感情が促進した現生人類の拡散

 これは12月3日分の記事として掲載しておきます。現生人類(Homo sapiens)の拡散と感情との関係について検証した研究(Spikins., 2015)が報道されました。本論文が前提としているのは、人類の拡散は10万年前以降に大きく変わった、という認識です。現生人類の10万年前以降の拡散は、じゅうらいよりずっと速くなり、範囲も広がった、というわけです。アウストラロピテクス属やパラントロプス属の生息範囲は、アフリカの森林や森林と草原の混在するような環境に限定されており、初期ホモ属でも、ハビリスやルドルフェンシス(Homo rudolfensis)も同様だった、と本論文は指摘しています。なお、ハビリスやルドルフェンシスについては、ホモ属ではなくアウストラロピテクス属や別の新たに設定すべき属に区分すべきだ、との見解もあります(関連記事)。

 真のホモ属として異論のない広義のエレクトス(Homo erectus)は、170万~160万年前頃(本論文の認識はそうなっていますが、グルジアのドマニシ人の存在からもっとさかのぼる可能性が高そうです)にアフリカから拡散しましたが、あくまでも故地のアフリカと同じく草原環境に進出した、と本論文は指摘します。本論文は、ハイデルベルゲンシス(Homo heidelbergensis)についても、アフリカから北方のヨーロッパへと進出したものの、それは温暖な期間のことだった、との認識を提示しています。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)については、じゅうらいの人類の拡散範囲よりも寒冷な地域に拡散したものの、それはゆっくりとした適応だった、と本論文は指摘します。

 本論文は、10万年前以降の現生人類の拡散は、それ以前の人類の拡散とは大きく異なる、と強調しています。10万年前以降の現生人類は、デルタ地帯や砂漠やツンドラやジャングルといった人類には厳しい環境の地域へと進出したり、そうした地域を横断したりし、ついには海を渡り、それ以前には他系統の人類がまだ存在しなかった、オーストラリア大陸(寒冷期にはサフルランドの一部)にまで進出し、完新世になってからのことではありますが、太平洋の広範な島々に拡散していきました。このように10万年前以降の現生人類の拡散は、その速度と範囲において、それ以前の人類の拡散とは大きく異なっている、と本論文は強調します。

 こうした変化がいかなる要因によるものなのか、本論文は検証しています。本論文は、人口増と気候変化だけでは、こうした劇的な変化は説明できない、と指摘します。さらに本論文は、技術革新は拡散に重要な役割を果たすものの、現生人類がネアンデルタール人などの先住人類に優位に立つ要因となったであろう、遠距離投擲具、とくに弓矢の技術などが顕著に発達したのは10万年前よりも後のことだとして、技術革新がこうした変化をもたらした決定的要因になったわけではないだろう、との見解を提示しています。

 本論文がこうした変化の要因として挙げているのが、感情面の問題です。とくに、道徳的感情に深く関わっている、信頼への裏切りにたいする処罰・報復感情が、現生人類の拡散を急速かつ広範囲なものにしたのではないか、と本論文は指摘しています。そのような感情により危害を加えられることや紛争が生じることを避けるために、集団内で対立する一方の人々や、他集団と対立することになった以前には同盟者的な存在だった集団は、時には人類にとっての障壁も越えて遠方へと移動していったのではないか、というわけです。

 本論文は、人口増加や気候変化などといった即時的で実用的な理由では、オーストラリア大陸のように渡海の必要な地域への拡散は説明しにくく、処罰・報復感情による紛争・被害を避けることが誘因だとしたら、急速な拡散を説明しやすいのではないか、と主張しています。また本論文は、毒矢のような技術革新は、そうした処罰・報復の実践を容易にしたのであり、それも現生人類の拡散を促進したのではないか、と推測しています。現生人類は、信頼を裏切った、不正を行なった人々に対する強い処罰・報復感情を抱き、実践するようになり、それが道徳的感情と深く関わっているとともに、人類にとって障壁となる地域も含めての拡散を促進した、というわけです。

 以上、本論文についてざっと見てきました。道徳的感情の強化という観点から10万年前頃以降の現生人類の拡散を説明する本論文の見解は、興味深いと思います。ただ、信頼への裏切りにたいする処罰・報復感情は後期ホモ属には普遍的に存在するものであり、人口増加や技術革新や認知能力の向上などにより、現生人類は気候変動にもより迅速に対応できるようになって、その拡散が速くなり、範囲が拡大した、と考えることもできるように思います。その意味では、10万年前以降の拡散の速度と範囲の変化について、道徳的感情の強化という観点がどこまで有効なのか、今後の検証が進展することを期待しています。


参考文献:
Spikins P.(2015): The Geography of Trust and Betrayal: Moral disputes and Late Pleistocene dispersal. Open Quaternary, 1, 10, 1–12.
http://dx.doi.org/10.5334/oq.ai

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