呉座勇一『一揆の原理』
これは1月24日分の記事として掲載しておきます。ちくま学芸文庫の一冊として、筑摩書房より2015年12月に刊行されました。本書の親本『一揆の原理 日本中世の一揆から現代のSNSまで』は、2012年に洋泉社より刊行されました。本書は日本史上における一揆がどのような原理に基づいているのか検証し、じゅうらいの一揆像の見直しを提言しています。じゅうらいの一揆像とは、たとえば戦後日本社会でもてはやされた階級闘争史観に基づくものです。一揆とは反体制・革命運動である、といったものです。一方、1970年代後半~1980年代以降には、階級闘争史観にたいする批判的な視点として、社会史的な一揆像が支持を集めました。しかし本書は、社会史的な一揆像にしても、階級闘争史観の影響を払拭できていないところがあり、進歩史観・ヨーロッパ中心史観的な残滓が見られる、と批判します。
本書はまず、竹槍で決起するという、現代日本社会において一般的と言えるだろう一揆像の一例を批判しています。このような一揆像は、せいぜい近代初期のごく短期間でしか妥当ではない、というわけです。本書はさらに、中世と近世における一揆の違いを検証し、近世における一揆の変容と、中世にこそ一揆の本質が顕現していることを指摘します。多様な人々が武装して一揆に参加し、一揆に肯定的だった中世から、武装と武力行使に抑制的で、参加者が百姓に限定されていった近世への変化というわけです。ただ本書は、中世においても近世においても、一揆は権力の打倒・革命を目的としておらず、基本的には社会的に上位の枠組みを認めつつ、自らの利害を主張していた一種のデモだった、とも指摘しています。一揆には権力との慣れ合いという側面があった、というわけです。
本書は、一揆の本質は中世に顕現しているとして、中世の一揆を詳しく検証しています。その検証から本書は、「一味同心」に基づく訴えは合理的判断を超越した絶対的正義であり、その主張の是非の論理的検討も許されない、との観念が一揆の根底にある、と指摘します。本書は、そうした一揆の正義を支えていたものとして、中世においては珍しかった平等性の担保を挙げています。ただ本書は、それは世俗の縁を切断するという側面も認められるものの、社会史で言われていたような「無縁」空間の創出というより、新たな「縁」を生み出す行為であった、とも指摘しています。この点もそうですが、本書は、社会史で強調されていたような、一揆の契機として確たる信仰心があり、中世人と現代人とでは心性に大きな違いがあった、との見解について批判的です。もちろん本書も、中世社会と現代社会との違いは認めています。しかし、社会史で一部主張されていたほどには、中世人と現代人の心性に大きな違いはなく、中世の一揆には現代社会とも通ずるような「合理的」で「現実的」な契機があったのではないか、というわけです。
本書は、おもに中世の一揆を対象に、近世の一揆とも比較しつつ、新たな一揆像を提示しており、私のような門外漢にも楽しめる興味深い一冊になっていると思います。「すべての歴史は現代史である」以上、当然のことかもしれませんが、本書は現代社会の問題を強く意識して、日本史上の一揆を考察しています。本書は、さまざまな問題を抱える現代日本社会に、前近代の一揆が重要な示唆を与えるのではないか、と指摘しています。現代日本社会において、本書が提示した一揆の原理がどこまで有効なのか、私程度の見識ではとても的確な判断はできませんが、本書が言うように、「一揆の思想」が現代的意義を有することは間違いないでしょう。
本書はまず、竹槍で決起するという、現代日本社会において一般的と言えるだろう一揆像の一例を批判しています。このような一揆像は、せいぜい近代初期のごく短期間でしか妥当ではない、というわけです。本書はさらに、中世と近世における一揆の違いを検証し、近世における一揆の変容と、中世にこそ一揆の本質が顕現していることを指摘します。多様な人々が武装して一揆に参加し、一揆に肯定的だった中世から、武装と武力行使に抑制的で、参加者が百姓に限定されていった近世への変化というわけです。ただ本書は、中世においても近世においても、一揆は権力の打倒・革命を目的としておらず、基本的には社会的に上位の枠組みを認めつつ、自らの利害を主張していた一種のデモだった、とも指摘しています。一揆には権力との慣れ合いという側面があった、というわけです。
本書は、一揆の本質は中世に顕現しているとして、中世の一揆を詳しく検証しています。その検証から本書は、「一味同心」に基づく訴えは合理的判断を超越した絶対的正義であり、その主張の是非の論理的検討も許されない、との観念が一揆の根底にある、と指摘します。本書は、そうした一揆の正義を支えていたものとして、中世においては珍しかった平等性の担保を挙げています。ただ本書は、それは世俗の縁を切断するという側面も認められるものの、社会史で言われていたような「無縁」空間の創出というより、新たな「縁」を生み出す行為であった、とも指摘しています。この点もそうですが、本書は、社会史で強調されていたような、一揆の契機として確たる信仰心があり、中世人と現代人とでは心性に大きな違いがあった、との見解について批判的です。もちろん本書も、中世社会と現代社会との違いは認めています。しかし、社会史で一部主張されていたほどには、中世人と現代人の心性に大きな違いはなく、中世の一揆には現代社会とも通ずるような「合理的」で「現実的」な契機があったのではないか、というわけです。
本書は、おもに中世の一揆を対象に、近世の一揆とも比較しつつ、新たな一揆像を提示しており、私のような門外漢にも楽しめる興味深い一冊になっていると思います。「すべての歴史は現代史である」以上、当然のことかもしれませんが、本書は現代社会の問題を強く意識して、日本史上の一揆を考察しています。本書は、さまざまな問題を抱える現代日本社会に、前近代の一揆が重要な示唆を与えるのではないか、と指摘しています。現代日本社会において、本書が提示した一揆の原理がどこまで有効なのか、私程度の見識ではとても的確な判断はできませんが、本書が言うように、「一揆の思想」が現代的意義を有することは間違いないでしょう。
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