講談社選書メチエの一冊として、講談社より2015年9月に刊行されました。本書の特徴の一つは、一般向け書籍としては珍しいくらい、研究史への直接的言及が多いことです。研究史の整理を直接読者に提示することにより、問題の所在を浮き彫りにする、という狙いがあるようです。また、フーコー(Michel Foucault)の権力論やゲーム理論など、歴史学以外の分野の研究成果を積極的に援用していることも本書の特徴と言えるでしょう。そのため、本書は歴史理論・歴史哲学的性格の強い一般向け書籍になっているように思います。その分、一般向け書籍としてはやや難解になっているようにも思われ、私も、今後時間を作って本書を何回か読み直そう、と考えています。

 本書のもう一つの特徴として挙げられるのが、近世の社会状況を前提として、そこへの達成度を基準に戦国時代やそれ以前の中世社会を把握・評価することへの批判です。これと大いに関連して、法と暴力といった二元論的な把握も強く批判されており、相互依存的であることと、総体的に把握することの重要性が強調されています。結果論的な歴史把握・認識と、通俗的には対立すると考えられることの多い要素を、単純に対立的なものと把握・認識する二元論的な見解への批判が、本書の基調になっているように思われます。

 やや具体的に言うと、主従制的・私的・人格的支配と、統治権的・公的・非人格的支配という二元論です。中世は前者、近世は後者で、恣意的・暴力的支配の中世から法的・機構的支配の近世へと移行した、という歴史認識のもとに、戦国時代は把握されます。この認識のもとに、戦国時代の各勢力のさまざまな特徴は先進的もしくは後進的と評価されます。たとえば、戦国大名の配下には複数の戦国領主がおり、それぞれ独自の「領」と「家中」を保持しています。大名のもとに「領」や「家中」が一元化されていないのは、統治体制が未熟だからであり、それは近世に向かって解消されざるを得なかった、と評価されます。

 しかし本書は、近世の社会状況を前提として、そうなることが歴史の必然であるかのように把握し、それが部分的にしか達成されていない戦国時代の状況を未熟・後進的と評価する見解を批判し、恒常的な戦乱状態だった戦国時代において、戦国領主が独自の「領」と「家中」を保持する体制に合理的なところが多分にあったことを指摘します。近世の社会状況を必然とし、その前史として戦国時代を把握・評価するのではなく、戦国時代独自の特質を明らかにし、その文脈で戦国大名という概念設定が有効なのかどうかが問われなければならない、というのが本書の見解です。

 法と暴力を対立的に把握するような二元論的認識への強い批判も本書の特徴です。法と暴力は対極にあるのではなく、両者とも権力関係のなかにあって作用し、支配状態の形成にさいして複合して重要な役割を果たしている、というわけです。暴力も法も権力そのものではなく、一方に暴力による支配、他方に法による支配があるというような二項対立の図式になっているわけではない、というのが本書の見解です。また本書は、権力は本質的には可動的ではあるものの、多くの局面では固定的であり、その権力への人々の信頼性が失われる時に、可動的であるという権力の本質が顕現する、との見通しを提示しています。戦国時代の到来もそのように把握できる、ということなのでしょう。

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