黒嶋敏 『天下統一 秀吉から家康へ』

 講談社現代新書の一冊として、講談社より2015年11月に刊行されました。本書は、武威という視点からおもに「対外」関係を対象として豊臣秀吉と徳川家康の「天下統一」を検証しており、なかなか興味深く読み進められました。「対外」関係の点でも豊臣政権と徳川政権には連続性が認められ、それは武家政権たる両者が武威に基づき支配体制を構築してきたからだ、というのが本書の見通しです。天下人たる秀吉・家康と同じく、諸大名も武威により地域的な支配体制を構築しており、天下人が武威を掲げて統一を進めたことを諸大名が受け入れた要因になった、と指摘されています。

 この武威による支配体制の構築・強化は、「対外」関係にも向けられました。武威により支配を強化していった天下人は、支配の維持・安定化のためにさらに武威を高めていかねばなりません。しかし、服属した「国内」の勢力を武威の対象とすることはできません(たとえば、壮麗な城郭は「より平和的な武威」として軍事行動の代替になる、と言えるかもしれませんが)。武威により達成された天下統一は即天下泰平を意味するわけではなかった、と本書は指摘します。そこで、「境界」の外にある政治勢力が、天下人にとって新たな武威の対象になった、というのが本書の見通しです。

 本書は秀吉の「唐入り」をそうした文脈で解釈しています。これには、朝鮮半島の政治勢力を日本の下位に位置づけるという古代以来の伝統的な観念も影響していました。秀吉の主観では、本来は自身に服属すべきなのにそうしなかった朝鮮は征伐の対象になった、というわけです。一方、明というか中華王朝は、伝統的に日本とは対等とされてきましたが、じっさいには敬慕の対象でもあり、実質的に日本より上位である、との認識もあったようです。本書は、秀吉や諸大名や知識層の反応から、秀吉が明より(一時的とはいえ)日本国王に冊封されたことが秀吉にとって名誉であり、家康もその路線を踏襲しようとした、との見解を提示しています。この問題については、私も今後調べていこう、と考えています。

 家康は、朝鮮との国交回復の実現や明との外交交渉などから、好戦的で無謀な秀吉との対比で平和派との印象も一部で抱かれているようです。しかし本書は、武家政権の棟梁たる家康も武威の論理に基盤を置いていたのであり、じっさい、秀吉ほど直接的ではないにしても、武威を背景に琉球・朝鮮・明と交渉していたことから、豊臣政権と初期徳川政権との連続性を指摘しています。徳川政権で島津家による琉球への侵攻を例外として対外出兵が行なわれなかったのは、諸大名が在国する体制が定着してきたからではないか、と本書は指摘しています。

 本書では色々と興味深い見解が提示されています。関ヶ原の戦いで西軍だった島津家が本領を安堵された理由として、島津家の西軍への加担は全面的なものではなかったことともに、島津家が明や琉球との窓口だったからではないか、と指摘されています。同様に対馬の宗家も、朝鮮の窓口だったため、西軍に加担しながら本領を安堵されたのだろう、と本書は指摘しています。秀吉が天下人の地位として将軍ではなく関白を選択した理由として、本書は偶然的な要素が強かったことを指摘しています。本書はそれと関連して、家康の将軍就任も天下人として必然だったのではなく、豊臣政権の一員だった家康が、関白は幼少の者には許されないため、武家政権の棟梁の地位として相応しくない、とその限界を見抜いていたからではないか、との見解を提示しています。

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