倉本一宏『蘇我氏 古代豪族の興亡』
これは1月6日分の記事として掲載しておきます。中公新書の一冊として、中央公論新社から2015年12月に刊行されました。本書は、蘇我氏は葛城方を地盤とした複数の集団の中から有力な集団が編成され独立して成立したのであり、記紀に見える「葛城氏」とは蘇我氏が作り上げた祖先伝承である、との見解を提示しています。この見解の前提にあるのは、日本列島において氏という政治組織が成立したのは6世紀初頭である、との歴史認識があります。蘇我氏は曽我の地を地盤とすることにより氏として成立し、葛城集団の勢力の大多数を支配下に収め、葛城集団の有していた政治力・経済力や、対朝鮮外交の掌握や渡来人との関係、大王家との姻戚関係という伝統も掌中にしたのであり、その成立時より突出した政治力・経済力・尊貴性を倭王権から認められた存在だった、というのが本書の見解です。
本書の特徴は、ほぼ同時期に刊行された岩波新書の吉村武彦『蘇我氏の古代』(関連記事)よりも長く、平安時代以降、さらには中世をも視野に入れて蘇我氏の盛衰を取り上げていることです。蘇我氏は乙巳の変により滅亡した、との誤解が一部ではあるのかもしれませんが、本書はそうした誤解を強く意識しており、乙巳の変後も蘇我氏が左大臣や右大臣などといった朝廷での高い地位に就いており、娘を天皇(大王)のキサキとするなど、尊貴性を維持していたことを強調しています。
蘇我氏にとって乙巳の変以上に大打撃になったと言えるのが壬申の乱で、これ以降に大臣に就任した蘇我氏一族はいません。奈良時代にはそれでも公卿にまで昇進した蘇我氏(壬申の乱後、7世紀後半に蘇我氏は石川氏と改めます)もいましたが、平安時代前期にはすっかり中級貴族にまで地位が低下し、摂関期ともなると下級貴族にまでその地位が低下してしまいました。こうして地位が低下するなか、かつての栄光にすがったといすうことなのか、9世紀後半に石川氏から宗岳氏へと改めています。
このように平安時代には、大伴・物部・阿倍・巨勢・紀などといった大化前代の有力豪族層と同様に、蘇我氏もすっかり没落してしまいました。しかし本書は、奈良時代半ば頃までは蘇我氏の尊貴性が維持されており、藤原氏が朝廷で隔絶した地位を確立するには、蘇我氏(石川氏)出身のキサキを失脚させるなど、蘇我氏を排除する必要があったことを指摘しています。また、皇族(王族)との姻戚関係により朝廷での隔絶した地位を築いていくなど、藤原氏の権勢はかつての蘇我氏を模倣したところがあり、そもそも藤原氏の隔絶した地位を確立した不比等は、蘇我氏の女性との婚姻により蘇我氏の尊貴性を継承したのではないか、とも指摘されています。本書も、岩波新書の『蘇我氏の古代』と同じく、蘇我氏についての入門書的な良書になっている、と言えるでしょう。
本書の特徴は、ほぼ同時期に刊行された岩波新書の吉村武彦『蘇我氏の古代』(関連記事)よりも長く、平安時代以降、さらには中世をも視野に入れて蘇我氏の盛衰を取り上げていることです。蘇我氏は乙巳の変により滅亡した、との誤解が一部ではあるのかもしれませんが、本書はそうした誤解を強く意識しており、乙巳の変後も蘇我氏が左大臣や右大臣などといった朝廷での高い地位に就いており、娘を天皇(大王)のキサキとするなど、尊貴性を維持していたことを強調しています。
蘇我氏にとって乙巳の変以上に大打撃になったと言えるのが壬申の乱で、これ以降に大臣に就任した蘇我氏一族はいません。奈良時代にはそれでも公卿にまで昇進した蘇我氏(壬申の乱後、7世紀後半に蘇我氏は石川氏と改めます)もいましたが、平安時代前期にはすっかり中級貴族にまで地位が低下し、摂関期ともなると下級貴族にまでその地位が低下してしまいました。こうして地位が低下するなか、かつての栄光にすがったといすうことなのか、9世紀後半に石川氏から宗岳氏へと改めています。
このように平安時代には、大伴・物部・阿倍・巨勢・紀などといった大化前代の有力豪族層と同様に、蘇我氏もすっかり没落してしまいました。しかし本書は、奈良時代半ば頃までは蘇我氏の尊貴性が維持されており、藤原氏が朝廷で隔絶した地位を確立するには、蘇我氏(石川氏)出身のキサキを失脚させるなど、蘇我氏を排除する必要があったことを指摘しています。また、皇族(王族)との姻戚関係により朝廷での隔絶した地位を築いていくなど、藤原氏の権勢はかつての蘇我氏を模倣したところがあり、そもそも藤原氏の隔絶した地位を確立した不比等は、蘇我氏の女性との婚姻により蘇我氏の尊貴性を継承したのではないか、とも指摘されています。本書も、岩波新書の『蘇我氏の古代』と同じく、蘇我氏についての入門書的な良書になっている、と言えるでしょう。
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